ついに「脊柱管狭窄症」の手術をすることに

僕が長年、「脊柱管狭窄症」に悩まされていることは、これまでに何度も書いてきた。神経をおさめている脊柱管が、加齢に伴い狭くなって神経を圧迫し、おかげで、歩いていると足が痺れてきたり、痛くなったりする。調子のいい折にはかなり続けて歩けるけど、時にはそれこそ数十メートルごとに立ち止まって休まないと歩けなくなる。

発症したのはもう10年以上前のこと、中国・桂林で日本語の塾を開いていた時だった。塾の生徒たちと一緒に街を歩いていたら突然、足が痺れだし、道端に倒れこんでしまった。しばらく休んでいると、また普通に歩けたが、それからは似た症状がときどき現れるようになった。

以後、日本にいる折には、半年か3か月に一度、慶應義塾大学病院の整形外科に通い、レントゲン写真を撮って、病状の進み具合を見たりしてきた。ただ、医師から「手術をしますか?」と聞かれても、いつも「いや、もう少し様子を見ます」と答えてきた。なんとか、運動や体操で治したいと思っていた。慶応病院に通うのは、どうしようもなくなり、いざ手術という場合に備えてといった気持ちが強かった。

で、友人のマッサージ師に教えを請うたり、体操で治したという昔からのサッカー仲間にそれを実演してもらったり、あるいは「こういう体操がいい」と勧める指南本を買ってきたり、それこそ「溺れる者は藁をもつかむ」といった感じでいろいろ努力してきた。時には「あれ、最近は調子がいいな。これだと手術しないで済むかもしれない」と思うこともあった。

だけど、それも長続きしない。それどころか、最近は調子の悪い時が「常時」といった感じになってきた。歩き始めは大股で速く歩けるのだが、しばらくすると、痺れてきた足をかばいながらでないと歩けなくなる。街中で周りを眺めると、僕より遅く歩いている人なんて、まずいない。どんなおじいさん、おばあさんでも僕よりは速く歩いていて、やがて後ろ姿が見えなくなってしまう。悔しい。ジョギングをしている人を見ると、ほんとに羨ましくなる。

でも、家に籠っているのは嫌なので、1日に外で1万歩以上は歩くようにしているが、これが結構つらい。残念だが、「白旗」を上げよう。これ以上、頑張っていても、大きく改善できる見込みはなさそうだ。

それで先日、慶応病院の整形外科に定期の健診で行った折に、医師に「いよいよ手術をお願いします」と告げた。すると、医師は「じゃあ、まず2泊3日で検査入院していただき、それから……」と、実ににこやかに応対してくれた。笑顔の裏には「長い間、手術を拒否していたけど、ついに降参したな。もっと早くしておいてもよかったのに……」といった気持ちがあったかもしれない。検査入院とその後の手術は8月か9月になりそうである。

以前に書いたことがあるが、僕は昨年5月、同じ慶応大学の呼吸器外科に入院して、右肺の腫瘍の除去手術をしたことがある。担当の医師の話だと、「脊柱管狭窄症の手術に比べれば、肺の腫瘍の除去手術なんて、簡単なものですよ」ということだったが、本人からすると、決してそうではなかった。そんなこともあって、なかなか決心がつかなかったのだが、もう降参である。

そうは言っても、手術の実際はどうなのか、経験者の話を聞いてみたいものと思っていたら、関西在住で、僕より10歳ほど若いいとこが以前に経験していたことが分かった。さっそくメールで問い合わせてみた。すると、手術は全身麻酔で3時間、あとは翌日までHCU(High Care Unit)室で過ごしたとのこと。日本語でいえば、高度治療室だ。よく聞くICU(Intensive Care Unit)室、つまり集中治療室よりも重篤度が低い患者の面倒をみるところだそうだ。

HCU室を出て病室に戻ってからは、痛みが出たり収まったりする中でのリハビリ。何日も手術跡からの出血が止まらず、大変だったとのこと。結局、10日あまりで無事退院したが、「私は手術が成功しましたが、術後の後遺症で長くリハビリを続けている知人もいます。最新の手術設備と確かな執刀医のいる病院を選んでください」と結んであった。

