わが家の「長持ち三羽烏」

検査データの改竄(かいざん)など、日本企業の不正が後を絶たない。「丈夫で長持ち」が「売り」だった日本製品はこれからどうなっていくのだろうか。そんなことを心配していたら、わが家で長持ちしている日本製品に思いが至った。

まずは、自転車(上の写真)。買ってから、もう50年、半世紀になるが、購入時の状況はよく覚えている。週末、記者仲間と徹夜マージャンをしたら、2万円あまり勝ってしまった。当時としては、かなりの金額である。確か、大学卒の初任給の平均が3万円くらいだった。

「さて、このカネを何に使おうか」。上機嫌で自宅近くまで戻ってきたら、自転車屋が目に入った。「そうそう、わが家にはまだ自転車がなかった。自転車を買おう」。そのころ、自転車の価格は結構高く、マージャンで稼いだカネをほとんど投入した。

ブリヂストン」製で、最近の自転車に比べると、見た感じがとにかくごつい。パイプも太い。メーカー名はすでに車体からすっかり剥げ落ちている。今、パンクの修理などでこれを自転車屋に持っていくと、「いやあ、頑丈そうですねえ」と感心される。スーパーの自転車置き場では、周りに何十台の自転車があろうと、これ1台が異彩を放っている。同じ自転車では、娘が中学か高校の時に乗っていたやつも、パイプは細いものの、今も健在である。かれこれ30年になる。

わが家の電気冷蔵庫も古い(上の写真)。40年前に買った時には「ナショナル」製だった。今の「パナソニック」である。最近の冷蔵庫に比べると、電気代は多分、高くついているだろう。それに、いつ壊れてもおかしくはない。できれば、そろそろ買い換えたいのだが、一応は元気に働いてくれているので、捨てるに捨てられない。

でも、ある日突然、壊れられては困る。冷蔵庫なしではやっていけない。そこで、いざという時にあわてないで済むように、家電量販店を時々回って、次にはどの冷蔵庫を買おうかと、目星をつけている。

家具などを除き、毎日使っているもので長持ちしているのは、以上の自転車と電気冷蔵庫だけかと思っていたら、もうひとつ、それももっと古いやつが出てきた。腕時計である。

きっかけは、このところ使っていた太陽電池の腕時計が突然、動かなくなったことだ。長い間、充電をさぼっていたせいである。そこで、充電する間だけ使う古い腕時計はないものかと、食器棚の引き出しを開けてみたら、下の写真のようなやつが現れた。

横文字で「セイコー スポーツマチック 5」とある。もう55年ほど前、学校を出て新聞社に就職した後に使いだした腕時計だ。何年間ぐらい使っていたかは覚えていない。自動巻きで、引き出しで見つけた当座は止まっていたが、ちょっと振ってみると、まさに機嫌よく動き始めた。

ネットで見たら、1963年の発売で、若者に大いに受けたそうだ。今でも中古品が5千円、6千円、いいものだと1万円、2万円もしているとか。当時も結構いい値段だったと記憶している。

自転車、電気冷蔵庫、腕時計。わが家の長持ち三羽烏は、僕との長生き競争になるのだろうか。

今年のキーワードは「この社会は生病了」だ

「生病了(ションビンラ)」は中国語である。中国人の友人が「最近の中国では『这个社会生病了』(この社会は病んでしまった)という言葉が流行しています」と教えてくれた。

へえ〜、たとえば、どんな話が?と聞くと、まずは、映画業界で横行する脱税。人気女優のファン・ビンビンさんが税務当局から追徴課税や罰金などを合わせて約146億円の支払いを命じられた。中国人には、その美貌と裏腹の強欲さがショックだったらしい。

もっと身近なものとなると、たとえば、中国南方の景勝地・桂林に多い「モクセイ」並木の受難。中国語では「桂花」で、この季節にはそこはかとない香りが街中に流れる。街路樹になっているそのモクセイの下に、おばさんたち数人が大きなビニールを広げ、木の幹をゆすったり、枝を棒でたたいたりしている。花を落とすためだ。ジャムの原料などになるのだが、おかげであたりからはあの香りが消えてしまう。花泥棒に注意する人は誰もいない。

