「知らんぷり」は駄目よ

この9月1日は関東大震災からちょうど100年目だった。同日付の新聞各紙の社説を見ると、どこもこのことを取り上げている。社説の長さも普段より長めの新聞が目立つ。ただ当時、流言を信じた人たちによって引き起こされた朝鮮人虐殺については、新聞によって、社説以外でも詳しく報道したり、ほとんど無視したり、態度がかなり違う。

つまり、朝日、毎日、日経はこれを社説の中で取り上げ、再びこのような惨事が起こらないよう訴えている。社説では触れなかった東京も別の面で詳しく書いている。一方、読売と産経の社説(産経の社説は「主張」と称している)は、もっぱら防災面の主張ばかりで、朝鮮人虐殺については全く書いていない。100年という節目の年なのだから、少しでも社説で触れるべきだと思うのだけど、故意に黙殺しているみたいである。

関東大震災時の朝鮮人虐殺とは、当時「朝鮮人武装蜂起した」「放火している」「井戸に毒を投げ込んでいる」といった流言が広がり、これらを信じた自警団や軍隊、警察の一部により多くの朝鮮人が犠牲になった事件のことだ。その数は千人から数千人と言われており、朝鮮人と間違われた中国人、そして日本人も犠牲になっている。

日本人が犠牲になったのは「福田村事件」と呼ばれ、千葉県の福田村(現在の野田市)に香川県からやってきた薬の行商団15人が自警団に襲われ、幼児や妊婦を含む9人が殺された。行商団の人たちは讃岐弁で話していたので、朝鮮人だと疑われたようなのだ。

読売の名誉?のために言えば、この事件が最近、映画になったこともあり、同紙も8月末、これを取り上げ、その中で朝鮮人虐殺についても書いている。ただ、話の中心はあくまで日本人であり、その背景として朝鮮人虐殺が登場するといった感じだ。また、9月1日付の夕刊1面のトップ記事では、大震災の犠牲者の追悼法要などを大きく伝えながらも、朝鮮人虐殺の追悼式典については全く触れていない。

このように、朝鮮人虐殺を無視している趣の読売も、埼玉県在住の僕の目に触れる埼玉版では、短い記事ながら、ちらりと登場したりする。例えば、約60人の朝鮮人が犠牲になった熊谷市では市の主催で追悼式が行われ、市長が出席した、自警団員に殺された朝鮮人青年の追悼式がさいたま市の寺で行われ、市長がメッセージを寄せた、といった具合だ。朝鮮人虐殺を無視する本社の意向が地方にまでは届いていなかった、あるいは地方の記者が造反した、と勘繰りたくもなってくる。

一方、産経は、僕が一生懸命に紙面を繰った限りでは、朝鮮人虐殺は徹底無視といった感じで、逆に「旧軍の救援活動」との記事が出てくる。確かに、軍隊もそうしたかもしれない。ただ、関東大震災当時、軍隊の一部も朝鮮人虐殺に加担したと伝えられているのに、救援活動だけを取り上げられては、ちぐはぐな感じを否めない。

こうした「知らんぷり」は一部の報道機関に限ったことではない。有名なのが小池百合子東京都知事だ。9月1日、東京都の横網町公園で行われた朝鮮人犠牲者追悼式典には今年も追悼文を送らなかった。送付なしは7年連続で、「都としては犠牲となられた全ての方々への追悼の意を表している」「何が明白な事実かについては、歴史家がひもとくものだ」というのが理由とか。何やら意味不明の言い訳だが、朝鮮人虐殺の事実に異を唱える団体もあり、そうしたところからの反発を恐れているみたいなのだ。

知らんぷりは、政府も同じである。松野博一官房長官朝鮮人虐殺の事実について8月末の記者会見で「政府として調査した限り、事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」と述べている。朝鮮人虐殺を示す官民の資料が巷にあふれているのに、「政府としては何も知りません」と言っているのと同じである。不誠実極まりないとはこのことだろうか。そして、小池都知事や松野官房長官の言動と、一部報道機関の朝鮮人虐殺に対する態度とは、どこかで「連動」しているみたいでもある。

日本は今、東京電力福島第一原子力発電所の処理水の安全性を世界に訴えているが、それを信じてもらうには、政府の発言が普段から基本的に誠実でなければならないのではないか。それなのに、史実さえ黙殺してしまう日本政府の言うことを誰が信じてくれるのだろうか。処理水放出を理由に日本の水産物の輸入を全面的に止めたりする中国政府のやり方は、理不尽そのものではあるが、わが官房長官の発言を聞いていると、それだって「むべなるかな」と思えてしまうのである。

僕って「常識」が足りないのかなあ!?