僕は慶応病院では、さっきの右肺の腫瘍除去手術のほか、網膜剥離などの目の手術も3回やっている。どれも成功したから、この病院を信用はしているけれど、人間のやることである。今回も100パーセント成功するとは言い切れない。でも、その心配よりも、痺れや痛みなしで歩けるようになる、走れるようになる、そんな期待のほうがずっと大きい。できれば、しばらくやめていたサッカーも再開してみたい……と、もっぱら明るい未来を思い描いている。

「レジ袋有料化」で思い浮かんだ「日中のプラごみ事情」

スーパーマーケットやコンビニエンスストアなどの小売店では7月1日から、プラスチック製の買い物袋、いわゆる「レジ袋」の有料化が義務づけられた。遅すぎたとはいえ、それはそれで結構なことなのだけど、「レジ袋」というと、なぜか僕の脳裏に浮かんでくる昔の出来事がある。

もう40年も前、1970年代の終わりだった。当時、僕は朝日新聞の経済記者だった。ある日の夜遅くの編集局で、刷り上がってきたばかりの経済面を眺めていた。すると、伊藤忠商事が中国に対してレジ袋(当時は「ポリ袋」あるいは「ビニール袋」と呼んでいた気がするが)のノウハウを輸出するという短い記事が目に入った。それ自体は特別にどうってことのない話なのだが、記事の最後のところに「中国の流通の近代化に役立つだろう」とあり、この部分が「?」と僕には引っかかった。

記事を書いた記者がちょうど近くにいた。僕はさっそく彼に言った。「おい、正しくは、流通の近代化に役立つのではなくて、中国で今後、ごみの増加が心配される、ではないのかい?」。彼は僕より3歳下の優秀な記者だったが、「確かにそうかもしれませんね」と、素直に頭をかいた。多分、伊藤忠商事の発表文の中に「流通の近代化」うんぬんといった表現があり、彼は深くも考えずにそれを引用してしまったのかもしれない。

でも、なんで、僕は環境問題に特に関心があるわけでもないのに、同僚記者にそんなことを言ったのだろうか? レジ袋の歴史を調べてみると、わが国のスーパーなどで広く使われるようになったのは、1970年代のことである。したがって、70年代の終わりごろにはその弊害が指摘されるようになっていたのではないか。

そして、中国の知人に聞いてみると、日本の商社のおかげかどうか、中国でも80年代に入ると、主に欧米系のスーパーなんかではレジ袋がどっと使われだした。中国語では「塑料袋(スーリャオタイ)」と言い、塑料とは「プラスチック」のことである。それらがごみの収集がまだまだ十分ではなかった中国のそこかしこに捨てられるようになった。

僕は新聞社を定年退職した後の2001年、中国の東北地方(旧満州)のハルビンに行き、ハルビン理工大学の日本語科でボランティアの日本語の教師をしていた。大学の近くの川のほとりをよくジョギングしていたが、塑料袋がそこかしこに捨てられていた。そんな折、日本語科のある女子学生が書いてきた作文が今も強く印象に残っている。

その内容は――真夏のある日、彼女の妹が「お姉さん、スキーに行きましょうよ」と誘ってきた。「エッ、何を言っているの? 今ごろ、雪があるわけないじゃないの?」とたしなめると、妹は「お姉さんって、何も知らないのね。今では夏でもスキーができるようになったのよ。ほら、ごらんなさい」と言いながら、窓を開けた。すると、遠くの山には真っ白に雪が積もっている。

彼女も納得し、二人でスキーの板を担いで、山に向かって歩き出した。やがて、山のすそ野に着いた。妹が突然、泣き出した。「お姉さん、ごめんなさい。これは雪じゃなかった」。確かに雪ではなく、山は上から下まで、捨てられた白い塑料袋で覆われていたのだった。――もちろん、実際にあったことではないけれど、身の回りを見れば、さもありなんと思わせる話だった。