舞台は変わって日本。テレビをぼんやり眺めていたら、この夏、湘南であった花火大会が終わってからの会場の様子が映っていた。一面、ゴミだらけである。画面はやがて、どこかの桜の名所で花見が終わったあとの風景に変わった。やはり、ゴミの山である。次は東京・池袋の繁華街。深夜の様子が映った。街路はやはりゴミ、ゴミ、ゴミ・・・。

エッ、日本人って、ゴミをポイポイと捨てない民族じゃなかったの?時代遅れの自分に驚くと同時に、今年の元日、日本在住の中年の中国人女性から聞いた池袋の話を思い出した。

彼女は関西方面から訪ねてきたやはり中国人の留学生の女性を連れて明治神宮に初詣に行き、元日の朝2時ごろ、自宅にそう遠くない池袋まで戻った。街路にはゴミが散らかっている。郊外電車はもうないので、タクシー乗り場に並んだ。100人近くが立っている。飲み物や食べ物を手にしている連中が多い。そして、順番が来てタクシーに乗り込むと、飲みかすや食べかすをポーンと外に捨てていく。

彼女は泣きたくなった。留学生を自宅に泊め、初詣にまで連れて行ったのは、ひとつには「自慢」したいことがあったからだ。それは、日本の民度は一般的に高いけど、なかでもここは首都の東京よ、あなたのいるところとは少し違うでしょ、私はその東京に住んでるのよ――そんな目論見が粉みじんになってしまった。

話はまた少し変わるけど、僕が若い頃は「日本は政治家はダメだけど、経済人と官僚がしっかりしている。そのおかげで、日本はもっているんだ」という言葉をよく耳にした。経済記者だった僕は企業や中央官庁を回ることが多かったが、確かにそんな感じがした。見方が甘かったのかもしれないけど、みんな、なかなかの人物だった。

ところが、今や、企業は不祥事発覚のオンパレードである。えっ、あの企業がまさか?と思うようなところが、次々に検査データの改ざんとかをやってくれる。それも繰り返したりする。財務省文部科学省といった役所も不祥事に事欠かない。おまけに、最近は大学でも次々に不祥事が暴かれている。政治家は昔も今も同じようである。

这个社会生病了。日中平和友好条約締結40周年の今年、日中両国は仲良くこの言葉を共有することになってしまったみたいである。

本庶佑さんの「ノーベル賞」に中国でも絶賛の嵐!?

京都大学本庶佑(ほんじょ・たすく)特別教授が今年のノーベル医学生理学賞を贈られることになった。免疫をがんの治療に生かす手がかりを見つけ、がん治療に革命をもたらしたというのがその理由で、米国人の学者との共同受賞である。

日本のメディアはもちろん大騒ぎしているが、中国のネットも「日本人がまたノーベル賞を受けた」などと、日本に負けず劣らずに騒いでいる。日本人ってなんで、こんなに次々とノーベル賞をもらうの? 翻って、中国の学者はどうしているの? といったところに関心があるようだ。

ネットの報道を見ていくと、2000年以来、日本は18人(米国籍の2人を含む)がノーベル自然科学賞を受けたと伝えたあと、中国の「惨状」を嘆いている。いわく、中国では1978年に中国共産党中央委員会の肝いりで「全国科学大会」が開かれ、当時の最高実力者の訒小平氏が「科学技術はすなわち生産力だ」などと述べて、その振興を命じた。以来40年、中国の科学技術は大きく進歩したが、ノーベル自然科学賞を受けたのはたった1人だけというのだ。

日本には「科学技術基本計画」なるものがある。そこでは「21世紀前半の50年でノーベル自然科学賞の受賞者30人」という目標もあるらしい。これが中国のネットでも紹介され、「日本の受賞者は2018年ですでに18人だから、『早送りボタン』を押しているみたいだ」とまで書かれている。

