超「上から目線」の鉄道

鉄道の南寧駅へ切符を買いに行った。中国人が大切にする春節旧正月、今年は2月1日)のかなり前だから、売り場はそれほど混んではいなかった。それでも、10以上ある窓口にはそれぞれ20人ほどの客が並んでいた。とにかく、鉄道の切符を買うのはこちらでは大仕事なのである。駅その他の切符売り場の窓口で行列しないで買えることはまずない。50人、100人なんて行列も珍しくはない。

切符買いは塾の仲間に付き添ってのことなのだが、いくつかある近日券の発売窓口のひとつに僕も並んだ。昼前のことだ。仲間は別の列に並んでいる。ともに前には20人ほどの先客がいるが、窓口に早く到達した方が切符を買えばいい。いささかずるい気がしないでもないが、一向に前に進んでくれない列もあるから、やむを得ない手段でもある。

列が前に進まないよりも、もっと困ることがある。その日も隣の列が突然崩れ、みんな別の列に並び直している。見ると、いつの間にか窓口に「休憩時間11:30〜12:00」の電光掲示板が出ている。窓口にいた駅員の女性はさっと引っ込んでしまった。彼女の休み時間が来たのだろう。

そのうちに、別の窓口でも列が急に崩れた。窓口の女性がやはりさっと姿を消してしまったのだ。仕方なく客たちは別の列に並び直しているが、「休憩時間」の表示はない。5分ほど経つと、その女性が口をもぐもぐさせ、手に紙コップを持ちながら、戻って来た。休み時間とは関係なく、勝手に何かを食べに行ったらしい。

南寧駅の窓口の中はみんな女性、いや「女性」なんて丁寧に呼びたくはなくなる。客とはけんか腰で、ニコリともしない。切符や釣り銭は投げてよこす。「超」のつく上から目線で、客をまるで犬か猫のように扱っている。不思議なことに、客も全く文句を言わない。ひとり、ふたりが抗議しても、仕方がないとあきらめているのだろう。文句を言ったとて、態度を改めるような輩(やから)でもなさそうだ。

窓口のサービスが悪くても、列車が時刻表通りに走ってくれればまだいい。ところが、これがよく遅れる。例えば、南寧−桂林はわが塾の連中も何かと利用することの多い区間だが、時刻表だと5〜6時間の予定が2〜3時間遅れることは日常茶飯事である。遅れて何時に着くという車内放送もたまにはあるが、お詫びの言葉は一切ない。

乗務員(これも女性が多い)に遅れる理由を尋ねると、このごろは「高速鉄道」という一言が居丈高に戻ってくるそうだが、これはまだ増しなほうで「あんたは高速鉄道のことも知らないのか」と怒鳴られることがあるとか。確かに最近は各地で高速鉄道の建設が進んでいる。年末には南寧、桂林あたりで実際に走り始めた。それと(日本風に言えば)在来線の遅れとはどんな関係があるのか、よくは分からない。現に、高速鉄道の建設が始まる前からもよく遅れていた。とにかく、高速鉄道を遅れの隠れ蓑にしているようでもある。

南寧では今、地下鉄の工事が進んでいる。それはそれで結構なことなのだが、ひとつ気に食わないのは、広い道路の全部あるいは半分を、あちこちで何百メートルかにわたって封鎖して工事していることだ。おかげで交通は大渋滞である。日本ではこんな厚かましい工事のやり方を見たことがない。中国でも北京から来た人が「北京では考えられない原始的な工事方法だ」と笑っていたそうだ。家の前をふさがれた商店はまさに商売あがったりである。シャッターを下ろしている店も多い。想像するところ「補償」なんてろくにないのではないか。

その工事現場の壁には地下鉄工事に関するスローガンがいっぱい掲げられているが、これがまた「超」のつく上から目線である。「迷惑を掛けて済みません」というのも少しはあるが、大体は「地下鉄は都市生活をさらに素晴らしいものにします」「南寧の人民を幸せにするために地下鉄を造っています」「文明都市は文明地下鉄を造り、文明社会は文明市民を作ります」「皆様のために100パーセントの努力で100年もつ工事をしています」「100年もつ地下鉄を造り、一緒に中国の夢を実現しましょう」といった調子である。言葉は丁寧でも、地下鉄を造ってやっているのだ、ありがたく思え、との感がありありである。

なかでも、僕が一番腹を立てているのは(外国人が立腹したって仕方のないことだけど)写真のようなスローガンである。今天的不便是為了明天的方便――今日の不便はあしたの便利のためです。第二次世界大戦中、わが日本にあった「欲しがりません 勝つまでは」と似た発想である。人民は不便に対して文句を言うなとのこと。じゃあ、大気、水、土の深刻な汚染という「不便」も我慢しろと言うのか。我慢していたら「便利」がやってくるのか。中国の人民諸君に成り代わって、僕の怒りはエスカレートしていくのである。