日本より10年ばかり遅れて、レジ袋が使われるようになった中国だが、その弊害に対処したのはわが国よりもずっと早かった。12年前、2008年6月からスーパーなどでのレジ袋が有料化された。値段は1枚0・1元(1・5円)、0・2元(3円)、0・3元(4・5円)といったところらしい。下の写真は中国の大手スーパー「联华(連華)」の0・3元のレジ袋である。
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しかし、人口14億を抱える国のことでもある。この程度ではとてもプラスチックごみの削減には至らない。逆にプラごみは増え続け、その量は米国をはるかにしのいでナンバーワンである。もちろん、当局も手をこまねいているわけではない。2022年までにはプラスチック製の袋の使用を全面的に禁止するそうである。やっと、レジ袋が有料化されたわが国に比べ、対策は何歩か先を進んでいる。
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話をわが国に戻すと、せっかくレジ袋の有料化にこぎつけたのに、「抜け穴」もあるような気がする。それは、なんと呼ぶのかは知らないけど、上の写真にあるような「プラスチック製の袋」が(僕が知る限り)どこのスーパーでもレジを出たところに備えつけてあることだ。これは「持ち手」がなく、レジ袋ではないので、7月以降も無料である。

スーパーで眺めていると、おばさんやおばあさんに多いのだけど、すでに立派に包装された肉や魚や寿司、弁当などをこの袋に入れ、それからレジ袋に移している。この袋を10枚、20枚と取って、カバンに入れているおじさんも見かけた。何に使うつもりかは聞き損ねたけど、これからは有料になったレジ袋の代わりにこれを使う人が増えるのではないだろうか。レジ袋と同じく、ごみ出しの際にも十分に使えるし、ペットを散歩させる際の糞入れにもできる。

ちなみに、上海在住の中国人に聞くと、かの地のスーパーにはこんなものはない。それでも、なんの不自由も感じていないとのことである。

憂鬱なマスク生活を「パロディー」で笑い飛ばそう

「アベノマスク」の愛称(?)で知られる政府配布の2枚の布マスクが6月初め、埼玉県の我が家にもやっと届いた。せっかくだから、1枚を着け、もう1枚を手に持って、記念撮影をしてみた(下の写真)。
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だけど、布マスクというのはやはり着け心地がイマイチである。それに、鼻を隠せば、顎がのぞいてしまう。美観の点からも、問題がある。洗えば何度でも使えるというのが売り文句だそうが、そんな気にはとてもなれない。日ごろ、嫌な顔もせず、これをつけて国会に出るなど、公務を果たしている安倍晋三首相はどんなお気持ちだろうか。

そうだ、中国でもアベノマスクは有名になっているそうだ。なんと呼んでいるのか、中国の知人にメールで尋ねてみたら、「安倍口罩(アンベイコウジャオ)」だとのこと。「口罩」は「マスク」だから、まさにアベノマスクそのものである。

そして「テレビの国際ニュースで見たら、安倍首相のマスクは以前よりも小さくなっているみたいです。洗って縮んだのでしょうか。ちょっと口を動かしたら、鼻の穴や下の唇までが見えそうです。安倍首相の健康が心配です」と付け加えてきた。

また「今ごろ、アベノマスクの話だなんて、もう旧聞ですよ」と言いながら、中国の検索エンジン百度」で見つけた映像をいくつも送ってくれた。中学生の孫娘に見せたら、「あ、これは見たことがある」などと言うので、ここでご披露する値打ちがあるのかどうか、ネットに疎い僕には自信がない。ただ僕には面白かったので、そのうちのいくつかをご紹介する。初出がどこだったかは分からないけど、少なくとも中国人はこれらを見て楽しんでいるみたいである。
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上の写真は説明する必要もないだろうが、菅義偉官房長官が掲げている額の中にはかつて「令和」の二文字があった。こんなことを習近平氏あたりを材料にしてやれば、すぐ削除されるのはもちろん、投稿した人は拘束されてしまうだろう。だけど、太っ腹な安倍氏や菅氏はこれを見ても、きっと笑い飛ばすはずである。
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次の漫画では、一家4人が2枚のアベノマスクを分け合って着けている。その説明を意訳すれば「マスクが小さすぎて、口を覆えば鼻が出てしまう。口と鼻を一緒に隠せないので、笑いものになっています」といったところか。
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以上、我らがアベノマスクを茶化す作品とは離れて、憂鬱なマスク生活そのものについては、上の2枚の写真がなかなかに深刻な将来の生活を予言してくれている。マスクをしたままでの喫煙に食事――喫煙はこの際、思い切ってやめれば済むことだけど、食事はそうはいかない。いちいちマスクを外すのも面倒である。そのうちに、こんなマスクが売り出されるかもしれない。