そのほか、日本を賞賛し、中国の現状を嘆く言葉がネットには次々に出てくる。「日本人は科学と教育を大切にしている」「なかでも基礎科学、基礎研究の重要性を深く認識している」「結局、日本は何が正しかったのか。我々は何をしていたのか」「中国では国内で研究するのが難しいので、多くの才能が海外に行ってしまっている」「本庶さんは教科書に書いてあることを疑えと言っている。我々も同じように教科書を疑ってきたのに、なんでこんなに差がついてしまったのか」「中国の学者は会議と宴会が好きだが、日本の学者は実験室と午後のお茶が好きだ」といった具合である。

基礎科学、基礎研究の重視については、今の日本では決してそうではないだろう。本庶さん自身が警鐘を鳴らしているので、褒められ過ぎのようだが、とにかく面はゆい限りの報道である。


今回の受賞はがん治療と関係が深く、それだけに誰もが身近に感じる。漫画にもさっそく登場し、共同受賞者の米国人学者とともに似顔絵も描かれている。漫画はその一部である。(写真上 制作 Sheldon 果殻)

1年前、日系英国人のカズオ・イシグロ(石黒一雄)氏がノーベル文学賞を受けた時も、中国のネットは結構騒いでいた。そして、日本人のノーベル賞受賞者が続く理由として、日本の紙幣の肖像画を挙げていた。1万円札は福沢諭吉、5千円札は樋口一葉、千円札は野口英世で、すべて知識人である。つまり、知識人を尊敬する風潮がノーベル賞の連続受賞につながっているというのだ。

ちなみに、中国は100元札(1元≒16円)から50元札、20元札、10元札、5元札、1元札に至るまで、すべてが毛沢東である。さっきの記事の筆者はこれには全く触れなかったが、言外に皮肉っているみたいだった。

まあ、いろいろと褒めてくださっても、受賞者の数ではしょせん米国にはかなわない。ノーベル自然科学賞に米国人のいない年はないだろう。そう考えながら、読み進んでいくと、(真偽のほどはよくは分からないが)米国人の受賞者と言っても、移民が多い。2000年以来、07年までにノーベル自然科学賞を受けた米国人のうち、移民を除き、米国で教育を受けた人に限ると受賞者は23人である。

これに対し、2000年から07年までにノーベル自然科学賞を受けた日本人17人はすべて日本で教育を受けている。国の広さや人口を考えれば、なんとすごいことか。そう日本を絶賛してくれている。

話は少し脱線するけど、僕は中国共産党はどうも好きにはなれない。そんな日本人は多いだろう。でも、ノーベル賞にしろ、先般のサッカーのワールドカップにしろ、中国人自身は蚊帳の外なのに、日本人が何かで成果を挙げたら、自分たちアジア人の代表ということなのか、素直に日本を褒めてくれる。そんな中国人に僕は「懐の広さ」といったものを感じるのである。

アルコール依存症? それとも、単なる酒飲み?

何がきっかけだったか、僕は「アルコール依存症」ではないかなあ、という気がふとした。ただし、アルコールのおかげで、家族や世間に大きな迷惑をかけた覚えは僕自身にはない。ならば、アルコール依存症であっても、別に構わないようなものだが、ちょっと調べてみる気になり、アルコール依存症に関する本を図書館から何冊か借りてきた。

そのひとつに「自己判定」のためのテストが10問、載っていた。まずアルコールの摂取量や飲む頻度を尋ねたあとに、たとえば、次のような質問が続いている。「過去1年間に、飲み始めると止められなかったことが、どのくらいの頻度でありましたか?」「過去1年間に、深酒のあと体調を整えるために、朝、迎え酒をせねばならなかったことが、どのくらいの頻度でありましたか?」「過去1年間に、飲酒後、罪悪感や自責の念にかられたことが、どのくらいの頻度でありましたか?」「過去1年間に、飲酒のため前夜の出来事を思い出せなかったことが、どのくらいの頻度でありましたか?」

誓って言うけど、どれもこれも僕には「ない」である。ただ、アルコールの摂取量や飲む頻度については、大きなことは言えない。思えば、学校を出て22歳で就職し、自分のカネで飲めるようになって以来、これまで55年間、飲まなかった日がどれくらいあっただろうか。「休肝日」なんてことは夢にも考えなかった。飲まなかったのは目の手術や胃腸の検査などで入院した日ぐらいだ。合わせて2週間にもなるだろうか。