前回のブログに、学生時代の深夜、屋台のラーメン屋で「1杯食べたが、腹はすいたままだ」という文があったが、僕は当初、「1杯食べたが、腹の虫がおさまらない」と書いていた。お腹がすいて、すいて、どうしようもない、との意味だった。そして、その原稿を編集者にしている娘に送ったところ、「腹の虫がおさまらないとは、腹立たしくて我慢できない、という意味よ。お腹がすいて我慢できないって意味はないんだけど……」と電話があった。

「そうなの? じゃあ、『虫』を削って、腹がおさまらないとしたら、どうだろうか。それで、いいんじゃない?」と答えたが、調べてみると、「腹がおさまらない」も「腹立たしくて我慢できない」との意味のようだ。仕方なく「腹はすいたままだ」と書き換えたが、「へえ、僕ってこんなことも、知らなかったんだ。常識がないね」と感じ入ってしまった。いや、この「感じ入る」も使い方が少しおかしいかもしれない。

ふと、四半世紀ほど前、新聞社を定年退職し、中国の大学でボランティアの日本語教師になった時のことを思い出した。教師になるには、教員免許あたりがあったほうがいいだろうけど、僕にはそんなものはない。そこで、「教員免許がなくても、なにしろ40年近く新聞社にいたものですから、世の中、知らないことはありません」と売り込み、二つ返事で採用してもらった。

幸い、2つの大学での計6年間、その後、自分で塾を開いての数年間、学生や塾生たちから「『腹の虫がおさまらない』の意味は?」なんて、意地悪?な質問は出なかった。もし出ていたら、大恥をかくところだった。

「腹の虫」でちょっとがっくりきた後、雑誌を読んでいて、またもや常識不足を思い知らされた。それは「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」という言葉である。この言葉自体は知っている。意味も分かっているつもりだ。ところが、これが江戸時代の米沢藩9代藩主上杉鷹山(1751-1822)の言葉だとは知らなかった。もちろん「名君」と言われた上杉鷹山のお名前は存じ上げているが、それと「なせば成る」とがつながっていなかった。僕の常識には、どこか「欠陥」があるようだ。

もっと言えば、「なせば成る……」は数々の名言の類を残した戦国時代の武将武田信玄(1521~1573)の言葉にさかのぼるとか。そんなことも全く知らなかった。さらに、意気消沈した。

しかし、捨てる神あれば拾う神あり、である。これも言葉の使い方がややおかしいかもしれないけど、まあいい。要するに、その後、少し自信を取り戻したのである。

テレビで池上彰林修という当代の人気者のバラエティー番組をぼんやりと見ていたら、最近の若者は語彙が乏しいとかで、試みに街中で20歳前後をおぼしき連中に「二枚目」「鈍行」「(話の)さわり」などの意味を尋ねている。すると、全くと言っていいほどに答えられない。例えば、ややうろ覚えだけど、「二枚目」は「表と裏のある人」なぞと答えている。なんたることか。僕なら全部、すらすらと答えられるぞ。

それからしばらく後、僕が好きな藤沢周平氏(1927~1997)の時代小説を読み返していた。すると、『消えた女—彫師伊之助捕物覚え―』の中に「夜泣きそば一杯では、腹がおさまらなかった」という文が出てくるではないか!!! 今、藤沢氏がご存命なら、すぐに手紙を出して、注意喚起したくなったかもしれない。

いやいや、そんな必要はない。言葉の意味や使い方は時代とともに変わっていくものである。ならば、「腹(の虫)がおさまらない」には「腹立たしくて我慢できない」に加えて「腹がすいて我慢できない」という意味も新しく付け加えてもいいのではないか。藤沢氏でさえ間違いを犯すのだから、単なる無知から来たものとは言えない。現に「腹の虫が目をさます」は「空腹」のことである。いっそ、藤沢氏と一緒になって、そんな運動を起こしてみるのも面白かったのではないか。娘に間違いを指摘された悔しさからか、話が随分と飛んでしまった。