いや、世界はもっと劇的に変わってしまうかもしれない。それが下の漫画である。マスクを着けた男性が、肩にタオルを掛けただけ、ほかには何も身に着けずに、スッポンポンで立っている。
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添えられた説明を適当に訳せば、「これから5年もみんながマスクを着け続けていたら、次の世代になれば、人体で隠すべきところは『口』ということになる可能性がある」。つまり、下半身なぞは人前にさらしていても、何ら恥ずかしくないものになってしまうかも、という予言である。と言いながら、現代の漫画であるから、男性の陰部にはさすがに「ぼかし」が入っている。

いやあ、同じマスクのことでも、もっと明るい話題はないものだろうか? 先ほどの中国の知人にさらに尋ねたら、「あります」と言って、次のような話を教えてくれた。

若い女性たちは日ごろ、とにかくミニスカートをはきたくて仕方がない。だけど、お尻がのぞいたら恥ずかしい。はきたくても、抵抗があった。しかし、マスクで顔を隠せば、少々お尻が見えても、恥ずかしくはない。おかげで、最近の中国ではミニスカートで颯爽と街中を歩いたり、スクーターに乗ったりする若い女性が増えましたとのことである。

ほんとなのか、冗談なのか。それは不明だけど、何やらさっきの漫画と共通するお話ではあった。

昭和のころの「記者と賭けマージャン」

東京高等検察庁の黒川弘務検事長新型コロナウイルスの非常事態宣言が出ている最中に2回、産経新聞記者のマンションで産経記者2人、朝日新聞社員1人と賭けマージャンをしていた。このことが『週刊文春』で報じられ、黒川氏は検事長の職を辞任した。

産経の記者はともに検察庁担当で、朝日の社員も今は記者職ではないものの、以前は検察庁担当の記者だった。新聞社の3人は黒川氏という検察庁ナンバー2の情報源をしっかりとつかんでおきたかった。それが同氏とマージャンに興じた大きな理由だった。そういう事情が容易に想像できる。法務省の調べだと、賭けマージャンのレートは1千点を100円に換算する「点ピン」と呼ばれるもので、現金のやりとりは1万~2万円程度だったそうだ。

そんな話に接して、僕の現役の記者時代を思い出した。最近の若い記者はあまりマージャンをやらないようだが、当時、昭和のころの記者仲間ではマージャンが実に盛んだった。もちろん、賭けマージャンである。

もう50年以上も前のことだ。僕は朝日新聞社に入って九州に5年ほどいた後、東京本社の政治部に転勤し、首相官邸記者クラブ詰めになった。当時の首相は佐藤栄作氏。僕の主な役目は「佐藤番」で、首相のところに誰が来たかを見張るのが仕事だった。政治部の新米記者はまずこれをやらされた。

その官邸記者クラブの隅にはマージャン卓が置いてあり、新聞社、テレビ局、通信社といった各社の記者が「呉越同舟」でよくマージャンに興じていた。ここでやるマージャンは一般的なものとはちょっと違って「茶殻マージャン」と呼ばれていた。マージャンをやらない方には分かりにくくて申し訳ないけど、誰かが上がれば、そこで現金をやり取りして清算する。例えば、僕が誰かに振り込めば、その場で彼に千円を渡す。もし、僕が自摸って上がれば、3人から千円ずつをもらう。マージャン卓の上では、それこそ千円札が乱舞していた。

記者クラブでのマージャンがこんなやり方になったのは、仕事が飛び込んでくれば、すぐにやめなければならないからだろう。例えば、誰かの記者会見が始まれば、すぐそれに出なければならない。何時間も続けて、のんびりやっているわけにはいかない。その点、茶殻マージャンなら、現金のやり取りはその都度、済んでいるので、いつでもやめられる。名前の由来については、ネットに「茶殻と同じように、いつでも捨てられるマージャンだから」という説があった。まあ、そんなところかもしれない。

もちろん、記者クラブにいる記者たちみんなが、こんなマージャンに興じていたわけではない。むしろ、やらない記者のほうが多かっただろう。やるのは「キャップ」と呼ばれている年配の記者が多かった。

僕は政治部にしばらくいた後、経済部に異動になった。それからは大蔵省(現財務省)、通産省(現経済産業省)、農林水産省といった官庁を担当することが多かった。どこの記者クラブにもマージャン卓が置いてあって、ここでも各社の記者たちがよく卓を囲んでいた。昼間は仕事もあるから、そんなに長くはやらないが、仕事が一段落した後は、深夜に及ぶことも時にはあった。

