「無口」を「反省」させられた今年

僕はこれまで周りから「無口」と言われることが多かった。でも、そう言われても、気にはしていなかった。「沈黙は金 雄弁は銀」とも言うではないか。無口だと言われるだけあって、僕はさすがに饒舌ではない。でも、話すべきことは、ちゃんと話しているつもりだ。ところが、今年は無口を痛感させられる事件?が相次いだ。

まずは、その最初だけど、僕が以前に勤めていた新聞社は、自分史を作りたい人を支援する「自分史事業」なるものをやっている。その際、僕のような記者OBが本人から取材して本にする「記者取材コース」と、本人がある程度、自力で原稿を仕上げ、校正・編集などを手伝う「原稿持込コース」がある。費用は前者のほうがかなり高い。

その自分史の事務局から「記者取材コースを1つ、やりませんか」と誘われたので、引き受けた。報酬もくれる。相手は70歳代の男性で、離島出身。中学卒で上京し、専門学校を出て、電気工事業に携わってきた。年商数億円の電気工事会社の代表取締役だが、「学歴の低い自分がここまでやってこられたのは、周りの助けがあったからだ。その感謝の気持ちを表すために自分史を残したい」とのこと。大変に謙虚な人物のようだった。

1回、3時間前後のインタビューに5回、6回、7回と通い、生まれてからこれまで、彼がたどってきた道を話してもらった。その都度、原稿にして本人に送った。おおむね満足してもらっているようだった。ところが、原稿全体がほぼ完成した頃になって、風向きがおかしくなってきた。僕の口数が少なく、もっといろいろと質問してくれないから、ほかにも話したいことがたくさんあったのに、しゃべれなかった――そんな苦情を新聞社の事務局に伝えたようなのだ。

最初は「エッ、どういう意味?」とびっくりしたのだけど、分かってきたのは、ご本人はこの自分史を、周りへの感謝の気持ちを表す一方で、自分はかくも立派な人生を歩んだのだという「成功物語」にしたかった。つまり、自慢話をもっとしたかったのだが、僕が話をそちらの方向に仕向けてくれない、言い換えれば、おだてたりはしてくれないので、それが出来なかった。あとで聞くと、本人は故郷では「島が生んだ松下幸之助」と言われていたそうで、そんな話もたっぷりとしたかったみたいだ。

もし、僕が現役の記者として誰かをインタビューするのなら、事前に相手についていろいろ調べ、実際に会った折には、普通の質問のほかに相手をおだてたり、嫌味を言ったりと、相手の本音を引き出すのに必死になっていたはずだ。

だけど、今回は自分史なのだから、相手が言うことをそのまま文章にすればいいといった軽い気持ちで臨んでいた。そこに「無口」が重なって、相手の不興を招いてしまった。

この話はひと騒動の後、なんとか終息したが、自分史事務局が2番目に持ってきた話は、入口でつまずいてしまった。今度は90歳の女性で、1945年3月10日の米軍による東京大空襲について書き残したいのだと言う。挨拶に行って少し話を聞き、第1回目の取材の日取りまで決めて戻ってきた。ところが、しばらくして自分史の事務局から、僕の「無口」を理由に彼女から担当者を代えてほしいと言われたと伝えてきた。彼女によると、僕が彼女といた間にしゃべったのは「録音していいですか」と「トイレを貸してください」の「二言だけ」。あんなに無口な人間では困ると言っていたそうだ。

いや、僕に言わせれば、そんなに無口だったわけでは、決してなかった。第一、彼女から「『露営の歌』という軍歌を知ってる? 歌ってみて」と言われ、すぐに歌ってあげた。「勝ってくるぞと勇ましく誓って故郷(くに)を出たからは手柄立てずに死なりょうか 進軍ラッパ聞くたびに瞼(まぶた)に浮かぶ旗の波」。さっきの電気工事業の男性とは違って、ここまでサービスしているのに、「無口」とはどういうことだろうか。

