水中は「天国」みたい

プールに通いだして満5か月になった。三日坊主のことが多い僕にしては珍しく、週に3回のペースは崩れない。暇にあかせて、多いときには4回も行く。成果は?と聞かれると、返答に困るのだが、なんとなく楽しい。通うのが全く苦にならない。

「プール」とは言っても、「泳ぐ」よりも「水中ウォーク」が主で、1回に25メートルのプールを往復20回から30回、距離にすると、1キロから1.5キロを歩いている。大したことはないようだが、それなりに疲れてくる。往復10回、つまり0.5キロを歩くのに、20分ほどかかる。1.5キロだと1時間である。

水中ウォークを始めて最初の頃は、30分も1時間も、ただ25メートルのプールを行ったり来たりするなんて、退屈だなあと思っていた。ところが、だんだんそんな感じがしなくなってきた。景色の変化もないところを、ひたすら歩いているだけなのに、なんとも気持ちがいい。生命は海から生まれたそうだが、なるほど「むべなるかな」という気持ちにもなってくる。

午前中、プールに早めに行くと、水中ウォークでよく顔を合わせる年配の女性がいる。ゆっくりとした歩きだが、しっかりとしていて、どこと言って不自然なところはない。ところが、プールから上がった姿を見ると、彼女は壁に伝わってやっと歩いている。階段の上り下りは手すりにつかまって、さらに大変そうだ。横で同年輩の女性が手助けしている。

ことほどさように、水中を歩くのは、地上を歩くのに比べて、随分と楽なようなのだ。僕も、これまで何度か書いてきたように、この10年来、脊柱管狭窄症というのを患っていて、地上を歩いていると、時には足が痺れてきたりする。ところが、水中だと、全くそんなことがない。これだけに限れば、水中はまるで「天国」みたいである。

ところで、ウォークではなくて、先般(6月1日付)情けない話を書いた「泳ぎ」のことだけど、わずかずつではあるけど、進歩はしているようだ。ただし、指導員によるレッスンのクラスは、上から「上級」「中級」「初級」「初心者」と4つあるのだが、僕はいまだに「初心者」にとどまっている。

どのクラスのレッスンを受けるかは、全く個人の自由なので、僕も「そろそろ上のクラスに・・・」と、初級に何回か参加してみた。クロールや平泳ぎなら、ある程度はできる。まあ、なんとかなるだろう。

ところが、勝手がいささか違った。同じクロールでも、初心者クラスでは10メートル泳げば、指導員からOKが出る。ところが、初級クラスでは25メートルを泳がされる。途中で立ってもいいのだけど、僕には25メートルというのが、まだきつい。

背泳の初級クラスに出てみた時も、情けない思いをした。僕は高校生の頃、クラス対抗の水泳大会で、背泳の25メートルを泳いだことがある。成績は芳しくなかったものの、一応は泳いでいる。まだ泳ぎ方をいくらかは覚えているだろうと思ったのだが、レッスンでは体が全く浮かずに沈んでいく。早々に退散した。

いま僕にできるのは、クロールか平泳ぎで十数メートル、息継ぎをしないで泳ぐことである。息継ぎをすれば、まだまだ泳げるのだろうが、今のところ、その息継ぎがうまくできない。したがって、25メートルを泳ごうとすれば、途中で1回か2回、立ち上がるという、みっともないことになる。

聞けば、第18回アジア競技大会の競泳女子で、6冠を達成した18歳の池江璃花子さんは、最後の50メートル自由形を息継ぎなしで泳いだという。僕も50メートルは論外として、せめて半分の25メートルは息継ぎなしで泳げるようになりたい。1回か2回は息継ぎをしてもいい。そうなれば、ウォークだけではなく、泳ぎのほうも「天国」に近づいていくだろう。実際、そんな感じで悠々と泳いでいる人たちをよく見かける。よし、新しい目標ができた。そう決心したところである。

僕の「戦争」の思い出

新聞の投書欄には戦前、戦中生まれの人たちによる「戦争」の思い出がよく載る。そうだ、昭和15年(1940年)11月生まれの僕にも、それを残しておく資格、いや義務があるのではないか。また8月15日を迎えて、ふと、そんな気がした。年齢のせいもあるだろう。

当時、僕は大阪府の東のはずれ、生駒山麓の標高100メールほどのところに住んでいた。大阪市内から近鉄電車で20分ほどの村で、自宅2階の西側にある窓からは、大阪平野がそれこそ一望のもとに見渡せた。自宅の東側にある標高600メートルほどの生駒山を越えれば奈良県に入る。そんな田舎だったから、米軍機の爆撃を受けることはなかった。ただ、それなりの思い出はある。