ここまで僕は記者クラブでの賭けマージャンを他人事のように書いてきたが、実は、僕も結構やっていた。午前中からマージャン卓の前に座っていることもあった。そんなときは早朝、政治家や役人の家に朝駆けし、仕事も一応はやっていた。ただ、黒川氏と3人の記者、元記者のように、取材先とやったことは一度もなかった。記者仲間の誰かが取材先とやっているという話も聞いたことがない。でも、なんと言い訳しようとも、記者クラブでの賭けマージャンというのは、どうも感心しない。と言うより、やってはいけないことだろう。

そもそも、記者クラブの部屋自体がどこかのお世話になっている。僕の場合だと、首相官邸や大蔵省などである。もっと正確に言えば、税金で賄われている。そのうえ、マージャン卓と牌、あれも税金で賄われていたはずである。当時も「こんなのよくないなあ」と思わないでもなかったけど、その世界にどっぷりとつかってしまい、罪悪感はそれほどには強くなかった。

話を今回のことに戻すと、最初にも書いたように、黒川氏と産経新聞記者、朝日新聞社員は「1千点100円」で賭けていたとのこと。僕も勤務後、茶殻ではなく普通のマージャンを社内の仲間とやる時はそんなレートだった。

さらに言い訳すると、マージャンに限らず勝負事はそもそも賭けなければ面白くない。楽しくない。法律上は1円でも賭ければ、賭博だそうだけど、いわゆる「点ピン」くらいなら、「大人の遊び」として許されてもいいのではないか。かつての賭けマージャン「常習犯」の正直な気持ちである。

ただ、今回の黒川氏にからむ賭けマージャンは「非常事態宣言」が出ている折に「密室」でというのが引っかかるし、取材先との「癒着」という点も気になる。しかし、僕がいま朝日新聞の現役の記者で、あのマージャンに誘われたら、断っていたかどうか。何しろ、黒川氏はその「定年延長」が問題になっている「渦中の人」である。安倍晋三首相が自分に近い黒川氏の定年を無理やり延長し、次の検事総長にしようとしている。それは自分が将来、検察庁から睨まれないようにするための布石である。そんな話がもっぱらだったからだ。

その黒川氏がマージャンをしながら、「自分で定年延長を望んだわけでもないのに、周りからいろいろ言われて疲れたよ。もう検事長を辞めるよ」とでもつぶやくかもしれない。現に、検察庁の先輩あたりも黒川氏に辞任を求めている。時節柄、「黒川氏 辞任へ」は新聞の1面トップの大ニュースである。よし、虎穴に入らずんば虎子を得ずだ。僕も多分、マージャンに参加していただろう。

今回の事件は、懐かしいけれども、いささか無頼で、いささか恥ずかしい、僕の現役記者時代を思い出させてくれた。

コロナ禍での蟄居生活の「収支」

ご多分に漏れず、コロナ禍のもとで蟄居生活をしてきた。うんざりはしているが、ただ一つというか、ありがたいのは、財布の中のお札の減り方が遅々としていることである。コロナ禍で職を失ったりして、その日の生活にも困る人たちが多いなかで、まことに申し訳ないのだが、月末になっても、財布の中に1万円札が何枚か鎮座していたりする。じゃあ、貯金でもしておくか。すこし大げさに言えば、我が人生で初めての経験である。月末や給料日前の財布に余裕があったことはついぞない。コロナ禍がきっかけで、おカネにかつかつしていた昔の日々を思い出してしまった。

まったくの余談になるけど、実家を出て間借り生活をしていた大学時代は、月末がとりわけ悲惨だった。例えば深夜、空腹に耐えかねて屋台のラーメンを食べに出る。1杯食べても、まだ空腹が収まらない。もう1杯食べたいが、そんなカネはない。よし、将来はラーメンが好きなだけ食べられる身分になってやるぞ。真剣にそう思った。当時、屋台のラーメンは1杯24円だった。

大学を出て新聞社に就職し、九州の某支局に赴任した。結構いい給料をもらっていたので、ラーメンは好きなだけ食べられるようになった。だが、学生時代とは打って変わって、夜な夜な飲み歩くのが習慣になり、財布はすぐにカラになる。支局長によくカネを貸してもらった。貯金なんてことは全く考えず、基本的にはそんな生活が60歳の定年まで続いた。定年後は中国に渡って、大学の日本語科の教師をしたりしたが、すべて年金に頼ったボランティアだったから、かつかつした生活は同じだった。