わが「苦学生」時代と奨学金の返済

学生時代に借りた「貸与型」の奨学金を返せず、それを苦にして自殺する人がいる。警察庁などのまとめでは、2022年にそんな人たちが10人いた。「人数は氷山の一角だ」との指摘もある。かつて貸与型奨学金の世話になった僕にとって、他人事とは思えない。

大阪生まれ、大阪育ちの僕は1959年に京都の大学に入った。大阪から通えないこともないが、大学に入ったからには、勉学は落第しない程度にして、スポーツ、それもサッカーを一生懸命にやりたかった。当時、ワールドカップには無縁のサッカー後進国日本でも、1964年の東京オリンピックを前にサッカーが盛んになりつつあった。

大学のサッカー部の練習は午後の授業が終わってから日没まで続く。大阪から京都まで通学していては当然、サッカーに打ち込む時間はない。だから、ぜひ京都に下宿(間借り)したかった。1か月の生活費は1万円ほどかかる。親に言うと、OKはしてくれたものの、仕送りできるのは月3000円が限度で、あとは奨学金とアルバイトで何とかしてくれとのこと。僕の下には3年おきに弟が2人いる。まあ、仕方のないことだった。

ちなみに、京都でいま子供を下宿させている知人に聞いたら、月に要る生活費は15万円ほどとのこと。大ざっぱな話だけど、京都での若者の生活費は、僕が暮らした時代のざっと15倍ほどになっている。

話はまた昔に戻り、僕は毎月、どこかから7000円ほどを工面してこなければならなくなった。ひとつは家庭教師だ。当時はまだ大学生が少なかったから、3000円やそこらは稼げるだろう。もうひとつは大阪府の月4000円という当時としては高額の奨学金が狙いだった。もちろん貸与型であるが、僕がこの奨学金をもらえないはずはない。

ひとつには、僕は極めて優秀な成績で大学に入っている。多分、合格者の上位1割以内にいるはずだ。ふたつには、家が貧しい。父はもともと大阪府庁の役人で、農業関係の課長をしていたが、40歳代の半ばで退職し、某私立大学の総務課長に転じた。将来を考えてのことだったろう。結果的にはそれがよかったとは思うのだけど、母が当時、「給料が半分になってねえ」とぼやいていた。僕が大学に入ったのはそれから10年近くあとだったが、家の貧しさは相変わらずだったのだろう。

こんなふたつの「好条件」に恵まれた僕だったが、奨学金の選考にはあえなく落選した。信じられない。何かの間違いではないか。僕は父に「府庁に行って、事情を調べてきてほしい」と言った。その何日か後、府庁から戻った父に「どうだった?」と聞くと、父は「入学試験の成績が悪かったからだ」だとしか言わなかった。その時の父の険しい顔が今でも浮かんでくる。

ショックだった。入学試験の成績は上位1割以内と思っていたのに、下位1割以内だったのか? いや、最下位だったことも考えられる。ただ、僕もこのことで少しは賢くなった。自分から「成績がいい」「仕事ができる」と言う人間は、いっさい信用しなくなった。僕と同じく自分のことが分からない馬鹿に違いない。

大阪府奨学金については、何か月か後に二次募集があり、僕はなんとか合格した。父が昔の府庁時代のコネを使い、裏から手を回したのかもしれない。

かくして始まった大学生活だったが、3回生(3年生)のあの夜の「空腹」は、今でもたまに脳裏に浮かんでくる。深夜、腹が減って、下宿から出て屋台のラーメン屋に向かった。1杯食べたが、腹はすいたままだ。もう1杯食べたい。でも、そんなことをしていたら、明日以降の食費が大変だ。我慢しよう。よし、大学を出たら、ラーメンを2杯でも3杯でも食べられる人間になってやるぞ。そんな大志?を抱いたのである。

そんなふうに、豊かな生活ではなかったものの、そう悲惨でもなかった。僕と同じ下宿で襖1枚の隣の部屋に住んでいたサッカー部の同輩は、僕以上に苦学生だった。ある時は、ひと月の家賃3000円が払えなくなり、家主に謝りに行った。すると、「大変でしょうね」と、何千円かの生活費を貸してくれたそうだ。