昭和20年(1945年)3月10日は米軍による東京大空襲の日だった。この日の午前零時すぎ、300機のB29爆撃機と33万発以上の焼夷弾によって、約10万人が殺された。3日後の13日深夜から14日にかけては大阪が最初の大空襲に遭い、やはり300機近いB29爆撃機によって、東京に比べれば少ないものの、約4000人が殺された。

その日、満4歳9か月の僕は自宅の2階の窓から大阪大空襲を眺めていた。僕のいる場所と大阪市との間には暗闇が広がっていたが、その先の大阪市は北から南までがまさに「火の海」だった。だけど、「怖い」「恐ろしい」と思った記憶はない。むしろ、「奇麗」と感じていたように思う。花火を眺めているような感覚だったのかもしれない。火の海を逃げまどい、焼き殺されている人たちのことは全く想像できなかった。

傍らには30歳代後半の父がいた。大阪府庁の役人だった。父が火の海を見渡しながら言った。「あ、あの辺りは親戚がいる。やられたかもしれない」。翌朝、父はいつもより早起きし、その親戚の家に向かった。当時、普通の家庭には電話などはなく、直接、訪ねて行くよりほかに方法はなかった。その後、親戚の被災については何も聞かなかったから、どうやら無事だったらしい。

大阪大空襲は8月15日の敗戦までに合わせて8回あった。そのうちのどの空襲の後かは定かでないが、ある日の夕方、父が小学校高学年くらいの一人の男の子を連れて家に戻ってきた。男の子は空襲で焼け出されて家族と離ればなれになり、大阪市内の近鉄電車のターミナルを一人でうろついていたらしい。とりあえず夕飯を食べさせ、玄関の上り口の3畳間に布団を敷いて寝かせた。翌朝、僕が3畳間をのぞきに行くと、男の子は布団をきちんとたたんで、畳の上に正座していた。朝食のあと、父は男の子を連れて出勤していった。

男の子はその後、どうなったのだろうか。父は僕には何も話さなかったし、当時の僕には尋ねてみようという考えも浮かばなかった。それから父が亡くなるまでにはまだ40年もあったのだから、聞いておけばよかったと悔やんでいる。

空襲のないわが家ではあったが、「空襲警報」だけはよく鳴り響き、そのたびに防空壕に駆け込んだ。家のすぐ裏には高さが30メートルほどの小山があり、そこに奥行10メートルくらいのかなり長い防空壕が掘られていた。他人の持ち物に勝手に穴を掘っていたわけだが、文句が出たという話は聞いていない。

8月15日のことも少し覚えている。昭和天皇の「玉音放送」は全く記憶がないが、昼過ぎ、庭先で一人で遊んでいると、坂の下のほうから「戦争は終わりました」と、大声で繰り返す男性の声が聞こえてきた。村役場の職員か誰かだったのだろう。僕は戦争で格別の被害は受けていなかったけれど、「ああ、よかった」と、開放感のようなものを感じた。

戦争が終わって、まだ間もない秋ごろだったと思う。あるいは、もっと後だったかもしれない。奇麗なお姉さんが近くに間借りした。着ているワンピースは華やかで輝いていた。近所の女性たちはまだくすんだモンペ姿だった。そんな中ではとても目立った。何がきっかけだったか、僕はお姉さんと親しくなり、ときどき彼女の部屋に遊びに行った。見たこともないようなお菓子を食べさせてくれた。いろんな小物もくれた。お菓子も小物も輝いていた。

ある日、僕と母は、家の近くに借りていた畑で農作業をしていた。そこに、さっきのお姉さんが通りかかり、お互いに声を上げて手を振り合った。僕は彼女のところに飛んで行った。ところが、母はなぜか険しくて不機嫌な顔をしていた。なぜだろう? 不思議に思ったが、母は何も言わなかった。

随分あとになって思ったことだが、奇麗なお姉さんは多分、米軍将兵相手のその種の女性だったのだろう。「パンパン」「パン助」あるいは「オンリー」「オンリーさん」などと呼ばれる日本人女性がいた。当時30歳代半ばだった母は、そのことを僕に告げることもできず、ただ険しい顔をするのが精いっぱいだったのかもしれない。

彼女はいつの間にか、近所から姿を消してしまった。新聞の投書欄に載る話とは迫力において比べ物にならないけれど、僕には彼女の「ワンピース姿」と、さっきの男の子の「正座姿」が、70年以上が過ぎた今も、脳裏にくっきりと残っている。