それが今、コロナ禍で多くの人が困っているというのに、僕の財布には余裕が出てきた。政府が公表した3月の家計調査で、前年同月に比べて支出が大きく減ったものは、外食での飲酒代、食事代、それに宿泊費、鉄道運賃などである。僕の財布の余裕もまさにそのせいである。ひそかに、馴染みのビアホールに行って散財してみようと思っても、店自体が閉まっている。
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外食代が減った代わり、このところ、僕の財布からもっともお札が出ていくのは家飲み用のビール、ウイスキー、日本酒といった酒代である。だけど、僕はオンライン飲み会などといった派手なことはやらないし、第一、やり方も知らない。したがって、他人様の目を気にすることもない。一人だけの家飲みだから、無理して高い酒を飲むこともない。しかも、ウイスキーなら1.8リットルとか2.7リットルのお徳用を買ってくる。時には、風評被害に遭っていそうなメキシコの「コロナビール」(写真上)も買ってくるのだが、少々飲んでも、大した金額にはなりようがない。

ほかにも支出が増えたものがないことはない。政府の調査でも1割余り増えていたが、書籍代である。蟄居しているとあまりにも暇だから、「そうだ、中国語を勉強しなおそう」という気持ちになった。僕の中国語の程度と言えば、ひどいものだけど、数年前には3級の試験を受け、結構いい成績で合格した。勢いに乗って、すぐに2級に挑戦したのだが、みごとに惨敗し、以後やる気をなくしていた。いま受験したら、一番下の5級でも落ちるかもしれない。

やりなおすには、NHKラジオの中国語講座を聞くのが、手っ取り早いのではないか。そう考え、「まいにち中国語」「おもてなしの中国語」というテキストを買ってきた。それらを聞き始めると、番組の近辺で英語の講座も聞こえてくる。そうだ、英語はもう何十年も喋ったことがないなあ。中国語のかたわら英語も復習してみよう。で、「ラジオ英会話」だの、いくつかのテキストも買ってきた。そんなわけで、僕も書籍代がいくらか増えている。図書館も休んでいるので、仕方なく書店で買ってくる本もある。

金銭的な損得とは関係がないが、コロナ禍をきっかけに日記をつけ始めた。感染者には「感染経路不明」が結構多い。もし僕が感染した時、経路の見当がつかなければ、周りに迷惑や心配をかけてしまう。少しでもそうはならないように、日ごろの行動を書いておこうと思ったからだ。

日記と言えば、子供のころはいつも三日坊主だった。が、新聞社を定年後、中国に住むようになってから、ふと思いついてつけだしたら、意外に延々と続いた。それがこの数年、ほとんど日本にいるようになってから、書かなくなった。中国にいれば、何かと面白い話、興味を引く話も多いが、日本ではそうでもないからだ。それがコロナ禍をきっかけに復活した次第で、自分が読んでも面白くもない話をだらだらと書いている。

かように、僕にとっては、まことに不謹慎ながら、感染さえしなければ、コロナ禍にもいいところがある。ただ、10万円の給付金をもらうのは、何やら悪い気がする。そうかと言って、政府がなんの「見返り」も求めないわけがない。東日本大震災の後も、本来の「基準所得税額」の2.1パーセントが「復興特別所得税額」として追加徴収されている。そのうちに、きっと「新型コロナウイルス撲滅記念特別所得税額」(名称自体は冗談です)とか称して増税があるはずだ。2パーセントやそこらではなく、もっと高率で、しかも10年、20年と続くだろう。その時に備えて一応は10万円を受け取って、貯金しておこうかと考えている。

スーパーで商品をいじり回さないで

東京都の小池百合子知事は大型連休前の記者会見で都民に、スーパーなどでの買い物を「3日に1回程度」にするよう呼び掛けた。さらに、事業者に対しても、買い物かごの数を制限したりして、入店者数を抑制するように求めた。新型コロナウイルスの感染者が拡大するなか、生活必需品を扱うスーパーなどは休業要請の対象ではないため、非常に混雑するところも出てきている。そこで、密閉、密集、密接のいわゆる「3密」を避けるための都知事からの要請だった。