1963年春、僕は新聞社に就職し、奨学金の返済が始まった。月々2000円だった。当時、僕の本給は手取り2万円ほどで、ほかに打ち切りの時間外手当が1万数千円あった。収入は学生時代の3倍以上に増えている。月に2000円くらいの返済なんて、どうってことはない。いま返済に苦しんでいる人たちに比べると、実に恵まれていた。天引きされていることを忘れるほどだった。

何年返済した後だったかは忘れたが、ある日、母から連絡があり、「あんたはもう奨学金を返済しなくてもいい。こちらで返しておくから」とのこと。思うに、弟2人も大学を出て家計にいくらかゆとりができた。本来は親が出してやりたかったカネを子供に返済させるのは可哀想だ。そう思ったのだろう。僕は特には深く考えずに、母の申し出に従った。

だけど、思うに、僕は別のことを母に伝えるべきだった。「月に2000円なんて、僕には何でもないよ。これからも僕が返していく。母さんはその分で何か欲しいものでも買ったらどうなの」。もし、母にそう言ったら、どんなに喜んでくれたことか。なのに、僕は何も言わなかった。それから半世紀以上も過ぎたのに、当時のことを思い出すと、今なお悔恨の念にかられるのである。

組織人と自由人…どう折り合いをつけて生きるか 

藤沢周平氏(1927~1997)の時代小説を最近、暇に飽かせて読み返している。その中に「用心棒日月抄」という4部作がある。北国の小藩の藩士、青江又八郎が様々な理由でざっと20年ほどの間に4度にわたって脱藩を強いられる。脱藩している間は素浪人である。そして、江戸での用心棒稼業で糊口をしのぎながら、生きていく物語である。

青江又八郎の本来の雇い主である藩は冷たい。時には密命を与えて無理やり脱藩させながら、生活の面倒をみるのは故郷に残した家族だけで、又八郎自身には知らぬ顔である。彼は江戸の口入れ屋(今で言えば、ハローワークか。ただし口入れ屋は個人の店である)で、用心棒あるいは人足など仕事を探すしか生きる道はない。ある時は何日も仕事がなく、粥だけで生き延びている。

それなのに、同じ長屋に住む夜鷹が怪しげな男に付け狙われていると聞き、救うためにひと肌脱ごうとする。口入れ屋で知り合った同じ素浪人との間に友情が生まれ、助け合うこともある。読者にとっては、又八郎のそうした生き方が爽快に思えてくる。又八郎自身もそんな生活を楽しんでいるように見える。

こうした又八郎のことを、文芸評論家の川本三郎氏は「用心棒日月抄」末尾の解説で「二つの顔を持っている。北国小藩の藩士としての顔と、脱藩して江戸に出た素浪人としての顔である。組織人と自由人の二つの面を併せ持っている」と書いている。インサイダーとアウトサイダーとも言える。

組織人と自由人…その二つの立場にどう折り合いをつけて生きていくか。これは現代にも大いに通じる話ではないか。組織人であっても、どこかで自由人として生きる。言い換えれば、息を抜く必要がある。年がら年中、組織人では、息が詰まってしまう。組織に締め付けられ、揚げ句は自死するまでに追いつめられる話が絶えないだけに、そんな気がし、自分の来し方にまで思いが及んでしまった。

すると、僕は案外、青江又八郎ほど豪快ではないし、小説のネタには決してならないけど、組織に属しながら、自由人として過ごした期間もなくはなかったなあと思えてきた。僕は22歳から60歳になるまで朝日新聞社にいた。入社した頃、ここには「戦前戦中の愛国心に代わって、これからは愛社心を持つように」なぞと叫ぶ変な編集局長もいたが、ちょっと知恵を働かせれば、しばらくの間でも組織人から自由人に変わることができた。

例えば当時、10年間勤続すれば、1カ月近い有給休暇をもらえる制度があった。ところが、この制度を利用した者はかつて誰もいないとか。思うに、休暇を申し出るのが怖かったのだろうか? 僕はそんなことはなかったけど、少し知恵を絞った。「この制度を利用し、イギリスに行って英語を勉強してきます」。まんざらの嘘ではなかったけど、組織から何の連絡もない自由人の生活を味わってきた。当時の会社の役員会では「最近の若い社員にはおかしな奴がいる」と話題になったそうだ。