40歳代で経済記者をしていた頃、ビール会社の社長にインタビューしたことがある。社長が盛んにビールの効用を説くので、「僕は休日、大瓶で3〜4本は飲んでいます」と、合いの手を入れてみた。すると、社長から「それは飲み過ぎです。いけません」と真顔で注意された。当時は「サッポロジャイアンツ」という大瓶3本分の特大のビールがあり、休日にはひとりで抱え込んでいた。

最近はさすがに酒量が落ちている。それでも、ときどきビアホールに行ったとき、僕には生ビールの「大ジョッキ」がどうもまだるっこしい。とりわけ1杯目などは、あっという間にジョッキの底が見えてしまう。昔に比べて、ジョッキが小振りになったのではないかと疑っているが、それはそれとして、大ジョッキの代わりに「リッタージョッキ」というのをよく飲んでいる。名前の通りなら1リットル入っているはずだ。もちろん、大ジョッキよりも一回り大きい。

外で少し飲んで家に戻ってから飲むのは、もっぱらウイスキー。それも700ミリリットルが1000円ほどの安物だが、これも瓶の底がすぐに見えてきてしまう。1瓶が3〜4日しかもたない。これじゃ、せわしないので、2.7リットル入りの特大のペットボトルを買ってくることもある。

まあ、我ながら結構な酒量で、これらも真面目に申告してさっきの「自己判定」10問をやってみると、「健康被害の可能性が高い」ということになった。

先月、行きつけの病院で、半年ごとの血液・尿検査を受けた。少し心配しながら結果を見ると、90ほどの検査項目のうち、正常値を外れているのは2項目で、そのひとつがγ‐GTP(ガンマージーティーピー)だった。酒飲みが気にする数値で、僕は119と、正常値の10〜90を上回っていた。そのほか、やはり酒飲みに関係が深いALTとASTの数値は正常だった。

病院の医者はγ‐GTPについて何も言わなかったので、特に気にはならなかったが、念のためにネットで調べていると、高築勝義さんという医者の分かりやすい話が出てきた。いわく、γ‐GTPの値が上がっていても、ALTやASTの値が正常なら、それほど心配することはない。たとえて言えば、城(肝臓)に敵の軍隊(アルコール)が攻めてきて、城外で小競り合いしている程度と考えていい。

ただし、ALTやASTの値も同時に上がっているようだと、敵軍は城門を破って中に入り、暴れ回っている。死者やけが人も出ている。これを続けていると、肝炎や肝硬変へと進んでしまう場合もあるとか。ALTやASTの値が正常な僕にとっては、いたって心強いお話である。しかも、γ‐GTPというのは、ちょっと節酒すれば、すぐに下がるそうだ。

以上から見て、僕は確かにアルコール依存症ではあるが、懐が許す限り、これまで通りに飲み続けてよろしい。ただし、多少は量を減らせば、さらによろしい――そう結論づけている。

見直したよ 今どきの高校生

学校の秋の「文化祭」の季節である。僕がよく使う関東の私鉄、東武東上線の駅には、主に沿線の高等学校の文化祭のポスターがいっぱい貼ってある。じゃあ、ひとつ行ってみようか。まずは、僕が住んでいる埼玉県川越市にある県立川越高校(通称、川高)の文化祭「くすのき祭」に初めて出かけた。正門のそばにある大きな「クスノキ」が名前の由来で、明治32(1899)年設立の男子校だ。在校生は1,100人ほどである。

駅からはやや離れた場所にあり、校門もあまり目立たないが、くすのき祭の日はかなり離れたところからでも、入口がよく見える(写真上)。校門と並んで、大きな「門」がそびえているからだ。くすのき祭のパンフレットを読むと、門はウクライナの首都キエフにある「聖アンドリーイ教会」を模したものだそうだ。なぜ、この教会なのか、理由は書いてなかった。

高さは12メートルほどあり、地元紙の『埼玉新聞』によると、巨大な門作りは川高の伝統で、くすのき祭実行委員会の中にある約80人の「門班」が、設計から木材の調達、建築までを担って、1年ほどかかったとか。去年の門はカザフスタンの教会で、毎年モデルは変わり、城の時もあるそうだ。