埼玉県の片田舎に住む僕には、スーパーの混雑なんて、それほど関係のない話である。我が家の近くには歩いて行ける範囲にスーパーが3つも4つもあるが、いつ行っても、そんなには混んでいない。ただ、小池さんにはせっかくだから「3日に1回程度」以外にもうひとつ、言ってもらいたかったことがある。

それは、スーパーでは「商品をあまりいじり回さないでください」ということである。

たとえば、イチゴの売り場。おばさんがパックに入ったイチゴを手に取り、それこそ上から下から、前後左右からといった感じで眺めている。やがて、そのパックを元の棚に戻して、別のパックを手に取る。それが何回か続く。最後に、どれかを買い物かごに入れるのならまだしも、どれも入れず、別の商品がある次の棚に向かう。そして、また同じことを繰り返す。

イチゴの場合は、まだいい。一応、パックに入っていて、イチゴ自体はおばさんの汚い(失礼)手には触れない。だけど、例えばトマトの1個売りの場合は、僕が行くスーパーでは、パックなぞには入れていない。むき出し、丸裸のまま並べてある。おばさんはそれをまた1個、1個、上から下から、前後左右から……トマトの「弾力」を確かめているようでもある。張りのあったトマトがブヨブヨしてきそうだ。

新型コロナウイルスが蔓延する前なら、それを許してもまだよかった。僕も目くじらは立てなかった。しかし、もし今、イチゴやトマトをいじくり回したおばさんの手に問題のウイルスがいっぱいついていたとしたら……そして、おばさんのあとで同じスーパーに行った僕が、そのイチゴやトマトを買ったとしたら……まことに気の毒なことになるかもしれない。

大阪府松井一郎知事が小池さんの会見のあと、次のようなことを記者会見で話したそうだ。「我が家では、妻が買い物に行くと、いいものかどうかってね、いろいろ商品を手に取るんで、時間がかかる。僕は言われたら、そこへ直接行って、どういうもんであろうと手に取って、かごに入れて、会計して帰ってくるんで、我が家では僕のほうが早いということです」。つまり、女性ではなく男性がスーパーに行けば「3密」は避けられるということである。

彼の発言はそれなりに事実である。たしかに、商品をいじくり回すのは、僕が見るところでも、おばさんに多い。でも、おじさんだって、負けてはいない。先日、30歳くらいの男性がスーパーのバナナ売り場にいた。彼はパックに入ったバナナを順番にいくつも手に取り、重さを量っているみたいだった。重いほうがお買い得ということだろうか。

あるときは、50歳代とおぼしきおじさんが、山積みされたブロッコリーを1個ずつ手に取って眺めている。5個、6個は手でつかんだだろうか。そして、結局はどれも買わず、去って行った。僕もブロッコリーを買いたかったのだが、その気持ちはすっかり失せてしまった。

日本のこんなスーパー事情を上海にいる中国人の知人に伝えたら、「じゃあ、ネットで注文して宅配で買えばいいじゃないですか」との返事。「いや、日本ではそう簡単にはいかないのですよ」と打ち返すと、上海での宅配事情を写真つきで知らせてきた。
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上の写真が、知人の勤め先の1階にある、日本語で言えば「野菜配送センター」の看板ならびに入り口で、下の写真が、これから宅配に向かうバイクの群れとのこと。こんな施設が上海市内には至るところにあるそうだ。
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そして「少し大げさに言いますと、夕食を作ろうとして、鍋に油を入れてから、『ああ、あれも必要だった』と気づいて注文しても、間に合います」。野菜に限らず、肉類でも醤油でも、今やなんでも宅配で間に合う。スーパーももちろんあって、直接ここで買ってもいいのだが、スーパーからの宅配もOKで、そのせいかスーパーはがらがらだそうだ。

スーパーで商品をひとつひとつ見比べて買うのがいいのか、ネットで注文する宅配がいいのか、一概には言えない。ただ、上海でのように、宅配が主流になれば、小池知事の発言や僕のお願いは不要になり、新型コロナウイルス感染症の拡大防止にもつながるかもしれない。

腱鞘炎との付き合い方

僕はこの半年ほど、両方の手首と指が痛む腱鞘炎を患っている。かつては、腱鞘炎は手を酷使するピアニストや料理人、あるいは理容師、美容師の「職業病」と言われ、近年はパソコンやスマホの普及で「国民病」と呼ぶ人もいるようだ。