もう30年以上前、新聞社で、ある紙面の編集長をしていた時、毎週1回のコラムを書いてもらうことになったジャーナリストの女性と、打ち合わせを兼ねて会社近くの居酒屋で3時間ほど酒を飲んだことがある。その後、随分と経って、彼女とたまたま顔を合わせたら、「あの時、あなたは一言もしゃべりませんでしたね」と言われてしまった。

絶対にそんなことはない。一言もしゃべらないで、どうして打ち合わせが出来るの? でも、この女性といい、自分史のお客といい、僕は無口だと思われてしまうようだ。大学医学部の不適切入試問題で出てきた「コミュニケ―ション能力」とやらが足りないのだろうか。じゃあ、これからの残り少ない人生はしゃべりまくってやろう、という気持ちにもなれない。まあ、無口が僕の性(さが)なのだろう。付き合っていくしかない。

(本年も相変わらずの駄文にお付き合いくださり、ありがとうございました。年末年始は例によって日本を不在にします。久しぶりに大陸の中国で過ごしてくるつもりです。どうかいいお年をお迎えください。来年も何とぞよろしくお願い申し上げます。)

喪中はがきと年賀状を合体した「喪中年賀状」はいかが

毎年、年賀状を交換している相手から「喪中はがき」が舞い込む季節になった。同じ差出人でも年賀状の際は、近況が書いてあったり、時には家族の写真が添えてあったりして、内容に個性がある。ところが、喪中はがきは普通、「喪中につき新年のご挨拶は失礼させていただきます」の後、「本年〇月、母〇〇が95歳にて永眠しました。本年中に賜りましたご厚情に・・・」などとあるだけで、言うならば没個性である。

亡くなった方に生前、会ったことがあれば、感慨にふけることもあろうが、まず100パーセントは知らない人たちである。差出人にとっては肉親なので、年賀状なんかを出す気持ちになれないのかもしれない。だけど、受け取ったほうとしては、「あんたも一緒に悲しめ」と言われているみたいで、押しつけがましい感じがしないでもない。

かねがねそんなことを思っていると、この春、妻の弟ががんで亡くなった。さて、喪中はがきや年賀状はどうするか、妻から相談された。

故人は僕にとっては義弟ではあるが、僕が年賀状を交換している相手には、まったく関係のない人物である。喪中はがきを送ったりしたら、かえって相手はびっくりするかもしれない。普段通りの年賀状がむしろ自然だろう。

ただ、妻のほうは実弟であり、さすがに年賀状を出す気持ちにはなれない。そうかと言って、喪中はがきで済ませるのも気が進まない。相談を受けた僕はひとつの「アイデア」を提供した。喪中はがきと年賀状を「合体」させる案だ。

まず冒頭に「新年おめでとうございます」「謹賀新年」とは、さすがに書きづらいので、代わりに「寒中お見舞い申し上げます」とする。ついで、「いかがお過ごしですか」「お健やかに新年を迎えられたことと存じます」などと書いてから、こちらの近況についても記す。このあたりは普段の年賀状と変わりはない。

違うのは、そのあとに「実は去年3月、弟の〇〇が・・・」と、なぜ「寒中見舞い」になったかの理由を書くところだ。このようにすれば、喪中はがきと年賀状が「合体」した「喪中年賀状」とも言える新しいものが生まれはしないだろうか。投函の時期はこれまでの喪中はがきからはかなり遅らせ、新年早々に届くようにする。元日に届いたって、一向に構わないだろう。

喪中年賀状に使うはがきだけど、いわゆる「お年玉付き年賀はがき」でもいいのではないか。このお年玉自体は大したものではないけれど、喪中年賀状だからといって、なんの特典もなければ、受け取ったほうは少しがっかりするのではないだろうか。

また、いまのお年玉付き年賀はがきが喪中年賀状にしてはやや派手すぎるというのなら、日本郵政にもう少し地味なものを出してもらってもいい。喪中年賀状が増えてくれば、日本郵政もそのためのはがきを用意してくれることだろう。