日本の「影」の行方

サッカーのワールドカップで日本が健闘したおかげで、中国での日本の「株」が上がったようだ。「アジア人の誇りだ」と、わがことのように喜んでくれる中国人もいる。嬉しいことだけど、最近の中国では日本語を学ぶ若者が減ってくるなど、一般に日本の「影」が薄れてきているようだ。ほぼ3年前のこのブログで「薄れゆく?日本の影」と題して書いたこともある。

3年後はどうなのか? 僕自身、ここ3年ほどは中国本土への足が遠のき、日本の影が濃い台湾をもっぱら訪れている。勝手なもので、ワールドカップをきっかけに、本土の状況が気になってきて、中国の旧知に問い合わせてみた。

まずは黒竜江省ハルビンからの報告――僕は2001年秋から5年間、ハルビン理工大学日本語科で教えたことがある。3年ほど前に日本語科設立30周年の記念式典に招かれた際には、日本語科は各学年とも5学級ずつあって、まずまずだった。今もやはり5学級ずつあるとのことで、ほっとした。

ただし、日本式に言えば、こういう国公立の大学の日本語科はなんとかやっているものの、私立の大学の日本語科は苦しくなっている。年によって学級が出来たり、出来なかったり、あるいは日本語科そのものをやめてしまったりという状況だ。そんな大学の日本語科の教師は仕方なく、英語科の第二外国語の担当をしている。これはハルビンに限らず、他の地方の大学でもときどき聞く話だ。教師の多くは女性で、日本に留学したりして、いろいろ苦労しただろうに、と申し訳なくなる。

こうした日本語科の衰退はハルビン理工大学の先生によると、「就職先の日本企業が少なくなってきたことと、2011年の東日本大震災の影響が大きいでしょう」とのこと。大震災のあと、日本に留学する若者の数が急減したそうだ。

広西チワン族自治区景勝地・桂林からの報告は、いささか衝撃的だった。いわく「今や桂林では、日本の影なんて、消える寸前のようです。日本人の観光客は全くと言っていいほど見かけません。日本語の学校も多くが姿を消しましたし、銀行も日本円をあまり扱わなくなりました」。僕はハルビンから桂林に移って、広西師範大学日本語科で1年間教えたあと、日本語の塾を開いていた。

僕の知る限り、桂林には10年ほど前、日本語の学校や塾が大小合わせて20ほどあった。僕が桂林で4年ほどやっていた塾も生徒は40人ほどいた。ところが、次々に戸を閉めていき、今あるのは3つだけとのこと。それらも元は観光客相手の日本語ガイドが1人でやっていて、一番大きいところでも生徒は5人ほどと寂しい。生徒が来たときだけ、教室を開けている。

そんな教室の経営者の話だと、桂林に多かった日本語ガイドは肝心の日本人観光客が来ないので、食っていけなくなった。仕方なく日本に行って、急増する中国人観光客を相手にしている。

桂林では国公立の大学も苦しい。僕が教えた広西師範大学の日本語科は当時、二十数人の学級が1学年にいくつかあったが、今は1学年1学級を設けるのがやっとだそうだ。近くの桂林理工大学にも日本語科があったが、学生が集まらなくなり、去年の秋(注:中国の学期は9月から)、4年ぶりに1学級が出来た。桂林旅遊学院というのもあり、遊びに行って日本語科の学生とも付き合ったが、今や日本語科は有名無実とのこと。状況は様変わりしている。

桂林の日本人観光客については、思い出すことがある。当時、わが塾に日本人観光客をお得意さんにする土産物屋の店員がいた。その青年から聞いた話だが、勤め先の土産物店はふだん、看板も何も出していない。戸も閉めている。そして、観光ガイドから「何日の何時、日本人の観光客を連れて行く」という連絡が入ると、その時間に合わせて店を開く。看板も掲げる。

バスで大挙してやってきた日本人観光客が帰って行くと、最敬礼して見送ったあと、看板をはずして店も閉めてしまう。偽物をつかまされた日本人が怒って戻ってきても、大丈夫なようにだ。同胞の観光客には申し訳ないけど、腹を抱えて笑ってしまった。こんな土産物店も気の毒に(?)転業か廃業を迫られたはずである。

中国の四大商業銀行のひとつで、かつては外国為替専門だった中国銀行というのがある。僕が桂林にいた頃、中国銀行に円を預けておき、必要な折に少しずつどこかの支店で下ろしていた。窓口が1つかそこらの小さな支店でも用が足りた。町には日本人も多かったから、どこの店もある程度の円を置いていた。

