横断歩道橋の「先進地域」

久しぶりに訪れた桂林を歩いていて、懐かしい街並みではあるけれど、何かが変わっているなあ、という感じがした。なんだろう? そのうちに「あ、そうだ」と、思い至った。以前は見かけなかった「横断歩道橋」(以後「歩道橋」)がそこかしこに出来ているのだ。

まさに山水画で見るような山々に囲まれた桂林は、国際的な観光都市ではあるけれど、広大な中国のなかでは一地方都市に過ぎない。しかし、人口は今や100万人をかなり超えている。その桂林在住の知人に聞くと、この1年余りの間に歩道橋が次々に造られたとのこと。車の通行量がそれだけ増えたからだろう。
f:id:nan-no:20190226122230j:plain
その歩道橋を眺めてみると、全てではないようだが、上の写真みたいにエスカレーター付きもちょくちょく見かけた。さっきの知人によると、昨年4月にはエスカレーター付きの歩道橋がなんと6つもいっせいにオープンしたそうだ。

世界最大のスーパーマーケットチェーンの「ウォルマート」は桂林にも進出していて、店の前の歩道橋には両側に1つずつエスカレーターが付いている。余談ながら、それをよく見てみると、店から出てきたところのエスカレーターは上りで、道路を渡った先のエスカレーターは下りになっている。店でたっぷり買い物をしてから歩道橋を利用する客の便宜を考えたのだろうか。

ところで、日本では今、歩道橋はだんだんと撤去される運命にあるようだ。造られてから40年も50年も経って老朽化が目立ってきたこと、エスカレーターやエレベーターが付いていないので上り下りが大変で、歩道橋を使わずに道路を渡る「乱横断」が増えてきたこと、少子化が進み「通学路」でなくなってきたこと、などが原因だそうだ。

それなのに、もともと歩道橋のなかった桂林なんかでは逆に新しく生まれてきた。その際には一挙に6つもの歩道橋にエレベーターを付けるというやり方も、住民に歓迎されているのだろう。

一方、東京の歩道橋のなかでエレベーターが付いているのがどれだけあるか、と尋ねられれば、僕は昭和通りの新橋寄りにある「昭和通り銀座歩道橋」くらいしか思い当たらない。新宿駅西口の歩道橋にもいくつかエレベーターが付いているが、これは歩道橋というよりも、2階にある「歩行者デッキ」に行くためのものだろう。縦横に張り巡らされた本来の歩道橋にはエスカレーターは見当たらない。
f:id:nan-no:20190228224639p:plain
今回、中国にいた間には海に面した珠海という都市にも行ったが、ここでは上と下の写真にあるように、歩道橋に上って行く勾配が実に緩やかな階段を目にした。上の写真の階段を数えたら70段あり、普通の歩道橋の2倍ほどだった。階段を上っているという感じはほとんどしなかった。昨秋、桂林にある理工大学の前に出来た歩道橋も、僕は見ていないけれど、こんなふうだそうだ。
f:id:nan-no:20190228224718p:plain
普通、歩道橋というと、車優先、歩行者軽視といった感じがして、僕はあまり好きではない。でも、桂林や珠海の歩道橋のように、エスカレーターが付いていたり(エレベーター付きもどこかで見かけた)、あるいは勾配がきわめて緩やかだったりしたら、歩道橋の「先進地域」と褒めてもいいのではないだろうか。

市民それぞれの交通ルール

桂林では都心部から少し外れた所に宿をとり、翌朝早く窓から道路を見下ろしてみた。すると、写真のように、乗用車がずらりと並んでいる。あれ、このあたりは一帯が駐車場なのかな?と思ったが、そうではなかった。
f:id:nan-no:20190105081606j:plain

写真の手前には車がほぼ3列に並んでいる。うち、向こう側の1列は車の横に白い線が見える。つまり、この部分だけが駐車場である。どこかにカネを払っているはずだ。一方、手前の2列の車は歩道の上に並んでいる。駐車場ではない。カネを払うのを嫌って、歩道を駐車場代わりに使っているのだ。しばらくすると、持ち主が次々に現れて車に乗り込み、どこかへ消えて行った。
 