そのうちに、タンカーに乗って大海原を渡りたくなった。船会社に学生時代の友人がいる。これもちょっと知恵を絞った。「夏休みに船に乗せてほしい。必要なカネは個人で払う。遊びだけど、あとで航海記を書いて新聞に載せる」と彼に持ちかけると、快諾してくれた。1年目は東京―台湾―香港―シンガポールと乗り、2年目はシアトル―東京だった。必要なカネと言っても、シンガポールからの戻りとシアトルまでの行きの航空運賃以外は、船中でのわずかな食費くらいだった。航海記を書くのに特に取材することもない。寝転がっていれば、材料は自然に耳に入ってくる。これも組織から解放された2週間だった。

次いで、外国をちょっと長めに歩いてみたくなった。とりあえず、日本の奈良から中国の西安(昔の長安)まで歩くのはどうか。かつて遣隋使や遣唐使が通った道だ。ただし、休暇を取って自腹で歩くのは、期間も長いし、大変だ。新聞社の企画にして、いろんな人を集め、団体で歩いて行こう。自腹を切らないで済む。

スポンサー集めには少し苦労したが、これも数年おきに2回にわたって実現した。総距離3000km、うち陸路1500km。2カ月以上せっせと歩いた。本社との連絡用に、当時はまだ目新しかった携帯電話を持っていたが、気持ちは自由人である。あとで、飲み屋の女将から「あんた、組織を利用して遊んでるんじゃないの?」と言われてしまった。

他にも、いろいろと思い出すことがある。定年まで社内のチームでサッカーをやっていた。毎夏の長野県霧ケ峰での合宿は楽しかったなあ。社外の人たちとも一緒になってスペイン・イタリアとカナダに遠征し、地元のチームと対戦したのも楽しかった。一方で、40年近い間、組織人として何をしてきたか、どんな貢献をしたか、思い出すことがそんなにない。雇い主に申し訳なかった気もする。
 
定年退職後は中国ハルビンと桂林の大学で日本語の教師をしたが、宿舎は提供してもらう代わりに、給料なしのボランティアだった。自由人でもない、組織人でもない、両生類みたいな存在で、これはこれでまた楽しかった。

そして今は全くの自由人である。我が人生の思い出に、一度は完璧な組織人として、しゃにむに組織のために働いてみたいとも思うのだけど、どこからもお声が掛からない。人生は思い通りにはいかないものである。

(編集者のうっかりミスで、更新が遅れました)

「熱中症」体験記

明け方の5時頃だった。それまで気持ちよく眠っていたはずなのに、突然、軽い吐き気を感じた。しばらく耐えていると、今度は汗が出てきた。就寝中、冷房は切っているが、部屋の中は暑くはない。それなのに、汗が止まらない。背中や胸がびっしょりになった。

めまいもしてきた。トイレに行くために立ち上がろうとするが、それが難しい。近くにあった椅子にすがって、やっと立ったものの、たちまち無様に崩れ落ちてしまう。目の前がくるくる回っている。仕方がないので、這いながらトイレにたどりついた。便器に腰かけるのがまた大変で、戸や壁につかまったりして、いったん立ち上がった後、どしんと崩れるようにして腰を下ろした。大きな音がして、便器が壊れそうだ。体の自由がほとんど利かなくなっている。次には、便器から立ち上がる元気が湧いてこない。10分やそこらはじっとしていただろうか。

でも、そうばかりはしておれないので、一応トイレからは出たものの、寝室まで戻るだけの気力がない。それに、わが家は寝室とトイレの間にかなりの距離がある。いったん寝室に戻れば、次にトイレに行くのが大変だ。幸い、トイレの前の板の間は結構広い。しかも、布団の上よりも板の間のほうが、ひんやりとして気持ちがいいだろう。とにかく当分はここで横になっていることにした。

少し眠ろうとするけど、吐き気も続いている。おまけに足の筋が吊ってくる。眠れそうもない。ふと「ナロンエース大正製薬)」という頭痛薬のことを思い出した。日本人だけでなく中国人などにも人気の薬で、薬局でこれを求めると「ひとり1箱にしてください」「飲むのはどなたですか」「買いだめしていませんか」なぞと、まるで悪者扱いされる。よく効くので濫用する人が多いようなのだ。僕はめったに飲まないけれど、一応身辺に置いているので、2錠飲んだ。