しかし、それはもう昔の話で、最近は市内で一番大きな支店にだけ、円が少しあるといった状況らしい。有利なレートで中国の元に交換してくれる闇屋はまだいるが、「円のやり取りがすっかり減ってしまった」と嘆いているとか。

これを盛り返すにはどうしたらいいのだろうか。中国の書店の語学のコーナーに行くと、英語がダントツだが、日本語がそれに次ぎ、いくつかの棚を持っている。だが、そのうちにそれが縮小され、ドイツ語やフランス語と一緒の「諸外国語」の棚に入れられてしまっている――そんな「悪夢」を見てしまった。

サッカーワールドカップ 中国での「報道」から

ロシアで開かれたサッカーのワールドカップで、前評判を覆して日本チームは16強入りを果たし、大いに健闘した。一方で、中国はいまだに本大会に出場できない。このあたり、日本の活躍と中国のふがいなさ――中国ではどのように報道されているのだろうか。教え子に頼んでおいたら、ネットに流れたそのいくつかを送ってくれた。

まず届いたのは、日本在住の徐静波さんという中国人ジャーナリストが東京のスポーツバーで見た日本―セネガル戦の観戦記。中国はワールドカップに縁がないので、日本に注目しなくては、と日本の友人たちと出かけた。彼は日本が2−1で勝つと予想していたが、結果は2−2の引き分け。しかし、身体能力に優れたセネガルに2度もリードされながら追いついた日本を「私たちアジア人の誇りである」とまで褒めている。

試合が終わった頃には地下鉄もないので、続けて酒を飲みながら、話題は中国のサッカーのことに。つまり、人間が14億人近くもいながら、なぜ弱いのか。彼は日中両国のサッカーに詳しい日本の友人たちの説を紹介している。

それによると、まず両国の選手に大きな差がついた原因は「飲食の管理」にある。日本の選手は合宿の折、栄養士の決めた食事を宿舎で取り、外食は禁止されている。自宅にいる時も妻や母親が栄養士の指導に基づいて飲食に気を配っている。これに対して中国の選手は合宿時、栄養士の決めた食事をあまり取らず、あとで外食に出かける。自宅に戻った折には、往々にして暴飲暴食を始める。これが両国の選手に大きな差を生んでいると言うのだ。

ワールドカップ南アフリカ大会当時の日本チームの監督で、中国のプロチーム「杭州緑城」の監督を務めたことのある岡田武史さんの話も出てくる。彼は杭州緑城の監督を途中で辞めてしまったが、「中国のサッカーはまるでバイトをしているみたいだ」と、そのいい加減さを評したとか。たとえば、朝7時から練習があるとすると、もし日本人の選手なら1時間前にやってきて、自分で準備運動や練習を始める。ところが、杭州緑城の中国人選手は定刻にやってきて携帯電話をいじっている。監督が号令をかけないと、誰も動こうとしない。

そのほかにも、勝利はチームのみんなのものなのに、中国では得点を入れたものを英雄視し、高額の賞金を与えたりする。結果、チームの団結に悪影響を及ぼすなど、日本の友人による中国サッカー批判が次々に出てくる。この中国人ジャーナリストは「日本人の話が本当かどうかは分からないが」と断りながら、それらを紹介することで、母国のサッカーに警鐘を鳴らしている。

次は日本が2−3で敗れたベルギー戦。筆者が誰かは分からないが、ご丁寧なことに、日本2点、ベルギー3点のそれぞれの得点場面の写真が計5枚も出てくる。敗れてグラウンドに倒れこんだ日本の選手をベルギーの選手が慰めている写真も3枚、4枚・・・関心の高さがうかがえる。

そして、悲嘆にくれる日本のサポーターたちの写真と並んで、同じ人たちが会場のごみを拾っている姿が何枚も出てくる。「このような状況下にあっても、彼らはこれまでと同じように・・・」という説明がついている。また、選手たちが更衣室をきれいに掃除した後、ロシア語で「ありがとう」と書いて去って行ったことも写真付きで紹介している。

これらの写真や話は全世界に流れているものと同じだろうが、結論の中国語がすごい。「日本は負けたのか? 確かに見たところはこの試合に負けたが、日本のサッカーはこれからの黄金の十年をものにしたのである」。少し気恥ずかしくなってくる。西野朗監督の辞任や長谷部誠選手の代表引退なども中国で報道されているそうだ。

日本の話からは離れるが、人口33万人のアイスランドがワールドカップの本大会にまで進んだことは、中国にとって衝撃だったらしい。試合での登録選手は「23人」だが、アイスランドのその選考過程(?)を書いた短い記事も送られてきた。