先日の新聞投書欄に「喪中はがきは必要か否か」について、いろんな意見が載っていたが、喪中年賀状が普及すれば、そんな悩みもほとんど解決するのではないだろうか。

わが家の「長持ち三羽烏」

検査データの改竄(かいざん)など、日本企業の不正が後を絶たない。「丈夫で長持ち」が「売り」だった日本製品はこれからどうなっていくのだろうか。そんなことを心配していたら、わが家で長持ちしている日本製品に思いが至った。

まずは、自転車(上の写真)。買ってから、もう50年、半世紀になるが、購入時の状況はよく覚えている。週末、記者仲間と徹夜マージャンをしたら、2万円あまり勝ってしまった。当時としては、かなりの金額である。確か、大学卒の初任給の平均が3万円くらいだった。

「さて、このカネを何に使おうか」。上機嫌で自宅近くまで戻ってきたら、自転車屋が目に入った。「そうそう、わが家にはまだ自転車がなかった。自転車を買おう」。そのころ、自転車の価格は結構高く、マージャンで稼いだカネをほとんど投入した。

ブリヂストン」製で、最近の自転車に比べると、見た感じがとにかくごつい。パイプも太い。メーカー名はすでに車体からすっかり剥げ落ちている。今、パンクの修理などでこれを自転車屋に持っていくと、「いやあ、頑丈そうですねえ」と感心される。スーパーの自転車置き場では、周りに何十台の自転車があろうと、これ1台が異彩を放っている。同じ自転車では、娘が中学か高校の時に乗っていたやつも、パイプは細いものの、今も健在である。かれこれ30年になる。

わが家の電気冷蔵庫も古い(上の写真)。40年前に買った時には「ナショナル」製だった。今の「パナソニック」である。最近の冷蔵庫に比べると、電気代は多分、高くついているだろう。それに、いつ壊れてもおかしくはない。できれば、そろそろ買い換えたいのだが、一応は元気に働いてくれているので、捨てるに捨てられない。

でも、ある日突然、壊れられては困る。冷蔵庫なしではやっていけない。そこで、いざという時にあわてないで済むように、家電量販店を時々回って、次にはどの冷蔵庫を買おうかと、目星をつけている。

家具などを除き、毎日使っているもので長持ちしているのは、以上の自転車と電気冷蔵庫だけかと思っていたら、もうひとつ、それももっと古いやつが出てきた。腕時計である。

きっかけは、このところ使っていた太陽電池の腕時計が突然、動かなくなったことだ。長い間、充電をさぼっていたせいである。そこで、充電する間だけ使う古い腕時計はないものかと、食器棚の引き出しを開けてみたら、下の写真のようなやつが現れた。

横文字で「セイコー スポーツマチック 5」とある。もう55年ほど前、学校を出て新聞社に就職した後に使いだした腕時計だ。何年間ぐらい使っていたかは覚えていない。自動巻きで、引き出しで見つけた当座は止まっていたが、ちょっと振ってみると、まさに機嫌よく動き始めた。

ネットで見たら、1963年の発売で、若者に大いに受けたそうだ。今でも中古品が5千円、6千円、いいものだと1万円、2万円もしているとか。当時も結構いい値段だったと記憶している。

自転車、電気冷蔵庫、腕時計。わが家の長持ち三羽烏は、僕との長生き競争になるのだろうか。

今年のキーワードは「この社会は生病了」だ

「生病了(ションビンラ)」は中国語である。中国人の友人が「最近の中国では『这个社会生病了』(この社会は病んでしまった)という言葉が流行しています」と教えてくれた。

へえ〜、たとえば、どんな話が?と聞くと、まずは、映画業界で横行する脱税。人気女優のファン・ビンビンさんが税務当局から追徴課税や罰金などを合わせて約146億円の支払いを命じられた。中国人には、その美貌と裏腹の強欲さがショックだったらしい。