まあ、このあたりは歩道がやたらに広いから、これだけ車が止まっていても、歩くのにそうは不自由しない。だから、歩道上の駐車は夜間における歩道の有効利用と言えなくもない。
f:id:nan-no:20181222110359j:plain

しかし、上の写真のような、歩道を全部塞ぐような止め方はいかがなものだろうか。こんな駐車をされると、僕らは歩道を歩けなくなる。おまけに、駐車している車の向こう側はバス停である。バス停に行こうとすれば、いったん車道に降りるしかない。
 
もちろん、以上のような駐車は中国においても違法である。僕が1か月ほど桂林にいる間に1度だけだが、3人の交通警官が朝早くやってきて、違法駐車を写真に撮り、呼び出しか罰金かを知らせる紙切れを車に挟んでいるのを見かけた。だけど、その夜からまた元の木阿弥で、違法駐車は一向になくならない。人々も「お互い様」と思っているのか、文句を言う人はいない感じである。
 
話は少し飛んで、日本にフェリーで戻る前は、ほぼ4年ぶりに上海の港近くに2泊した。ホテルの周りを散歩していて、懐かしくさえ思ったのだが、ここではスクーターやバイクは赤信号でも「安全」と判断すれば、まず止まらない。歩行者が青信号で横断歩道を渡っていても、歩行者の間をすり抜けるようにして進んでいく。もちろん、スクーターやバイクに対する信号は赤であるが、歩行者が驚いたり、苦情を言ったりしているようには見えなかった。慣れているのだろう。
 
こうして眺めてくると、中国の人たちは一般に交通ルールに対して「無頓着」なようである。だけど、「無関心」とまで決めつけるわけにもいかない。話はまた桂林に戻って、下の写真は僕の宿の近くの交差点である。正面は百貨店で、都心部ほどではないが、このあたりの車の交通量は少なくはない。2階建ての公共バスも頻繁に走っている。
f:id:nan-no:20190111130915j:plain

それなのに、交通信号が全くない。写真左下の女性は男の子の手を引いて、交差点のど真ん中を渡って行こうとしている。横断歩道もあるのに、彼女の目には入っていないみたいだ。
 
こんな信号なしの交差点が僕の宿の近くではほとんどだったが、おかげで交通が混乱するなんてことはないようだった。車は互いに譲り合い、人々は車の間をすり抜け、なんとか機能していた。中国では桂林でも上海でも、あるいはその他の都会でも、市民はお上が決めた規則にただ従うのではなく、それぞれの「交通ルール」を持って車社会を生きている。少し褒めすぎかもしれないけど、そんな感じがした。

「スマホ決済」全盛の中国を旅して

今回、3年ぶりに大陸の中国に行くにあたって、ちょっと不安があった。それは、この国ではホテルでもレストランでもスーパーでも、今や支払いと受け取りが瞬時で済んでしまう「スマホ決済」が普通で、人民元の「お札」はほとんど相手にしてもらえないという情報だった。とりわけ若者は現金なんか、まったく持ち歩かないとのこと。中国人でさえ、数年日本にいて帰国すると、その変わりように戸惑うそうだ。

おまけに僕はまだスマホなるものを手にしたことがない。使っているのは、いわゆる「ガラケー」だ。2年前に台湾で買ったおもちゃのような携帯電話は、大陸でも使えるだろうけど、スマホ決済には役立たない。

が、案ずるよりは・・・だった。スーパーのレジを眺めていると、たいていの客はスマホ決済だが、現金を出している人もいる。レジの女性は見たところ、嫌がりもせず、お札で釣り銭を渡している。なんとか一人でも買い物ができそうだ。ほっとした。