しばらくすると、吐き気がきつくなり、とうとう吐いてしまった。胃の中には何もなかったらしく、白っぽい胃液が板の間に広がった。見ると、その中に、さっき飲んだナロンエース2錠が浮いている。まだ体内に吸収されていなかったのだ。苦しい息の中で、思わず笑ってしまった。

少しはうとうとしただろうか。時間を見ると9時を過ぎている。救急車を呼ぼうかしら? でも、この程度のことで救急車は、なんだか悪いなあ。それに、ここから救急車まで歩いて行く元気がない。担架で運ばれるのを近所の人に見られたら、恥ずかしいなあ。近くの行きつけの内科医に行く手もある。だが、タクシーを呼んでも、どのようにして乗り込むか。庭先からタクシーまで這っていくのか。それが問題である。

もうひとつ、医者に行きたくない理由がある。今日は特には外出の予定もなかったので、昨夜風呂に入った後、下着のシャツは着古したやつを身につけた。汗で黄ばんでいるし、脇の下が破れている。医者に行くなら着替えたいが、その元気もない。仕方がない、もう少し板の間で横になっていることにしよう。

ナロンエースをまた2錠飲んだ。午後になると、さすがに少し気分がよくなってきた。寝ている場所も、冷房の効く畳の部屋に移した。夕方には食欲も出てきて、おかゆに梅干しという「病人食」をおいしく平らげた。ビールも飲んだ。ついでにウイスキーも……。

ところで、元気を回復するとともに、今日、なんで、こんなことになったのか、気になってきた。あのめまいの原因は何だったのか? 脳に何か欠陥があるのだろうか? たまたま知人との電話で、朝からの症状について話すと、「それ、全部、典型的な熱中症の症状じゃないの」とあきれられた。医者には診てもらってないので、断定はできないが、スマホで検索してみると、いちいち確かにそうである。僕は最近、友人・知人にメールを送ったり、手紙を出したりする際には、「熱中症にはお気をつけてください」と書き添えているが、その本人が熱中症の症状について無知だったとは、全くあきれ返った話である。

それはそれとして、前回のこのブログで、二度寝の楽しみについて書いたが、ひとつ熱中症のいいところは、二度寝どころか三度寝、四度寝……何の罪悪感もなく、自由にできることである。症状さえもっと軽ければ、たまには熱中症になってもいいなあという気持ちになっている。

「二度寝」の誘惑と闘いながら……

どうもこのごろ、朝ごはんの後、長椅子に寝転んで、うとうとしてしまったりする。いわゆる「二度寝」で、これが実に気持ちいい。加山雄三さんの昔の歌じゃないけれど、「幸せだなァ 僕は……」といった気分になる。時間が知らぬ間に過ぎていき、気が付くと昼近くになっていたりする。朝、布団から起き上がる時、「さあ、あとで二度寝してやるぞ」と思ったりもする。

だが、もともと勤勉な(?)僕には、二度寝はいささか気にならないでもない。たまたまネットで「二度寝」と検索してみると、実にいろんな賛否の説が出てくる。二度寝を楽しんでいる人、二度寝に罪悪感を感じている人……いろいろいらっしゃるのだろう。いわく「二度寝はストレスを解消させる」「二度寝で体内時計が乱れるし、太りやすくなる」「二度寝で単に睡眠のリズムが乱れるだけではなく、生活のリズム全体を乱す結果にもなる」「二度寝がいいか悪いかは、仕方によって異なる」などなどだ。全体としては否定的な説が多数派のようだが、「やるなら10分か15分程度」が妥当な意見みたいである。

もっとも、僕の二度寝の時間はそれをかなり超えている。一日中、横になっていたら、さぞかし気持ちがいいだろうなあ。二度寝しながら、そう思ったりする。2021年に99歳で亡くなった作家の瀬戸内寂聴さんが(以下はいささかうろ覚えで、正確さを欠くのだけど)死去の数年前、「ずっと横になっていたいけど、これは死が近づいている証拠だと言われる。(1996年に98歳で亡くなった作家の)宇野千代さんも晩年は終日、横になっていたそうである」といったことを朝日新聞に書いておられた。お二人に比べれば、僕はまだ子供のような年齢である。冗談じゃない。一日中、横になっていたいなんて、思っちゃ絶対にいけない。