解説を入れながら紹介していくと、33万人すべてを対象にして23人が選べるわけではない。まず、女性17万人と、18歳以下と35歳以上の男性12万人を除かなければならない。太りすぎている2.4万人も不適格だ。ここから数字が細かくなり、捕鯨に従事している788人、火山の噴火を監視している321人、今がシーズンの羊毛を刈っている2856人、銀行の社長23人、足の不自由な189人、目の不自由な265人も対象にならない。サッカーは選手だけでは成立せず、競技場でのサポーター8781人も必要である。

いよいよ対象の人数が絞られてきたが、チームには医者や監督も要る。これらも差し引くと、残るのは「23人」である。サッカーが出来るかどうかも分からないのに、全員を「登録選手」にしないと、ワールドカップの予選にも参加できない。にもかかわらず、アイスランドは本大会にまで歩を進めたのである。言うまでもなく、以上は全くの冗談で、記事の通りに33万人から数字を引き算してみたら、23人になるわけでもないが、中国人の悔しさをこんな冗談で表してみたのだろう。

最後に1枚だけの写真があった。ロシアのプーチン大統領(本人なのか、そっくりさんなのかは不明)が電話に向かって話している。いわく「よし、選手の家族をもう釈放してやろう」。意味はお分かりだろうか。僕の解釈だと、ロシアも前評判が悪かった。そこで、プーチン大統領は選手たちの家族を拘束し、「ちゃんと頑張らないと、家族を返さないぞ」と脅しをかけた。選手たちは家族を取り戻そうと懸命に戦い、8強にまで勝ち進んだ。

もちろん、これも冗談である。ロシアの強権的な政治の体質を皮肉っているのか、それとも、中国もこれくらいのことをやってはどうかと提案しているのか。いずれにしろ、中国での報道は試合の「本記」以外もけっこう楽しいのである。

追記 僕がハルビン理工大学で教え、今は母校で日本語の教師をしている孫蘇平さんという女性が、映像を送ってきました。外国語の授業のコンテストに出したものとのことです。お暇な折にでも、見てやっていただければ幸いです。
http://weike.cflo.com.cn/play.asp?vodid=177329&e=7

サッカーの今昔

サッカーのワールドカップ・ロシア大会で6月28日、H組の日本は決勝トーナメントに2位で進出した。勝ち点の多い少ないではなく、試合中に受けた警告(イエローカード)の数の少なさでセネガルを押さえるという、きわどさだった。

1位はコロンビアで、続く日本とセネガルはともに通算1勝1敗1分けで、勝ち点も4と同じだった。勝ち点が同じ場合は、得失点差で順位が決まるが、これもともに0。次には総得点で決まるが、これも4と同じ。さらには、直接対決が2−2の引き分けだったため、警告と退場(レッドカード)の数に基づく「フェアプレーポイント」で決めることになったが、3試合で受けた警告の数が日本は4と、セネガルの6より少なかった。退場はどちらもなかった。以上のおかげで、日本は2位に滑り込んだ。このフェアプレーポイントは今大会から採用された規定だが、これでも決まらなければ、次はくじ引きになるところだった。

警告の数で順位が決まるとは、びっくりだけど、ワールドカップではイエローカードが出ない試合なんて、ないみたいだ。それだけ試合が激しいからだろうが、素人の僕から見ると、「えっ、あの程度でイエローカード?」と思うことがよくある。僕がサッカーに明け暮れていた大学生時代の試合を思い出すからだ。当時は警告なんて、ほとんど耳にしなかった。もう55年から60年も前のこと、僕の大学は関西学生サッカーリーグの1部に属していて、まずまずの強さだった。

そこで僕はフルバック(FB)、今で言うサイドバック(SB)で、タックルの荒っぽさではちょっと鳴らしていた。と言っても、良い意味ではない。僕はもともと運動神経が鈍いせいもあって、ボールにきちんとタックルできず、相手の足まで一緒に引っ掛けてしまう。ボールではなく相手の足さえ止めれば、効果は同じじゃないか。そんな邪悪な考えも頭にあった。チームの正選手になれたのも、やっと4回生になってからという、あまりぱっとしない選手でもあった。

その頃の僕のサッカーを今やれば、間違いなく警告ものだし、退場だってあるかもしれない。当時、仲間が僕のタックルの瞬間を写真に撮ってくれた。それを見ると、相手が明らかにボールを蹴り終わったあとに、僕がタックルに入っている。蹴る対象は相手の足しかない。日本大学アメリカンフットボール部の悪質タックルにどこか似ている。惜しいことに、僕の悪質タックルの写真はどこかに行ってしまったが、大学時代のサッカー仲間に「お前のプレーは今じゃ全く通じないぞ」と冷やかされることもある。

