「斜め」から見た「総選挙」

政見放送を見て驚いた。うわぁ、この人、ポスターとまったく違うわ」。10月31日投開票の衆議院議員総選挙の期間中、朝日新聞夕刊の「素粒子」にこんな文が載っていた。世の出来事を寸評する欄だ。何を今さら、そんなことで驚くの? と思わないでもないけれど、同感である。街角の選挙ポスターや新聞広告の顔と、テレビの政見放送で見る顔とが、まさに「まったく」と言っていいほどに違っている。そういうことがよくあるのだ。

僕が住む埼玉県の某選挙区では、野党の前職と新顔の女性、そして与党の新顔男性の計3人が立候補していた。僕は野党の前職の女性に投票したのだが、この人の選挙ポスターの顔写真は若々しく、これからを期待できそうな印象だ。

ところが、テレビの政見放送で見る彼女の顔は「まったく」違う。ポスターとは、まるで別人のようだ。むしろ、こちらのほうが頼れる政治家といった感じではないかとも思うが、ポスターとテレビでの「二つの顔」がなかなか結びついてくれない。多分、ポスターの顔は随分と以前のものなのだろう。

一般に、ポスターや新聞広告の顔とテレビの政見放送での顔とが一致しないのは、男性も一緒である。ポスターのお顔は若々しく、政見放送のほうが老けて見える。ポスターでは「髪」があるはずの男性が、政見放送で最敬礼されると、いわゆる「バーコード」がちらりだったりもする。お気持ちは分かるが、髪の毛のあるなしなんて、政治家の価値にはまったく関係ない。そう励ましたくもなってくる。

これは何も新しい問題ではない。例えば、2009年にはある参議院議員が、選挙ポスター用写真に「常識を逸脱した古い写真」を使うことは公職選挙法違反ではないか、撮影期日の期限などを設けるべきだとして、政府の見解を求めている。これに対し、当時総理大臣だった麻生太郎氏は、写真が古くても公選法には違反していないとしたうえで、撮影期日の期限などについては「各党各会派において十分議論していただく必要がある」と答えている。要するに、うやむやになっている。「古い写真」がまかり通る所以である。

ポスターの写真と並んで、以前から腑に落ちないことがまだある。それは、もともとは漢字だった姓名の一部、あるいは全部を選挙ポスターや新聞広告では平仮名表記にすることである。例えば、本来の姓名が「岩城 元」だったとする。読み方はいくつかあるから、漢字のわきに「いわき はじむ」と振り仮名をつければいい。それを「いわき 元」「岩城 はじむ」あるいは「いわき はじむ」と書いてあることが多い。

自民党総裁岸田文雄氏は、選挙区がわが埼玉から遠く離れた広島だから、ポスターなどにどう表記しているのか不明だが、埼玉が選挙区の立憲民主党代表の枝野幸男氏は「えだの 幸男」と書いている。一方、姓名を本来の漢字で書き、振り仮名をつける、あるいは漢字だけで振り仮名もつけない、そういった候補者はざっと見たところ、少数派である。だが、堂々とした感じを受ける。

どうして平仮名表記が流行するのか。特別に難しい漢字の場合は別として、このほうが票に結びつくと思っているからだろう。あるいは、有権者は漢字の読み書きがちゃんとできないとでも思っているのか。どうも有権者を小馬鹿にしているように感じられてならない。

僕は以前、ネットの「J―CASTニュース」に「こんなものいらない!?」というコラムを連載していて、同様の疑問を書いたことがある。すると、「少し考えれば分かるのでは」と、僕を小馬鹿にしたような匿名の反響があった。いわく、遠くから眺めた時には、漢字より平仮名のほうが見やすい、振り仮名は小さくて、遠くからでは分かりにくい、名前の書き間違いは無効票につながるから、多くの人が間違えない平仮名がいい、などだった。

そして、「選挙というより、広告と考えたほうが分かりやすいかもね」と結んであった。そうなのだ、「常識を逸脱した古い写真」といい、「姓名の平仮名表記」といい、「これさえ使えば、たちまち……」といった健康食品や化粧品や養毛剤の広告と同類なのだ。嘘ではないのだから、票さえ集まればいい。――でも、それって、少しは恥ずかしくないのだろうか?