もっと身近なものとなると、たとえば、中国南方の景勝地・桂林に多い「モクセイ」並木の受難。中国語では「桂花」で、この季節にはそこはかとない香りが街中に流れる。街路樹になっているそのモクセイの下に、おばさんたち数人が大きなビニールを広げ、木の幹をゆすったり、枝を棒でたたいたりしている。花を落とすためだ。ジャムの原料などになるのだが、おかげであたりからはあの香りが消えてしまう。花泥棒に注意する人は誰もいない。

舞台は変わって日本。テレビをぼんやり眺めていたら、この夏、湘南であった花火大会が終わってからの会場の様子が映っていた。一面、ゴミだらけである。画面はやがて、どこかの桜の名所で花見が終わったあとの風景に変わった。やはり、ゴミの山である。次は東京・池袋の繁華街。深夜の様子が映った。街路はやはりゴミ、ゴミ、ゴミ・・・。

エッ、日本人って、ゴミをポイポイと捨てない民族じゃなかったの?時代遅れの自分に驚くと同時に、今年の元日、日本在住の中年の中国人女性から聞いた池袋の話を思い出した。

彼女は関西方面から訪ねてきたやはり中国人の留学生の女性を連れて明治神宮に初詣に行き、元日の朝2時ごろ、自宅にそう遠くない池袋まで戻った。街路にはゴミが散らかっている。郊外電車はもうないので、タクシー乗り場に並んだ。100人近くが立っている。飲み物や食べ物を手にしている連中が多い。そして、順番が来てタクシーに乗り込むと、飲みかすや食べかすをポーンと外に捨てていく。

彼女は泣きたくなった。留学生を自宅に泊め、初詣にまで連れて行ったのは、ひとつには「自慢」したいことがあったからだ。それは、日本の民度は一般的に高いけど、なかでもここは首都の東京よ、あなたのいるところとは少し違うでしょ、私はその東京に住んでるのよ――そんな目論見が粉みじんになってしまった。

話はまた少し変わるけど、僕が若い頃は「日本は政治家はダメだけど、経済人と官僚がしっかりしている。そのおかげで、日本はもっているんだ」という言葉をよく耳にした。経済記者だった僕は企業や中央官庁を回ることが多かったが、確かにそんな感じがした。見方が甘かったのかもしれないけど、みんな、なかなかの人物だった。

ところが、今や、企業は不祥事発覚のオンパレードである。えっ、あの企業がまさか?と思うようなところが、次々に検査データの改ざんとかをやってくれる。それも繰り返したりする。財務省文部科学省といった役所も不祥事に事欠かない。おまけに、最近は大学でも次々に不祥事が暴かれている。政治家は昔も今も同じようである。

这个社会生病了。日中平和友好条約締結40周年の今年、日中両国は仲良くこの言葉を共有することになってしまったみたいである。

本庶佑さんの「ノーベル賞」に中国でも絶賛の嵐!?

京都大学本庶佑(ほんじょ・たすく)特別教授が今年のノーベル医学生理学賞を贈られることになった。免疫をがんの治療に生かす手がかりを見つけ、がん治療に革命をもたらしたというのがその理由で、米国人の学者との共同受賞である。

日本のメディアはもちろん大騒ぎしているが、中国のネットも「日本人がまたノーベル賞を受けた」などと、日本に負けず劣らずに騒いでいる。日本人ってなんで、こんなに次々とノーベル賞をもらうの? 翻って、中国の学者はどうしているの? といったところに関心があるようだ。

ネットの報道を見ていくと、2000年以来、日本は18人(米国籍の2人を含む)がノーベル自然科学賞を受けたと伝えたあと、中国の「惨状」を嘆いている。いわく、中国では1978年に中国共産党中央委員会の肝いりで「全国科学大会」が開かれ、当時の最高実力者の訒小平氏が「科学技術はすなわち生産力だ」などと述べて、その振興を命じた。以来40年、中国の科学技術は大きく進歩したが、ノーベル自然科学賞を受けたのはたった1人だけというのだ。

日本には「科学技術基本計画」なるものがある。そこでは「21世紀前半の50年でノーベル自然科学賞の受賞者30人」という目標もあるらしい。これが中国のネットでも紹介され、「日本の受賞者は2018年ですでに18人だから、『早送りボタン』を押しているみたいだ」とまで書かれている。