そうは言っても、当時の審判は今と違ってめったに笛を吹いたりはしなかった。相当に荒っぽいことを何回も続けて、口頭で軽く注意を受けたくらいだ。それも僕の記憶では大学時代に1回くらいだし、もう一度やると退場だぞ、といった意味でもないみたいだった。そもそも、イエローカード、レッドカードそのものを当時の審判は持っていなかったようで、どうも危険なプレーに対する規制が緩かった感じがする。

ただ、僕のプレーに対して、相手の選手は怒っていたのだろう。審判の目を盗んで、たまには僕のお尻を蹴りにくる連中もいた。大して痛くもなかったから、「それで気が済むなら」と、少しくらい蹴られても、放っておいた。審判にアピールするなんてことは、全く考えなかった。

そんな僕から見ても、今のサッカーで「荒っぽいな」と感じるのは、競り合う選手が互いに相手のシャツや腕を引っ張り合っていることだ。堂々とやっている感じで、よほどひどくないと、反則にはならないみたいだ。相手の足を引っ掛けたりするのと違って、ケガはまずないからかもしれないが、昔はほとんど見なかったプレーである。

僕の大学時代、当時としては珍しく欧州のプロサッカーに詳しい仲間がいた。その男が言うには、地面にあるボールを前にして2人が肩を寄せ合って競り合う時、片方の手の平を審判からは隠して相手の太腿に当て、その動きを押さえる――そんなのは欧州のプロでは常識とのことだった。感心して僕もたまには試してみたが、手を使うのはその程度だった。

警告のことから日本代表のまともなプレーに話を移すと、昔の僕と同じポジションのSB長友佑都選手のスタミナはほんとにすごいなと思う。守っては攻め、攻めては守り、試合の始まりから終わりまで、まさにどこにでも顔を出している。

能力に天と地ほどの差がある彼と僕を比べるのはおかしいけれど、昔の僕は「攻める」と言っても、ハーフラインぐらいまでしか出て行かなかった。その先はフォワードにお任せだった。僕に限らず、当時のバックスは大体そんな感じだった。フォワードのほうも、今のように自陣のゴール近くまで守りに戻ってくることはまずなかった。守備はバックスにお任せだった。ハーフと呼んでいた連中がフォワードとバックスの間を行き来していた。分業がはっきりしていたと言ってもいい。

あれやこれや、今と比べると、随分と楽なサッカーをやっていた。だから、僕のようないい加減な男でも、一応は大学サッカー部の選手になれたのだろう。テレビでワールドカップを観戦しながら、そんな感慨にふけっている。

もうひとつの連載「こんなものいらない!?」について

ネットに「J−CASTニュース」というサイトがある。実は一昨年末から月に3回ほど、僕はここに「こんなものいらない!?」というコラムを連載している。

その趣旨を簡単に言うと――私たちはこれまで「あれも欲しい」「これも欲しい」と、実にいろんなものを欲しがり、そして手に入れてきた。かつては、洗濯機が欲しかった。テレビが欲しかった。新幹線も欲しかった。それらが手に入ると、次は車が欲しくなった。空調が欲しくなった。テレビも白黒ではなくカラーテレビが欲しくなった。やがて、パソコンが欲しくなり、携帯電話が欲しくなり、まもなく、いわゆるガラケーではなくスマホが欲しくなった。

以上は「物(もの)」だが、「事(こと)」もいろいろと欲しくなった。オリンピックを開きたくなった。夏季が実現すると、冬季もやりたくなった。一度やると、二度目もやりたくなる。あ、そうそう、万国博覧会も開きたくなった。これも一度、二度とやりたい。オリンピックで大活躍した選手には、総理大臣が国民栄誉賞とやらを与えたくなった。

これらの物や事の中には、今やなくては困るものもたくさんある。でも、よく考えれば、いらないものも結構あるのではないか。なくなれば、スッキリするのではないか。そのひとつひとつを槍玉に挙げていこう――まあ、そんな趣旨である。ただし、たとえ「いらない」と決めつけても、目じりを吊り上げて言っているのではない。「頭の体操」、横文字で言えば「ブレーンストーミング」でもある。

この連載のことは「なんのこっちゃ」のプロフィールのところに1行だけ書いているのだけど、正面だってはほとんど言ってこなかった。まあ、そんなに長続きする連載ではない、やがて終わるから、そこまでしなくてもいいや、と今までさぼってきた。

