「歩き」から「走り」も奮闘中

「腰部脊柱管狭窄症」の手術を終えて2カ月あまり、もっぱら1日平均1万数千歩の「歩き」でリハビリに努めてきたが、そろそろ「走り」もやらねばと、自宅近くの川の土手を走ってみた。ところが、足元がどうもおぼつかない。我ながらよたよたしている。速足で歩いている人にも追い抜かれる始末で、まことにみっともない。

走りの体力を取り戻すには、どうすればいいのかなあ。ふと、80歳でエベレストに登頂した冒険家の三浦雄一郎さんのことが頭に浮かんだ。そうだ、エベレストというわけには、とてもいかないけれど、来年夏あたり「富士登山競争」に挑戦してみようか。「夢」というほどではないけれど、何か高い「目標」がないと、元気も出てこない。

富士登山競争というのは、標高770メートルの富士吉田市役所から標高3711メートルの富士山頂・久須志神社までの21キロメートル、高低差3000メートルを駆け上る競争で、1948(昭和23)年に始まった。山頂コースのほかに、5合目までのコースもある。毎年7月に行われるが、今年はコロナ禍で中止になっている。

実は僕もこれに過去3回、参加している。最初は40年以上前、たしか僕が38歳の時だった。当時はサッカーを熱心にやっていたし、体力には自信があった。当然、山頂コースに参加した。ところが、これが思ったよりもきつい。山頂コースよりもあとで出発した5合目コースの人たちにも追い抜かれる。僕の体力では5合目がやっとだった。幸いというか、その日は山頂の天候が悪く、山頂コースは5合目で打ち切りになった。

翌年も山頂コースに参加したが、申し込む時から5合目での脱落を予定していた。つまり、最初から5合目コースに参加すれば、下手すると、最下位でゴールなんてこともありそうだ。そこで、5合目コースより先に出発する山頂コースに加わっておけば、そんな恥をかかないで済むだろう。まことにずるい策略だった。

それから、ずいぶんと月日は経って2013年、72歳の時にまた富士登山競争に参加した。走ることが大好きな息子から誘われたからだ。この富士登山競争は年々、人気が高まり、山頂コースはそれなりの実績がないと参加できなくなっている。当然、5合目コースに申し込んだ。標高770メートルの富士吉田市役所を出発したあと、標高1400メートル余りの「馬返し」までの11・5キロほどは普通の舗装道路である。市役所と馬返しとの標高差は600メートルほどで、坂道が続く。馬返しとは、ここまでは馬で来られるが、これ以降は勾配が急になり、馬では無理という意味だろう。ここから5合目までは4・5キロほどある。距離自体はそれほどではない。

そして当日朝、富士吉田市役所から勇んで走り出したが、わずか11・5キロの坂道が僕にはこんなにきついとは思ってもいなかった。三十数年前は馬返しからあとはきつかったが、その前については記憶がない。何も感じず、普通に走っていたのだろう。ところが、今回はすぐ最下位になり、時には歩いたりした。地元のテレビ局が取材に寄ってきた。

だけど、自慢?したいのは、そんな僕でもなんとか5合目のゴールまでたどりついたことだ。もちろん最下位で、制限時間をかなり過ぎていたが、途中で脱落者を何人も見ている。脱落しなかっただけ、僕のほうが立派である。来年の7月には、それから8年が過ぎている。もし参加したら、どういうことになるだろうか。

もうひとつ、走りの「目標」として、サッカーの再開も思い浮かんだ。僕は60歳まで勤め先の新聞社のサッカー部で一応、現役としてプレーしていた。新聞社を定年退職した後は中国で暮らすことが多くなったので、その後の20年ほどは、プレーからは遠ざかってしまった。もう一度、やろうかなあ。日本人はおじいさんもおばあさんも元気な人が多く、60歳以上のサッカーチームなんて、いくらでもある。

幸いなことに、僕の長年のサッカー友達で、同年配の男がそんなサッカーチームを率いていて、毎週1回ずつ数時間、練習に励んでいる。このチームに入れてほしいと頼めば、すぐにOKだろう。ところが先般、練習を見に行ってみると、かなりきつそうだ。おじいさんたちの体の動きも実に軽く、参加には二の足を踏む。でも、半年やそこら鍛錬に励めば、しょせんは同年配なのだから、ついていけないこともないだろう。

そんなことをさっきの友人に話したら、「最近はウォーキングサッカーというのもあって、けっこう楽しいよ。どう?」とのこと。うーむ、「夢」だの「目標」だのと、大きく出たけど、これからの僕にはしょせん、その程度が適当だろうか。