そのほか、日本を賞賛し、中国の現状を嘆く言葉がネットには次々に出てくる。「日本人は科学と教育を大切にしている」「なかでも基礎科学、基礎研究の重要性を深く認識している」「結局、日本は何が正しかったのか。我々は何をしていたのか」「中国では国内で研究するのが難しいので、多くの才能が海外に行ってしまっている」「本庶さんは教科書に書いてあることを疑えと言っている。我々も同じように教科書を疑ってきたのに、なんでこんなに差がついてしまったのか」「中国の学者は会議と宴会が好きだが、日本の学者は実験室と午後のお茶が好きだ」といった具合である。

基礎科学、基礎研究の重視については、今の日本では決してそうではないだろう。本庶さん自身が警鐘を鳴らしているので、褒められ過ぎのようだが、とにかく面はゆい限りの報道である。


今回の受賞はがん治療と関係が深く、それだけに誰もが身近に感じる。漫画にもさっそく登場し、共同受賞者の米国人学者とともに似顔絵も描かれている。漫画はその一部である。(写真上 制作 Sheldon 果殻)

1年前、日系英国人のカズオ・イシグロ(石黒一雄)氏がノーベル文学賞を受けた時も、中国のネットは結構騒いでいた。そして、日本人のノーベル賞受賞者が続く理由として、日本の紙幣の肖像画を挙げていた。1万円札は福沢諭吉、5千円札は樋口一葉、千円札は野口英世で、すべて知識人である。つまり、知識人を尊敬する風潮がノーベル賞の連続受賞につながっているというのだ。

ちなみに、中国は100元札(1元≒16円)から50元札、20元札、10元札、5元札、1元札に至るまで、すべてが毛沢東である。さっきの記事の筆者はこれには全く触れなかったが、言外に皮肉っているみたいだった。

まあ、いろいろと褒めてくださっても、受賞者の数ではしょせん米国にはかなわない。ノーベル自然科学賞に米国人のいない年はないだろう。そう考えながら、読み進んでいくと、(真偽のほどはよくは分からないが)米国人の受賞者と言っても、移民が多い。2000年以来、07年までにノーベル自然科学賞を受けた米国人のうち、移民を除き、米国で教育を受けた人に限ると受賞者は23人である。

これに対し、2000年から07年までにノーベル自然科学賞を受けた日本人17人はすべて日本で教育を受けている。国の広さや人口を考えれば、なんとすごいことか。そう日本を絶賛してくれている。

話は少し脱線するけど、僕は中国共産党はどうも好きにはなれない。そんな日本人は多いだろう。でも、ノーベル賞にしろ、先般のサッカーのワールドカップにしろ、中国人自身は蚊帳の外なのに、日本人が何かで成果を挙げたら、自分たちアジア人の代表ということなのか、素直に日本を褒めてくれる。そんな中国人に僕は「懐の広さ」といったものを感じるのである。

アルコール依存症? それとも、単なる酒飲み?

何がきっかけだったか、僕は「アルコール依存症」ではないかなあ、という気がふとした。ただし、アルコールのおかげで、家族や世間に大きな迷惑をかけた覚えは僕自身にはない。ならば、アルコール依存症であっても、別に構わないようなものだが、ちょっと調べてみる気になり、アルコール依存症に関する本を図書館から何冊か借りてきた。

そのひとつに「自己判定」のためのテストが10問、載っていた。まずアルコールの摂取量や飲む頻度を尋ねたあとに、たとえば、次のような質問が続いている。「過去1年間に、飲み始めると止められなかったことが、どのくらいの頻度でありましたか?」「過去1年間に、深酒のあと体調を整えるために、朝、迎え酒をせねばならなかったことが、どのくらいの頻度でありましたか?」「過去1年間に、飲酒後、罪悪感や自責の念にかられたことが、どのくらいの頻度でありましたか?」「過去1年間に、飲酒のため前夜の出来事を思い出せなかったことが、どのくらいの頻度でありましたか?」