ところで、このくすのき祭での売り物のひとつは、水泳部による「シンクロ公演」であるらしい。男子校だから、演じるのはもちろん男の子だけである(写真上)。1988年に始まった。2001年の日本映画『ウォーターボーイズ』のモデルにもなった。僕もかねがね噂だけは聞いていた。くすのき祭2日間のうち、1日目は30分の公演を6回、2日目は30分を4回、45分を1回やる。まずは1日目に行ってみた。

公演中は撮影禁止で、上の写真は水泳部のツイッターから借用した。女性によるシンクロナイズドスイミング(最近はアーティスティックスイミングと呼ぶそうだが)に比べると、こちらは同時に演じる人数が40〜50人もいて、迫力満点である。少々の不揃いがあっても帳消しで、とにかく圧倒された。

そうは言うものの、たかが高校の文化祭で「撮影禁止」とは生意気だなあと思っていたら、公演の終了後、「これから皆様の記念撮影に協力いたします」との放送があった。見ていると、男の子たちが三々五々、プール脇に散らばって、観客との記念撮影に応じている(写真上)。次の公演は30分後だから、こんなことをしていたら、休んでいる暇もない。そのサービス精神にまた圧倒され、さっきの不満は吹っ飛んでしまった。

2日目もまたシンクロを見たくなり、この日は公演時間が45分の最終回に出かけた。雨が降ったりやんだりで、プールの脇の観客はレインコートをかぶったりしている(写真上)。悪天候のなか、プールをぐるりと1,000人ほどの観客が取り囲んでいるのだが、僕の位置からのカメラでは全体がとても入らなかった。2日間の11公演の観客数は計7,836人だったそうだ。

次の土曜と日曜は、同じ川越市にある県立川越女子高校(通称、川女)の文化祭「紫苑祭」に出かけた。文化祭をのぞくのは初めてだ。男子校の川高とほぼ同じ規模の女子高で、明治39(1906)年設立と、ここも歴史は古い。川高に比べると、小振りだけど、水色の「門」が迎えてくれる(写真上)。

ここの売り物のひとつは、2日目に体育館で行われる40分ほどの「ファッションショー」らしい。開演30分ほど前に行くと、すでに100人やそこらが行列している。時間が来て体育館に入ると、中ほどに舞台が設けてある。椅子席と立ち見を合わせると、1,000人は集まったようだ。

やがて、場内が暗くなり、ライトに照らされた舞台には次々にモデルが登場する。もちろん、川女の生徒である。ここも撮影禁止だし、モデルや衣装の良し悪しは僕には全く分からないのだけど、場内は「キャー、キャー」と、まさに興奮の坩堝(るつぼ)となっている。

ここまで「門」や「シンクロ」「ファッションショー」だけについて書いてきたが、催し物はもちろん、まだまだいっぱいあった。川高、川女の両校はいわゆる進学校で、川高の卒業生からは近年、ノーベル物理学賞の受賞者も出ている。そんな高校なのに、「祭」に注ぐ力は生半可ではない。2日間の文化祭で集めた観客数は川高が15,224人、川女が13,308人だったそうだ。高校の文化祭が地域に溶け込んでいる。校門などでの送り迎えのあいさつも礼儀正しい。今どきの高校生を見直してしまった。

水中は「天国」みたい

プールに通いだして満5か月になった。三日坊主のことが多い僕にしては珍しく、週に3回のペースは崩れない。暇にあかせて、多いときには4回も行く。成果は?と聞かれると、返答に困るのだが、なんとなく楽しい。通うのが全く苦にならない。

「プール」とは言っても、「泳ぐ」よりも「水中ウォーク」が主で、1回に25メートルのプールを往復20回から30回、距離にすると、1キロから1.5キロを歩いている。大したことはないようだが、それなりに疲れてくる。往復10回、つまり0.5キロを歩くのに、20分ほどかかる。1.5キロだと1時間である。

水中ウォークを始めて最初の頃は、30分も1時間も、ただ25メートルのプールを行ったり来たりするなんて、退屈だなあと思っていた。ところが、だんだんそんな感じがしなくなってきた。景色の変化もないところを、ひたすら歩いているだけなのに、なんとも気持ちがいい。生命は海から生まれたそうだが、なるほど「むべなるかな」という気持ちにもなってくる。