僕はパソコンやスマホをそれほど使うほうではないのだが、どのようにつらいかと言うと――例えば、缶ビールの蓋を開ける時に、ピリリッと指が痛んだりする。そばに誰かがいたら、蓋開けをお願いすることもある。

ビアホールでビールのジョッキを持ち上げる時もそうだ。僕は中ジョッキや大ジョッキなどといった中途半端な大きさが嫌いで、普通は1リットルが入った「リッタージョッキ」を注文する。ところが、これが結構重くて、腱鞘炎の片手で持ち上げるのはいささかつらい。仕方なく、みっともないけれど、両手で抱えて飲んでいる。

お好み焼き屋に行った時も苦労する。僕は「鍋奉行」じゃないけど、お好み焼きを食べる際、全体を仕切るのが好きだ。つまり、椀に入った具をまずかき混ぜる、焼き始める、片面が適当に焼けたところでひっくり返す。焼き上がったら、いくつかに切り分けて……ところが、腱鞘炎の手では、これらがなかなかに厄介である。勢い、同席の誰かに頼むようになり、お好み焼きの楽しみが半減してしまった。

もちろん、治療していないわけではない。最初は自宅近くの整形外科医に行ってみた。医師はかなりのご老体だが、ときどき世話になっている。ところが、湿布をくれるだけである。湿布だけではいっこうによくならないし、かえって肌がかぶれてきて、痛くてしようがない。

ふと思い出した。もう四半世紀も前のことだが、サッカーの試合で小指を踏みつけられて腱がおかしくなった時、かかりつけの近くの接骨院に行ったら「指のことでは日本全国で5本の指に入る」という年配の整形外科医を紹介された。駄洒落みたいな言い方だったが、ここも自宅からそう遠くはない。今回も自転車をこいで行ってみたが、すでに医院を閉じていた。

また、ふと思い出した。僕は3か月か半年に1回、脊柱管狭窄症のことで慶応大学病院の整形外科に通っている。少し先に予約もある。その時に治療を頼めばいい。ところが、その日がやってきて、僕の話を聞いた慶応大学病院の医師は「残念ながら、この病院には指のことに詳しい医師はいないんですよ」。

事ここに至っては、医者はだめだ、接骨院に行くしかない。さっき書いたかかりつけの接骨院に行った。僕に「名医」を紹介してくれた院長はすでに亡くなり、息子の代になっている。ここでは電気をかけ、お灸をすえ、そしてマッサージという30分ほどの「3点セット」が毎回の治療だ。自宅の風呂でやる指の体操も教えてくれた。だけど、毎日通うのがつい面倒くさくなり、週に2回程度しか行っていない。風呂での指の体操もさぼりがちだ。そのせいもあるだろう、いっこうによくならない。

そんな折、近くの理髪店に行って、40歳くらいの男性の理容師に髪を切ってもらいながら、ふと思った。1日中、ハサミを使っている彼の指はどうなっているのだろう? で、「あなたは腱鞘炎とかにはならないの?」と尋ねてみた。すると、「いやあ、ひどいもんですよ。この商売をやめない限り治らない、と医者から言われています」とのこと。でも、理髪店を続けているのだから、何かの治療はやっているはずだ。そう思ってさらに尋ねると、いろいろと教えてくれた。

「治療法と言えば、仕事以外では手をできるだけ休ませることです。それしかありません。まず、食事では絶対に箸を使わない。スプーンとフォークで食べています。僕の腱鞘炎は仕事で酷使する右手だけなんですが、スプーンとフォークでもつらい時は犬食い、つまり口を直接、料理にくっつけて食べたり、あるいは左手で食べたりしたこともあります」

「風呂に入って頭を洗う時は、シャンプーをつけた後、指先でごしごしやったりはしない。いささか物足りないんですけど、手のひらでそうっと頭をなでています。夜、寝る時には必ず軍手をしています。少しでも温めたほうがいいでしょうからね」

彼は「温泉もいいですよ」と勧めてくれたが、そこまでは無理として、スプーンとフォークなどはさっそく真似させてもらっている。サバやアジの塩焼きを食べる時にはナイフも使っている。これらを実行してすでに1か月かそこらになるが、いくらか手の痛みが減ってきたような気もする。当分はこのやり方で腱鞘炎と付き合っていくつもりである。