誓って言うけど、どれもこれも僕には「ない」である。ただ、アルコールの摂取量や飲む頻度については、大きなことは言えない。思えば、学校を出て22歳で就職し、自分のカネで飲めるようになって以来、これまで55年間、飲まなかった日がどれくらいあっただろうか。「休肝日」なんてことは夢にも考えなかった。飲まなかったのは目の手術や胃腸の検査などで入院した日ぐらいだ。合わせて2週間にもなるだろうか。

40歳代で経済記者をしていた頃、ビール会社の社長にインタビューしたことがある。社長が盛んにビールの効用を説くので、「僕は休日、大瓶で3〜4本は飲んでいます」と、合いの手を入れてみた。すると、社長から「それは飲み過ぎです。いけません」と真顔で注意された。当時は「サッポロジャイアンツ」という大瓶3本分の特大のビールがあり、休日にはひとりで抱え込んでいた。

最近はさすがに酒量が落ちている。それでも、ときどきビアホールに行ったとき、僕には生ビールの「大ジョッキ」がどうもまだるっこしい。とりわけ1杯目などは、あっという間にジョッキの底が見えてしまう。昔に比べて、ジョッキが小振りになったのではないかと疑っているが、それはそれとして、大ジョッキの代わりに「リッタージョッキ」というのをよく飲んでいる。名前の通りなら1リットル入っているはずだ。もちろん、大ジョッキよりも一回り大きい。

外で少し飲んで家に戻ってから飲むのは、もっぱらウイスキー。それも700ミリリットルが1000円ほどの安物だが、これも瓶の底がすぐに見えてきてしまう。1瓶が3〜4日しかもたない。これじゃ、せわしないので、2.7リットル入りの特大のペットボトルを買ってくることもある。

まあ、我ながら結構な酒量で、これらも真面目に申告してさっきの「自己判定」10問をやってみると、「健康被害の可能性が高い」ということになった。

先月、行きつけの病院で、半年ごとの血液・尿検査を受けた。少し心配しながら結果を見ると、90ほどの検査項目のうち、正常値を外れているのは2項目で、そのひとつがγ‐GTP(ガンマージーティーピー)だった。酒飲みが気にする数値で、僕は119と、正常値の10〜90を上回っていた。そのほか、やはり酒飲みに関係が深いALTとASTの数値は正常だった。

病院の医者はγ‐GTPについて何も言わなかったので、特に気にはならなかったが、念のためにネットで調べていると、高築勝義さんという医者の分かりやすい話が出てきた。いわく、γ‐GTPの値が上がっていても、ALTやASTの値が正常なら、それほど心配することはない。たとえて言えば、城(肝臓)に敵の軍隊(アルコール)が攻めてきて、城外で小競り合いしている程度と考えていい。

ただし、ALTやASTの値も同時に上がっているようだと、敵軍は城門を破って中に入り、暴れ回っている。死者やけが人も出ている。これを続けていると、肝炎や肝硬変へと進んでしまう場合もあるとか。ALTやASTの値が正常な僕にとっては、いたって心強いお話である。しかも、γ‐GTPというのは、ちょっと節酒すれば、すぐに下がるそうだ。

以上から見て、僕は確かにアルコール依存症ではあるが、懐が許す限り、これまで通りに飲み続けてよろしい。ただし、多少は量を減らせば、さらによろしい――そう結論づけている。

見直したよ 今どきの高校生

学校の秋の「文化祭」の季節である。僕がよく使う関東の私鉄、東武東上線の駅には、主に沿線の高等学校の文化祭のポスターがいっぱい貼ってある。じゃあ、ひとつ行ってみようか。まずは、僕が住んでいる埼玉県川越市にある県立川越高校(通称、川高)の文化祭「くすのき祭」に初めて出かけた。正門のそばにある大きな「クスノキ」が名前の由来で、明治32(1899)年設立の男子校だ。在校生は1,100人ほどである。

