「超」親切な人々

自宅近くの郊外電車の駅で、2階にある改札口を出た。普段なら1階まで階段を下りるのだけど、今日はリュックの荷物が重い。隅の方に1台だけあるエレベーターに向かって歩き出し、乗り口まで20メートルほどのところに来た。すると、エレベーターの乗り口にいるおじさんが僕に向かって「早くおいで、おいで」と言うように、盛んに手を振るではないか。意味はすぐに分かった。「エレベーターがまもなく1階から2階に上がってきますよ。お早くどうぞ」。ご親切なことである。僕は少し足を速め、「ありがとうございます」と言いながら、エレベーターに乗り込んだ。

この種の親切には初めて遭ったが、僕だって、まんざら不親切な人間ではない。では、僕ならこんな場合、どうするだろうか。エレベーターで1階に降りながら考えた。僕だと、エレベーターに近づいてくる人を目にしても、このおじさんのように手を振ったりはしない。勝手にエレベーターに乗り込み、「開」のボタンをしばらく押しているはずだ。それでも親切なことは親切なのだが、このおじさんの親切には「超」がつくかもしれない。

以前、鎌倉に行った折、予約したホテルに行こうとしたが、初めてのところなので夜の道に迷ってしまった。ちょうど目の前にあったコンビニに入り、カウンタ-の若い女性に尋ねると、彼女はさっと店の前に出て、そのホテルの前まで僕を連れて行ってくれた。角を3度ばかり曲がり、百数十メートルは歩いただろうか。説明を聞くだけでは、よくは分からなかったはずだ。これも「超」のつく親切である。

コンビニには上司らしい男性もいたが、「勝手に店を空けた」なんて、あとで叱られなかっただろうか。店で何も買わなかったのも申し訳なかった。翌日、お礼がてらそのコンビニに寄ろうとしたが、今度はそこが見つけられず、失礼してしまった。

「超」のつく親切でほかに思い出すのは、花粉症のような症状がするので先日、自宅近くの耳鼻咽喉科の医院に行った時のことだ。待合室にいて、僕は何回か咳をした。実は僕は昔から「気管支喘息」の気があり、それほどひどくはないのだけど、時々せき込むことがある。この時もそうだった。すると、少し離れたところにいたおばさんがすっと寄ってきて「これ、どうぞ」と何かを差し出した。見ると、咳止めのトローチが2錠だ。ありがたく頂戴したが、実は同じものを僕も常時、リュックに入れて持ち歩いている。それなのに、おばさんの「超」親切に先を越されてしまった。

ある日、散歩していたら、太ももの筋肉が少し痛くなった。おや、歩き過ぎからくる疲れかな? ちょっと立ち止まって、脚の屈伸運動をしていた。前方から自転車に乗ったおばさんがやってきた。おばさんからは「大丈夫ですか」という声がかかった。「大丈夫です」とは返事したものの、世の中には、この程度のことでも見ず知らずの人間を心配してくれる人がいるのだ。

あれは、もっぱら短パンを履いていたから去年の秋のことだった。わが家の近くの川の土手で道路を舗装する工事が行なわれていて、あちこちに砂利がたくさん置かれていた。散歩の途中、その砂利の上を歩こうとして滑って転倒し、右足の膝に結構大きな擦り傷を作ってしまった。すぐに治るだろうと放っておいたが、なかなか治らない。結局は外科の医院に行くほどだったが、絆創膏などは貼らず、傷口は空気にさらしていた。

そんな格好で散歩していると、前方から歩いてきた40歳ぐらいの女性が「どうしたんですか? ひどい傷ですね。大丈夫ですか」と、僕に近寄ってきた。「大丈夫です。工事現場の砂利の上で転びましてね」と答えて、そのまま別れ別れになったが、彼女の真剣な目つきが印象に残っている。

さっき「僕だって、まんざら不親切な人間ではない」と書いた。人込みで白杖を持っている人を見つけたら、肩を貸して差し上げる。満員電車で僕が席に座っていても、腰かけたそうな人が現れたら、さっと席を立つ。でも、道路で脚の屈伸運動をしているだけ、あるいは、膝に擦り傷があるだけの赤の他人に近づいて行ったりはしない。

ただし、例えば道路に倒れてうめいている人を見掛けたら「どうしましたか」と声を掛けるはずだ。逆に言うと、そこまで極端にならないと、僕の親切心は湧いてこない。どうやら、僕の親切心の「感度」はかなり鈍いのだろう。そんな気がする。