岸田さんにも勧めたい「文章の縮約」

中国で日本語を教えている中国人の先生から、この「なんのこっちゃ」を教材に使いたいと言ってきた。こんな駄文を……と恐縮するばかりだが、ついては「1回の分量が初心者には長すぎる。半分に縮めてもらえないか」とのこと。お安い御用だ。さっそく過去の「なんのこっちゃ」からいくつかを選んで、作業に取り掛かった。あっという間に出来るだろう。字数を数えてみると、普通は2千字ほどある奴を1千字にすればよいだけだ。

ところが、思いもしなかったことには、これが結構手間取る。ほぼこれでOKかと思っても、まだ4分の3ほどにしか縮まっていない。あと、どこを縮めようか。と言っても、この部分は残しておきたいし、あそこも必要だろう。何かと迷ってしまう。

ふと、40年ほど前のことを思い出した。今はもうないが当時、「朝日ジャーナル」という、ちょっと偉ぶった週刊誌があり、僕はそこに在籍していた。某日、ある大学教授から郵便で原稿が届いた。400字詰めの原稿用紙に書かれている。まだワープロもパソコンも普及していない頃のことだ。原稿の内容そのものはいいのだが、いかんせん長過ぎる。限られた誌面にはとても収容しきれない。

僕は原稿をほぼ半分に縮め、お詫びの手紙とともにゲラを郵便でその教授に送った。数日後、教授から電話があった。「これで結構です。ところで、あなたは私の原稿を随分と短くしたとのことですが、いったいどこを削ったのですか。私には分かりません」。

そうなんだ、他人の原稿なら、思い切って縮められる。自分の原稿でも、他人の原稿だと思って臨めば、それほど難しくないはずだ。そう気づいてから、「なんのこっちゃ」もあまり時間をかけないで縮められるようになった。そして、半分に縮めた文章を読んでみると、こちらのほうが何を言いたいのか、はっきりしてきた感じがする。頭の中が整理されてきたみたいだ。「なんでこれまで、こんなに長く書いてきたんだ。半分でもよかったのではないか」とさえ思うようになった。

20年ほど前のことも思い出した。言語学者大野晋さんの著書『日本語練習帳』(岩波新書)のことである。僕が中国の大学で日本語を教え始める少し前に出た本で、何かと参考にし、なかでも「縮約」は授業でも随分と使わせてもらった。「縮約」とは長い文章を短くすることだが、大野さんによると、それは「要約することや要点を取ることではなく、地図で縮尺というように、文章全体を縮尺して、まとめること」だ。そして、大野さんは教え子の大学生たちに、1400字ほどある新聞の社説を400字に縮約することを20回、30回と求めたそうだ。加えて「400字で一つのまとまった文章として読めるものでなくてはいけない」と注文した。

これを僕も、日本語を学ぶ中国人の学生たちにもやらせてみた。上手なのもいたし、箸にも棒にも……といった学生もいた。まず言えることは、ひとつの文章を読んで、全体の「骨格」をつかめるか否かだ。骨格が分からない学生だと、文章の最初の部分からいきなり「縮約」に入っていく。そして、たちまちのうちに400字近くになって、最後のほうは尻切れトンボになってしまう。縮約は文章を読む力を鍛えるとともに、書く力をも養うことにつながってくる。大野さんの教え子たちは、この縮約の授業が社会に出てから一番役に立ったと言っていたそうだ。

岸田文雄首相は先日、国会で所信表明演説をした。翌日の新聞を見ると、その内容は紙面の1ページ全部を占めていて、6900字もあるとか。野党から「美辞麗句に過ぎず、具体策がない」「反省がない」などと批判されたが、まあ、とりわけ悪いことを言っているわけでもない。でも、この長さではご本人も、何を国民に約束したのかを忘れてしまうのではないだろうか。

そこで、岸田さんにお願いしたいのだけど、所信表明演説を400字は無理としても、せめて1千字か2千字にご自分の手で縮約してもらえないだろうか。岸田さんの頭の中も整理されるはずで、これを常に懐に入れておく。短いから、折に触れて読み返せる。そして、所信表明演説では「成長と分配の好循環」とか「新しい資本主義」の実現とか言ったけど、簡単にはいかないなあ。「信頼と共感を得られる政治が必要」なので、全閣僚が様々な人と「車座対話」を行うとも言ったんだが、今のところ、口先だけに終わっているなあ。そんなふうに日々、反省しながら、政治に臨んでもらいたいものである。