駅からはやや離れた場所にあり、校門もあまり目立たないが、くすのき祭の日はかなり離れたところからでも、入口がよく見える(写真上)。校門と並んで、大きな「門」がそびえているからだ。くすのき祭のパンフレットを読むと、門はウクライナの首都キエフにある「聖アンドリーイ教会」を模したものだそうだ。なぜ、この教会なのか、理由は書いてなかった。

高さは12メートルほどあり、地元紙の『埼玉新聞』によると、巨大な門作りは川高の伝統で、くすのき祭実行委員会の中にある約80人の「門班」が、設計から木材の調達、建築までを担って、1年ほどかかったとか。去年の門はカザフスタンの教会で、毎年モデルは変わり、城の時もあるそうだ。

ところで、このくすのき祭での売り物のひとつは、水泳部による「シンクロ公演」であるらしい。男子校だから、演じるのはもちろん男の子だけである(写真上)。1988年に始まった。2001年の日本映画『ウォーターボーイズ』のモデルにもなった。僕もかねがね噂だけは聞いていた。くすのき祭2日間のうち、1日目は30分の公演を6回、2日目は30分を4回、45分を1回やる。まずは1日目に行ってみた。

公演中は撮影禁止で、上の写真は水泳部のツイッターから借用した。女性によるシンクロナイズドスイミング(最近はアーティスティックスイミングと呼ぶそうだが)に比べると、こちらは同時に演じる人数が40〜50人もいて、迫力満点である。少々の不揃いがあっても帳消しで、とにかく圧倒された。

そうは言うものの、たかが高校の文化祭で「撮影禁止」とは生意気だなあと思っていたら、公演の終了後、「これから皆様の記念撮影に協力いたします」との放送があった。見ていると、男の子たちが三々五々、プール脇に散らばって、観客との記念撮影に応じている(写真上)。次の公演は30分後だから、こんなことをしていたら、休んでいる暇もない。そのサービス精神にまた圧倒され、さっきの不満は吹っ飛んでしまった。

2日目もまたシンクロを見たくなり、この日は公演時間が45分の最終回に出かけた。雨が降ったりやんだりで、プールの脇の観客はレインコートをかぶったりしている(写真上)。悪天候のなか、プールをぐるりと1,000人ほどの観客が取り囲んでいるのだが、僕の位置からのカメラでは全体がとても入らなかった。2日間の11公演の観客数は計7,836人だったそうだ。

次の土曜と日曜は、同じ川越市にある県立川越女子高校(通称、川女)の文化祭「紫苑祭」に出かけた。文化祭をのぞくのは初めてだ。男子校の川高とほぼ同じ規模の女子高で、明治39(1906)年設立と、ここも歴史は古い。川高に比べると、小振りだけど、水色の「門」が迎えてくれる(写真上)。

ここの売り物のひとつは、2日目に体育館で行われる40分ほどの「ファッションショー」らしい。開演30分ほど前に行くと、すでに100人やそこらが行列している。時間が来て体育館に入ると、中ほどに舞台が設けてある。椅子席と立ち見を合わせると、1,000人は集まったようだ。

やがて、場内が暗くなり、ライトに照らされた舞台には次々にモデルが登場する。もちろん、川女の生徒である。ここも撮影禁止だし、モデルや衣装の良し悪しは僕には全く分からないのだけど、場内は「キャー、キャー」と、まさに興奮の坩堝(るつぼ)となっている。

ここまで「門」や「シンクロ」「ファッションショー」だけについて書いてきたが、催し物はもちろん、まだまだいっぱいあった。川高、川女の両校はいわゆる進学校で、川高の卒業生からは近年、ノーベル物理学賞の受賞者も出ている。そんな高校なのに、「祭」に注ぐ力は生半可ではない。2日間の文化祭で集めた観客数は川高が15,224人、川女が13,308人だったそうだ。高校の文化祭が地域に溶け込んでいる。校門などでの送り迎えのあいさつも礼儀正しい。今どきの高校生を見直してしまった。