午前中、プールに早めに行くと、水中ウォークでよく顔を合わせる年配の女性がいる。ゆっくりとした歩きだが、しっかりとしていて、どこと言って不自然なところはない。ところが、プールから上がった姿を見ると、彼女は壁に伝わってやっと歩いている。階段の上り下りは手すりにつかまって、さらに大変そうだ。横で同年輩の女性が手助けしている。

ことほどさように、水中を歩くのは、地上を歩くのに比べて、随分と楽なようなのだ。僕も、これまで何度か書いてきたように、この10年来、脊柱管狭窄症というのを患っていて、地上を歩いていると、時には足が痺れてきたりする。ところが、水中だと、全くそんなことがない。これだけに限れば、水中はまるで「天国」みたいである。

ところで、ウォークではなくて、先般(6月1日付)情けない話を書いた「泳ぎ」のことだけど、わずかずつではあるけど、進歩はしているようだ。ただし、指導員によるレッスンのクラスは、上から「上級」「中級」「初級」「初心者」と4つあるのだが、僕はいまだに「初心者」にとどまっている。

どのクラスのレッスンを受けるかは、全く個人の自由なので、僕も「そろそろ上のクラスに・・・」と、初級に何回か参加してみた。クロールや平泳ぎなら、ある程度はできる。まあ、なんとかなるだろう。

ところが、勝手がいささか違った。同じクロールでも、初心者クラスでは10メートル泳げば、指導員からOKが出る。ところが、初級クラスでは25メートルを泳がされる。途中で立ってもいいのだけど、僕には25メートルというのが、まだきつい。

背泳の初級クラスに出てみた時も、情けない思いをした。僕は高校生の頃、クラス対抗の水泳大会で、背泳の25メートルを泳いだことがある。成績は芳しくなかったものの、一応は泳いでいる。まだ泳ぎ方をいくらかは覚えているだろうと思ったのだが、レッスンでは体が全く浮かずに沈んでいく。早々に退散した。

いま僕にできるのは、クロールか平泳ぎで十数メートル、息継ぎをしないで泳ぐことである。息継ぎをすれば、まだまだ泳げるのだろうが、今のところ、その息継ぎがうまくできない。したがって、25メートルを泳ごうとすれば、途中で1回か2回、立ち上がるという、みっともないことになる。

聞けば、第18回アジア競技大会の競泳女子で、6冠を達成した18歳の池江璃花子さんは、最後の50メートル自由形を息継ぎなしで泳いだという。僕も50メートルは論外として、せめて半分の25メートルは息継ぎなしで泳げるようになりたい。1回か2回は息継ぎをしてもいい。そうなれば、ウォークだけではなく、泳ぎのほうも「天国」に近づいていくだろう。実際、そんな感じで悠々と泳いでいる人たちをよく見かける。よし、新しい目標ができた。そう決心したところである。

僕の「戦争」の思い出

新聞の投書欄には戦前、戦中生まれの人たちによる「戦争」の思い出がよく載る。そうだ、昭和15年(1940年)11月生まれの僕にも、それを残しておく資格、いや義務があるのではないか。また8月15日を迎えて、ふと、そんな気がした。年齢のせいもあるだろう。

当時、僕は大阪府の東のはずれ、生駒山麓の標高100メールほどのところに住んでいた。大阪市内から近鉄電車で20分ほどの村で、自宅2階の西側にある窓からは、大阪平野がそれこそ一望のもとに見渡せた。自宅の東側にある標高600メートルほどの生駒山を越えれば奈良県に入る。そんな田舎だったから、米軍機の爆撃を受けることはなかった。ただ、それなりの思い出はある。

昭和20年(1945年)3月10日は米軍による東京大空襲の日だった。この日の午前零時すぎ、300機のB29爆撃機と33万発以上の焼夷弾によって、約10万人が殺された。3日後の13日深夜から14日にかけては大阪が最初の大空襲に遭い、やはり300機近いB29爆撃機によって、東京に比べれば少ないものの、約4000人が殺された。

