「週刊朝日」の休刊に思う「なんのこっちゃ」の来し方行く末

101年間続いた雑誌「週刊朝日」が6月9日号で休刊した。近年の部数低迷にあえいだ揚げ句だったが、最後の「休刊特別増大号」は大いに売れた。記念に買っておこうと、発売日にコンビニに行ったが、すでになかった。記念買いの人が多かったのだろう。しばらくして書店をのぞいたら、「重版されました」と店頭に並んでいたので、買ってきた。

表紙が目を引く(上の写真)。「古き良き昭和時代の編集部」と題した写真で、ハチャメチャな連中がたむろしている。怒鳴っている奴がいる、居眠りしている奴がいる、上司を殴っている部下がいる、ゴミ箱を蹴散らかしながら取材に飛び出す部員がいる……写っているのは実在の編集部員で、写真家浅田政志氏による「演出写真」なのだが、僕が知る昭和時代の新聞社には確かにこんな雰囲気があった。

休刊号を繰ってみると、週刊朝日に文章や漫画を寄せてきた、あるいは毎週ゲストと対談してきた、そんな方たちが20人、30人。今後、他の媒体で連載を続ける人もいるが、多くの皆さんは今号で「さよなら」である。それぞれが「惜別の辞」を書いておられる。

これまでの連載の期間は結構長い。嵐山光三郎氏は「26年間。55歳だったが、気がつけば81歳」、内館牧子氏は「22年間」、対談記事の林真理子氏は「28年間」。漫画家で「パパはなんだかわからない」連載の山科けいすけ氏は1414回。絵と文で「あれも食いたい これも食いたい」連載の漫画家東海林さだお氏は1734回。これほど長く努力してきたのに、新聞社の都合で連載がバッサリと断ち切られる。東海林氏は「晴天の霹靂(へきれき)。書きたいことはまだまだいっぱいあった」と嘆いている。

自然に、僕のブログ「なんのこっちゃ」の来し方行く末に思いが飛んでしまった。記憶が少しおぼろげになっているが、実は「なんのこっちゃ」が産声を上げたのは前世紀の1990年代、まだ朝日新聞社に勤めていたころで、元読売新聞記者の黒田清氏(1931~2000)がやっていた月刊のミニコミ紙「窓友新聞」に書いていた。どれほど続いたかは忘れてしまったが、いずれにしろ黒田氏が亡くなり、窓友新聞がなくなるとともに、連載も終わった。原稿料は、失礼ながらミニコミ紙なので辞退したが、「それはよくない」と、ちゃんと払ってもらっていた。

ちなみに「なんのこっちゃ」という題は、加藤芳郎氏(1925~2006)の毎日新聞連載の漫画「まっぴら君」のセリフから頂戴した。「なんのこっちゃ」は主に関西で使われていて「何のことだ?」「何を言ってるの?」と、相手に疑問を突きつける言葉である。つまり、僕の主張が「おかしい」と批判された時、「だから、最初からコラムの題を『なんのこっちゃ』としているじゃないですか」と屁理屈で言い逃れよう、そんな実にセコイ発想から生まれた題だった。

「なんのこっちゃ」の次の転機は2002年の5月だった。すでに朝日新聞社を定年退職していた僕は当時、中国ハルビンの大学でボランティアの教師をしていた。そこへ新聞社時代に親しくしていた後輩から連絡があった。週刊朝日の編集長もした男で、いろんな人の文章を集めた「コラム畑」なるものを電子版でやる、ついては隔週でいいから何か書かないか、との誘いだった。「電子版」というのが当時としては耳新しい感じだった。

二つ返事で引き受けたが、「ただし、予算がないので、原稿料は払えない」とのこと。いささか人を食った話ではあった。だが、さすがは朝日新聞社である。2年後か、3年後だったか、「以後、原稿料を払います」と連絡してきた。ただし、5年後には、新聞社側の都合で「コラム畑」という欄そのものがなくなり、僕の「なんのこっちゃ」もお払い箱になった。2度目の「失業」であるが、まあ、どこかに影響を与える話でもないはずだった。

ところが、何人かの知らない方から「面白かったのに、なくなって残念だ」とのお言葉を頂戴した。豚もおだてりゃ木に登る。自分で勝手にやってみようかという気になり、娘を編集者に仕立てて、2008年1月に再開し、今日に至っている。15年以上になる。原稿料なんてものはない。逆に、編集者である娘に年金からわずかながら謝礼を払っている。

さて、わが駄文ブログはいつまで続くだろうか。週刊朝日の休刊が参考になる。週刊朝日の最後の編集長は「メディアには時代に与えられた役割があります。週刊朝日はいま、それを終えて表舞台から去り、一つの『記録』となります」と書いている。他人事のようだ。失礼ながら、ちょっと能天気過ぎはしないだろうか。週刊朝日と同じように古い毎日新聞社の「サンデー毎日」はまだ頑張っている。爪の垢でも煎じて……と言いたくなる。最終号の派手な表紙は単なる仇花(あだばな)だったのだろうか。

雑誌業界のある人が週刊朝日最終号について「内容が全く面白くなかった。絶望的なつまらなさと言ってもいい」と批判していたが、僕もそれに同感する。近年、週刊朝日を繰っていて「いったい誰に向かって作っているのか」と思うこともしばしばだった。それに、編集部員自身が面白がって雑誌を作っていなかったのではないか。最終号の表紙のようなハチャメチャさがいくらかでもあれば、まだ休刊には至らなかったのではないだろうか。

「なんのこっちゃ」にとっても他人事ではない。高校の同窓生から「読んでるよ」と言われたりはするけど、どうも最近、面白さに欠け勝ちではないか。今回も面白くなかったなあ。こんな調子だと、そのうちに愛想をつかされ、「休刊特別増大号」を書く羽目になるかもしれない。