ところが、あにはからんや、連載はなかなか終わらない。とうとう50回を超えてしまった。編集者に「もう、そろそろやめようかな」と言うと、「いや、読者がある程度いますから、まだやめないで下さい。月3回を2回に減らしてもいいですから」と慰留される。盆と暮れにはビアホールで慰労して下さる。

そう言われれば、いらないものが次々に頭に浮かんでくる。まだしばらくは続きそうなので、遅ればせながら今回、詳しくお知らせする次第です。URLは下記です。

https://www.j-cast.com/kaisha/wadai/konnnamono2017/

実はもう30年以上前のことになるが、朝日新聞社が発行していた『朝日ジャーナル』という週刊誌で「日常からの疑問 こんなものいらない!?」という連載をしていた。僕が担当のデスクで、部員や僕、あるいは外部の人が思い思いに書き、結構人気のある連載だった。

この企画を始めていくらか経ってから、故大橋巨泉氏が日本テレビ系列で「巨泉のこんなモノいらない」という1時間番組を始めた。もちろん、当方に仁義を切ってからだったが、僕たちの目のつけどころが悪くなかったから、彼もまねする気になったのだろう。

ただし、朝日ジャーナルそのものは売れ行き不振で、そのうちに休刊してしまったが、ちょっとしたきっかけで、「こんなものいらない!?」だけがJ−CASTニュースで復活することになった。昔の記事の焼き直しもあるし、全く新しいものもある。ただ、愚妻からは「『なんのこっちゃ』とテーマが似ていない?」とも悪口をたたかれている。

以下はJ−CASTニュースに最近載った「こんなものいらない!?」の転載です。薬などで言えば、試供品といったところでしょうか。羽生結弦選手に「国民栄誉賞」の授与が決まる前に、賞そのものにケチをつけています。

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 「国民栄誉賞」というものがある。1977年、当時の福田赳夫首相が設けたもので、最近では2018年2月13日に将棋棋士羽生善治氏と囲碁棋士井山裕太氏が同時に受賞し、安倍晋三首相から表彰状や記念品を手渡されている。

 羽生氏は将棋の名人など7つのタイトルで前人未到の「永世七冠」を達成したこと、井山氏は囲碁史上初の7大タイトル独占を2度にわたって果たしたことが評価された。

 国民栄誉賞の目的は、その表彰規程によると「広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉をたたえる」ことで、表彰の対象は「内閣総理大臣が本表彰の目的に照らして適当と認めるもの」となっている。

 前置きが長くなったが、僕はこの「表彰規程」がどうも気に食わない。

 まず、これは時の首相がその人気取りのために使える制度である。もちろん、誰を表彰するかに当たっては、有識者とやらの意見も聞くのだろうけど、首相の意向が最大限尊重されることは、目に見えている。

 しかも、受賞者は広く「国民」に敬愛されている人とのことである。僕もあなたも、受賞者を敬愛する「国民」の中に含まれている。

 羽生さんや井山さんが成し遂げたことは立派かもしれない。だが、お二人を敬愛していない人もいるはずだ。将棋や囲碁に無関心の人もいるだろう。それなのに、その時の権力者の意向で、勝手に二人を敬愛させられてしまうのである。

 国民栄誉賞に似た制度に、1966年に当時の佐藤栄作首相が作った「内閣総理大臣顕彰」というのがある。

 ただ、これは表彰対象が「国の重要施策の遂行」「災害の防止及び災害救助」「道義の高揚」「学術及び文化の振興」「社会の福祉増進」「公共的な事業の完成」に貢献したものとなっていて、国民栄誉賞に比べると、範囲が限られている。

 このため、通算本塁打数で世界新記録を達成した王貞治氏を表彰したかった福田赳夫首相が、対象を広げた国民栄誉賞を作ったのだと言われている。当然、第1回の受賞者はその王氏だった。

 以来、歴史の古い内閣総理大臣顕彰はすっかり影が薄くなり、事実上、国民栄誉賞の下位に位置づけられている。

 でも、僕ら国民の立場からすると、内閣総理大臣顕彰はその名前からして「首相が人気取りで勝手にやっていることだ。どうぞ、ご自由に」と傍観していられるから、まだ許せる。

 だが、受賞者を国民そろって敬愛するよう、首相から押しつけられる感じの国民栄誉賞は、どうも困ったものである。
      
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まあ、ざっとこんな調子です。相変わらずの駄文ですが、お暇な折にでも、付き合ってやって下さると嬉しいです。

始めてみた水中ウオークと水泳

前回に書いたように、かつては「健脚」を誇った僕も、今や結構ガタがきているらしい。ときどき、自宅の近くをジョギングしているけれど、なにか別のこともやったほうがいいようだ。そうだ、「水中ウオーク」「水中散歩」はどうだろうか。整形外科の医者にも勧められたことがある。