その日、満4歳9か月の僕は自宅の2階の窓から大阪大空襲を眺めていた。僕のいる場所と大阪市との間には暗闇が広がっていたが、その先の大阪市は北から南までがまさに「火の海」だった。だけど、「怖い」「恐ろしい」と思った記憶はない。むしろ、「奇麗」と感じていたように思う。花火を眺めているような感覚だったのかもしれない。火の海を逃げまどい、焼き殺されている人たちのことは全く想像できなかった。

傍らには30歳代後半の父がいた。大阪府庁の役人だった。父が火の海を見渡しながら言った。「あ、あの辺りは親戚がいる。やられたかもしれない」。翌朝、父はいつもより早起きし、その親戚の家に向かった。当時、普通の家庭には電話などはなく、直接、訪ねて行くよりほかに方法はなかった。その後、親戚の被災については何も聞かなかったから、どうやら無事だったらしい。

大阪大空襲は8月15日の敗戦までに合わせて8回あった。そのうちのどの空襲の後かは定かでないが、ある日の夕方、父が小学校高学年くらいの一人の男の子を連れて家に戻ってきた。男の子は空襲で焼け出されて家族と離ればなれになり、大阪市内の近鉄電車のターミナルを一人でうろついていたらしい。とりあえず夕飯を食べさせ、玄関の上り口の3畳間に布団を敷いて寝かせた。翌朝、僕が3畳間をのぞきに行くと、男の子は布団をきちんとたたんで、畳の上に正座していた。朝食のあと、父は男の子を連れて出勤していった。

男の子はその後、どうなったのだろうか。父は僕には何も話さなかったし、当時の僕には尋ねてみようという考えも浮かばなかった。それから父が亡くなるまでにはまだ40年もあったのだから、聞いておけばよかったと悔やんでいる。

空襲のないわが家ではあったが、「空襲警報」だけはよく鳴り響き、そのたびに防空壕に駆け込んだ。家のすぐ裏には高さが30メートルほどの小山があり、そこに奥行10メートルくらいのかなり長い防空壕が掘られていた。他人の持ち物に勝手に穴を掘っていたわけだが、文句が出たという話は聞いていない。

8月15日のことも少し覚えている。昭和天皇の「玉音放送」は全く記憶がないが、昼過ぎ、庭先で一人で遊んでいると、坂の下のほうから「戦争は終わりました」と、大声で繰り返す男性の声が聞こえてきた。村役場の職員か誰かだったのだろう。僕は戦争で格別の被害は受けていなかったけれど、「ああ、よかった」と、開放感のようなものを感じた。

戦争が終わって、まだ間もない秋ごろだったと思う。あるいは、もっと後だったかもしれない。奇麗なお姉さんが近くに間借りした。着ているワンピースは華やかで輝いていた。近所の女性たちはまだくすんだモンペ姿だった。そんな中ではとても目立った。何がきっかけだったか、僕はお姉さんと親しくなり、ときどき彼女の部屋に遊びに行った。見たこともないようなお菓子を食べさせてくれた。いろんな小物もくれた。お菓子も小物も輝いていた。

ある日、僕と母は、家の近くに借りていた畑で農作業をしていた。そこに、さっきのお姉さんが通りかかり、お互いに声を上げて手を振り合った。僕は彼女のところに飛んで行った。ところが、母はなぜか険しくて不機嫌な顔をしていた。なぜだろう? 不思議に思ったが、母は何も言わなかった。

随分あとになって思ったことだが、奇麗なお姉さんは多分、米軍将兵相手のその種の女性だったのだろう。「パンパン」「パン助」あるいは「オンリー」「オンリーさん」などと呼ばれる日本人女性がいた。当時30歳代半ばだった母は、そのことを僕に告げることもできず、ただ険しい顔をするのが精いっぱいだったのかもしれない。

彼女はいつの間にか、近所から姿を消してしまった。新聞の投書欄に載る話とは迫力において比べ物にならないけれど、僕には彼女の「ワンピース姿」と、さっきの男の子の「正座姿」が、70年以上が過ぎた今も、脳裏にくっきりと残っている。