「二度寝」の誘惑と闘いながら……

どうもこのごろ、朝ごはんの後、長椅子に寝転んで、うとうとしてしまったりする。いわゆる「二度寝」で、これが実に気持ちいい。加山雄三さんの昔の歌じゃないけれど、「幸せだなァ 僕は……」といった気分になる。時間が知らぬ間に過ぎていき、気が付くと昼近くになっていたりする。朝、布団から起き上がる時、「さあ、あとで二度寝してやるぞ」と思ったりもする。

だが、もともと勤勉な(?)僕には、二度寝はいささか気にならないでもない。たまたまネットで「二度寝」と検索してみると、実にいろんな賛否の説が出てくる。二度寝を楽しんでいる人、二度寝に罪悪感を感じている人……いろいろいらっしゃるのだろう。いわく「二度寝はストレスを解消させる」「二度寝で体内時計が乱れるし、太りやすくなる」「二度寝で単に睡眠のリズムが乱れるだけではなく、生活のリズム全体を乱す結果にもなる」「二度寝がいいか悪いかは、仕方によって異なる」などなどだ。全体としては否定的な説が多数派のようだが、「やるなら10分か15分程度」が妥当な意見みたいである。

もっとも、僕の二度寝の時間はそれをかなり超えている。一日中、横になっていたら、さぞかし気持ちがいいだろうなあ。二度寝しながら、そう思ったりする。2021年に99歳で亡くなった作家の瀬戸内寂聴さんが(以下はいささかうろ覚えで、正確さを欠くのだけど)死去の数年前、「ずっと横になっていたいけど、これは死が近づいている証拠だと言われる。(1996年に98歳で亡くなった作家の)宇野千代さんも晩年は終日、横になっていたそうである」といったことを朝日新聞に書いておられた。お二人に比べれば、僕はまだ子供のような年齢である。冗談じゃない。一日中、横になっていたいなんて、思っちゃ絶対にいけない。

もうひとつ、気になることがある。先日の朝日新聞に、コロナ禍で高齢者の心身の虚弱(フレイル)、いわゆる「コロナフレイル」が進んでいるとの記事が載っていた。コロナ禍で友人・知人との交流や外出の機会が減った結果だそうだ。僕にも当てはまるだろうか? 確かに友人・知人との交流は減っているが、1日に原則1万歩を歩くなど、外出そのものには努めている。でも、だらだら歩きだし、二度寝も習慣化している。一種のコロナフレイルだと言われても仕方がないのではないか。先日、散歩の途中に、久しぶりにちょっと走ってみたら、脚がふらふらしていた。

よし、脚を鍛え直そう!! 僕は一念発起した。では、どうするか。コロナ禍の前にはちょくちょく行っていたわが川越市の「健康運動施設」のトレーニング室を思い出した。そこで「自転車」を漕ごう。正確には自転車ではないが、「走らない自転車」とでも名付けたらいいのか、自転車と同じようにペダルが付いた装置である(下の写真)。

これをせっせと漕ぐのである。負荷も強くしたり弱めたり、自由に変えられる。負荷を強めると、坂道を上がっているような感じになる。はっきりとしない写真で申し訳ないが、サドルのすぐ前には液晶画面があって、自転車を漕いで消費したカロリーが時々刻々と示される。また、その上にあるのはテレビ受像機で、退屈しのぎにドラマなんかも見られる。ちなみに、自転車の先の方に写っているのは、いわゆるランニングマシーンである。

で、自転車を30分、1時間、1時間半…と漕いでいると、消費したカロリー(kcal)も200、300、400と上がってくる。それがどれだけの値打ちのものか、よくは分からないけど、500を超えると、さすがに少しつらくなってくる。余談ながら、保冷バッグによく冷えた缶ビールを入れて持参し、自転車を漕いだ後、施設の周りに広がる公園で飲むのも楽しみである。

まだ数えるほどしか、ここに通っていないのだが、効き目があるような気もする。散歩していて、ひいき目に見てのことだけど、足元がしっかりしているような感じなのだ。ただ、僕の「一念発起」は我ながら、あまり信用できない。以前には「街中にあるハングルの表示ぐらいは読めるようになりたい」と、『ヒチョル先生のひとめでわかる韓国語』という本を買ってきたが、まだほとんど開いていない。「毛筆の習字を始めるぞ」と、確かこのブログにも書いたのだが、三日坊主で終わっている。

それに、二度寝の誘惑からはなかなか逃げ切れない。つい、ごろりとなってしまう。結果、二度寝した後、自転車漕ぎに出かける。中途半端な話だけど、今はとりあえず、それで妥協している。