探してみると、自宅からそう遠くないところに、悪くはなさそうな「スイミングクラブ」があった。月会費が6500円ほどで、25メートル、7レーンのプールがある。水中ウオークから水泳まで、いろんなレッスンに指導員がついて教えてくれるようだ。さっそく入会した。

プール通いの初日、まず水中ウオークの30分間のレッスンに参加した。指導員は20歳代の女性。生徒は僕以外に10人、それもみんなおばさんたち。いや、おばさんと呼ぶより、もう少しお年を召した方もいらっしゃる。僕はコンタクトレンズをはずしてきたので、はっきりとは見えないのだが、そんな感じだった。

その後、水中ウオーク以外のいくつかのレッスンにも参加しているが、10人前後の生徒のうち、男はいつも僕だけである。プール全体を見渡しても、大人では女性がほぼ90パーセントを占めている。一般に男性よりも女性が元気なのは、このあたりも影響しているのだろうか。昼間のレストランが女性でいっぱいなのを見て感心していたが、なにもレストランに限ったことではなかったのだ。

ところで、肝心の水中ウオークのことだけど、ただ普通に歩けばいいのだろうと思っていた。だが、レッスンを受けてみると、大違いだった。まず、前向きに歩くだけではなく、後ろ向き、横向きにも歩く。同じ前向きでも、精一杯の歩幅で歩く。太腿で、あるいは足の甲で、水を蹴り上げながら歩く。体を左右にひねりながら歩く。飛び跳ねながら歩く。片手で交互に反対側の足の裏をたたきながら歩く。

足で「グー、チョキ、パー」をしながら歩くのもある。グーは両足をそろえる。チョキは片足を前、もう一方を後ろにする。パーは両足を左右に広げる。ついでに、手でもグー、チョキ、パーの形をつくり、足がグーの時は手はパー、足がチョキの時は手はグー、足がパーの時は手はチョキにする。つまり、手が足に常に勝ちながら歩くのである。さらには、足がグーの時は手はチョキ・・・つまり、手が足にいつも負けながら歩く。頭が混乱してくるが、脳の運動にもいいのだろう。おばさんたちが2〜3人で話しながら歩いていたりもする。世間話とウオークの一石二鳥といったところだろうか。

歩くだけではなく「水中ジョギング」というのもある。陸上に比べて走りにくいこと、おびただしい。

今のところ、水中ウオークは週に3回ほどやっているが、せっかくだから「水泳」もやってみよう。パンフレットを見ると、「初級」「中級」「上級」のレッスンがある。僕は中学生のころには、体が浮きやすい海での平泳ぎだけど、かなり長い距離で試験に通ったことがある。その後、水泳にはご無沙汰が続いているが、まあ、少しは泳げるだろう。とりあえず、初級のレッスンに出てみた。

その初日、レッスンが始まって早々、僕はショックを受けた。顔を水につけた時、どう息をしたらいいのか、それさえ分からない。若いころ、かなり泳いだことがあると言っても、顔を水につけたことがほとんどない。僕は初級のレッスンにさえ、つきあえない。「すみません。ちょっと・・・」と断って、その場を離れた。

がっかりしながらもう一度、プールのパンフを眺めていると、「初心者水泳」というレッスンが目に入った。初級の下のクラスで、週に1回、わずか20分だけだが、「泳げない方向けの入門クラスです。顔つけ(水慣れ)からバタ足までを目標に練習します」とある。

かっこよくはないけれど、まずこのクラスからだ。レッスンでは、指導員が顔を水につけた時の息の仕方から教えてくれた。でも、今のところ、周りのおばさん、おばあさんと比べて、僕が一番へたである。石川啄木の「友がみな われよりえらく 見ゆる日よ・・・」という歌が頭に浮かんできたりする。

更衣室で僕よりは若そうなおじいさんが話し掛けてきた。「私はプールに来るようになって、もう5年目なのに、まだ25メートルを続けて泳げません。情けない。でも、死ぬまでには、泳げるようになりたいです」。プールに併設の小さなサウナで一緒になったおばさんは「1年半になるんですけど、最初は水の中を歩くのさえ怖かったです」。

顔を水につけて、やっと10メートルかそこらを泳げるようになった僕ではあるが、そんな話を聞いていると、啄木ほどには悲観する必要もなさそうだ。プール通いを始めてからまだ2カ月だ。ウオーク以外に水泳も、当分は頑張ってみようと思っている。