もうひとつ、気になることがある。先日の朝日新聞に、コロナ禍で高齢者の心身の虚弱(フレイル)、いわゆる「コロナフレイル」が進んでいるとの記事が載っていた。コロナ禍で友人・知人との交流や外出の機会が減った結果だそうだ。僕にも当てはまるだろうか? 確かに友人・知人との交流は減っているが、1日に原則1万歩を歩くなど、外出そのものには努めている。でも、だらだら歩きだし、二度寝も習慣化している。一種のコロナフレイルだと言われても仕方がないのではないか。先日、散歩の途中に、久しぶりにちょっと走ってみたら、脚がふらふらしていた。

よし、脚を鍛え直そう!! 僕は一念発起した。では、どうするか。コロナ禍の前にはちょくちょく行っていたわが川越市の「健康運動施設」のトレーニング室を思い出した。そこで「自転車」を漕ごう。正確には自転車ではないが、「走らない自転車」とでも名付けたらいいのか、自転車と同じようにペダルが付いた装置である(下の写真)。

これをせっせと漕ぐのである。負荷も強くしたり弱めたり、自由に変えられる。負荷を強めると、坂道を上がっているような感じになる。はっきりとしない写真で申し訳ないが、サドルのすぐ前には液晶画面があって、自転車を漕いで消費したカロリーが時々刻々と示される。また、その上にあるのはテレビ受像機で、退屈しのぎにドラマなんかも見られる。ちなみに、自転車の先の方に写っているのは、いわゆるランニングマシーンである。

で、自転車を30分、1時間、1時間半…と漕いでいると、消費したカロリー(kcal)も200、300、400と上がってくる。それがどれだけの値打ちのものか、よくは分からないけど、500を超えると、さすがに少しつらくなってくる。余談ながら、保冷バッグによく冷えた缶ビールを入れて持参し、自転車を漕いだ後、施設の周りに広がる公園で飲むのも楽しみである。

まだ数えるほどしか、ここに通っていないのだが、効き目があるような気もする。散歩していて、ひいき目に見てのことだけど、足元がしっかりしているような感じなのだ。ただ、僕の「一念発起」は我ながら、あまり信用できない。以前には「街中にあるハングルの表示ぐらいは読めるようになりたい」と、『ヒチョル先生のひとめでわかる韓国語』という本を買ってきたが、まだほとんど開いていない。「毛筆の習字を始めるぞ」と、確かこのブログにも書いたのだが、三日坊主で終わっている。

それに、二度寝の誘惑からはなかなか逃げ切れない。つい、ごろりとなってしまう。結果、二度寝した後、自転車漕ぎに出かける。中途半端な話だけど、今はとりあえず、それで妥協している。

「週刊朝日」の休刊に思う「なんのこっちゃ」の来し方行く末

101年間続いた雑誌「週刊朝日」が6月9日号で休刊した。近年の部数低迷にあえいだ揚げ句だったが、最後の「休刊特別増大号」は大いに売れた。記念に買っておこうと、発売日にコンビニに行ったが、すでになかった。記念買いの人が多かったのだろう。しばらくして書店をのぞいたら、「重版されました」と店頭に並んでいたので、買ってきた。

表紙が目を引く(上の写真)。「古き良き昭和時代の編集部」と題した写真で、ハチャメチャな連中がたむろしている。怒鳴っている奴がいる、居眠りしている奴がいる、上司を殴っている部下がいる、ゴミ箱を蹴散らかしながら取材に飛び出す部員がいる……写っているのは実在の編集部員で、写真家浅田政志氏による「演出写真」なのだが、僕が知る昭和時代の新聞社には確かにこんな雰囲気があった。

休刊号を繰ってみると、週刊朝日に文章や漫画を寄せてきた、あるいは毎週ゲストと対談してきた、そんな方たちが20人、30人。今後、他の媒体で連載を続ける人もいるが、多くの皆さんは今号で「さよなら」である。それぞれが「惜別の辞」を書いておられる。

これまでの連載の期間は結構長い。嵐山光三郎氏は「26年間。55歳だったが、気がつけば81歳」、内館牧子氏は「22年間」、対談記事の林真理子氏は「28年間」。漫画家で「パパはなんだかわからない」連載の山科けいすけ氏は1414回。絵と文で「あれも食いたい これも食いたい」連載の漫画家東海林さだお氏は1734回。これほど長く努力してきたのに、新聞社の都合で連載がバッサリと断ち切られる。東海林氏は「晴天の霹靂(へきれき)。書きたいことはまだまだいっぱいあった」と嘆いている。

自然に、僕のブログ「なんのこっちゃ」の来し方行く末に思いが飛んでしまった。記憶が少しおぼろげになっているが、実は「なんのこっちゃ」が産声を上げたのは前世紀の1990年代、まだ朝日新聞社に勤めていたころで、元読売新聞記者の黒田清氏(1931~2000)がやっていた月刊のミニコミ紙「窓友新聞」に書いていた。どれほど続いたかは忘れてしまったが、いずれにしろ黒田氏が亡くなり、窓友新聞がなくなるとともに、連載も終わった。原稿料は、失礼ながらミニコミ紙なので辞退したが、「それはよくない」と、ちゃんと払ってもらっていた。

ちなみに「なんのこっちゃ」という題は、加藤芳郎氏(1925~2006)の毎日新聞連載の漫画「まっぴら君」のセリフから頂戴した。「なんのこっちゃ」は主に関西で使われていて「何のことだ?」「何を言ってるの?」と、相手に疑問を突きつける言葉である。つまり、僕の主張が「おかしい」と批判された時、「だから、最初からコラムの題を『なんのこっちゃ』としているじゃないですか」と屁理屈で言い逃れよう、そんな実にセコイ発想から生まれた題だった。

「なんのこっちゃ」の次の転機は2002年の5月だった。すでに朝日新聞社を定年退職していた僕は当時、中国ハルビンの大学でボランティアの教師をしていた。そこへ新聞社時代に親しくしていた後輩から連絡があった。週刊朝日の編集長もした男で、いろんな人の文章を集めた「コラム畑」なるものを電子版でやる、ついては隔週でいいから何か書かないか、との誘いだった。「電子版」というのが当時としては耳新しい感じだった。

二つ返事で引き受けたが、「ただし、予算がないので、原稿料は払えない」とのこと。いささか人を食った話ではあった。だが、さすがは朝日新聞社である。2年後か、3年後だったか、「以後、原稿料を払います」と連絡してきた。ただし、5年後には、新聞社側の都合で「コラム畑」という欄そのものがなくなり、僕の「なんのこっちゃ」もお払い箱になった。2度目の「失業」であるが、まあ、どこかに影響を与える話でもないはずだった。

ところが、何人かの知らない方から「面白かったのに、なくなって残念だ」とのお言葉を頂戴した。豚もおだてりゃ木に登る。自分で勝手にやってみようかという気になり、娘を編集者に仕立てて、2008年1月に再開し、今日に至っている。15年以上になる。原稿料なんてものはない。逆に、編集者である娘に年金からわずかながら謝礼を払っている。

さて、わが駄文ブログはいつまで続くだろうか。週刊朝日の休刊が参考になる。週刊朝日の最後の編集長は「メディアには時代に与えられた役割があります。週刊朝日はいま、それを終えて表舞台から去り、一つの『記録』となります」と書いている。他人事のようだ。失礼ながら、ちょっと能天気過ぎはしないだろうか。週刊朝日と同じように古い毎日新聞社の「サンデー毎日」はまだ頑張っている。爪の垢でも煎じて……と言いたくなる。最終号の派手な表紙は単なる仇花(あだばな)だったのだろうか。

雑誌業界のある人が週刊朝日最終号について「内容が全く面白くなかった。絶望的なつまらなさと言ってもいい」と批判していたが、僕もそれに同感する。近年、週刊朝日を繰っていて「いったい誰に向かって作っているのか」と思うこともしばしばだった。それに、編集部員自身が面白がって雑誌を作っていなかったのではないか。最終号の表紙のようなハチャメチャさがいくらかでもあれば、まだ休刊には至らなかったのではないだろうか。

「なんのこっちゃ」にとっても他人事ではない。高校の同窓生から「読んでるよ」と言われたりはするけど、どうも最近、面白さに欠け勝ちではないか。今回も面白くなかったなあ。こんな調子だと、そのうちに愛想をつかされ、「休刊特別増大号」を書く羽目になるかもしれない。