ただ、現金の通用には「事情」があるとのこと。教え子の一人によると、中国ではスマホ決済が急速に進み、現金を断る店が出てきた。そんなある日、某所のスーパーでおじいさんが8元(1元=16~17円)の品物を買い、レジで10元札を出した。ところが、レジの女性はその現金を受け取らず、スマホで決済するように迫った。だが、スマホを持っていないおじいさんは「じゃあ、払わないで帰るぞ」と怒り出し、喧嘩になった。これがニュースになってネットで流れ、どこかお上のほうから「現金を断ることは、一切まかりならぬ」というお達しが出たそうだ。

なるほど、そのせいか、僕も現金を断られたのは、たったの1回だけだった。海南省海南島)の省都海口市の海南大学の学生食堂で、缶ビールを買おうとしてお札を出したら、スマホ決済でなければダメとのこと。一緒に旅行していた教え子に助けてもらった。この食堂ではどの店もスマホ決済だった。一つの大学の中だから、許されることなのだろう。
f:id:nan-no:20181222155237j:plain
今や屋台でさえ、スマホ決済になっているとも、日本で聞かされてきたが、それは本当だった。写真は桂林での宿舎の近くにあった八百屋さんで、板の上に野菜などを並べただけの店だが、店頭にはちゃんと二つのQRコードが展示してあった。方式にはWeChat payとAlipayの二つがあるからだ。現金もOKだが、八百屋のおじさんは客からスマホ決済を求められれば、商売上、断るわけにはいかない。イヤでも、スマホを持たざるを得ないのだろう。

屋台どころか乞食も・・・という話も本当だった。桂林の歩道橋の上で見た男性の乞食も二つのQRコードを、さっきの八百屋なんかより、ずっと目立つように置いていた。そして、現金を受け入れる鍋もちゃんとその横に置いてあった。写真に撮りたかったが、彼は両足とも膝から先がなかった。さすがに、写真は遠慮した。

笑い話がある。一人の青年が乞食の前に立って言った。「いくらか恵んであげたいのだが、あいにく銀行の口座にはまったく現金が入っていないので、スマホ決済ができない。ポケットには現金があるが、100元札が1枚だけだ。こんな大金を恵むわけにはいかない」

すると、乞食は答えた。「その100元札を私に渡してください。うち、10元だけを私が頂いて、残り90元はスマホ決済ですぐにお返ししますから」。笑い話ではなく、実際に起こりそうなことである。

スマホ決済の普及は社会にいろんな影響を与えているようだ。一つは結婚式のご祝儀――かつては結婚式に出たうえで、現金を封筒に入れて渡していたが、最近はスマホ決済で祝儀を渡せるようになった。つまり、以前なら、結婚式に出られないことを理由に祝儀を免れられたが、最近はそうはいかなくなった。それを狙って、新郎新婦側は当日まで、メールで結婚式の案内状を送り続けるといった話も聞いた。

僕はかねて、中国に来て円を元に換える際には、闇の両替屋を銀行の店頭に呼んで、現金でやり取りしていた。3年前までそうだった。証拠は残らない。厳しく言えば、よくないことなのだろうが、銀行自体が「闇のほうがレートがお得ですよ」と勧めてくれたからだ。その闇の両替も今やスマホ決済でやっているとのこと。証拠はきちんと残る。果たしてそれでいいのだろうか。変な気持ちにもなってくる。

いずれにしろ、僕も次に中国に行く時には、乞食の皆さんに差し上げるおカネくらいは、スマホでやれるようになっていたいなあ、と思っている。

華僑の原点!?

久しぶりの桂林両江国際空港。香港からの飛行機で着き、空港の建物を出ると、おばさんが「ライター、1元(16〜17円)」と言いながら寄ってきた。手にはいくつかの使い捨てライターを持っている。えっ、なんでこんなところでライターを売ってるの? なんか場違いな感じがした。「新品」とのことだが、当然、手を振って断った。

でも、その「場違いさ」が気にもなり、しばらく歩いてから振り返って、ライター売りのおばさんの動きを目で追ってみた。おばさんはほかの男たちにも声を掛けている。すると、ライターを買う男が1人、2人、3人・・・そして、すぐにたばこに火をつけている。

何かと鈍い僕にも事情が分かってきた。飛行機に乗るときには、預ける荷物にも手荷物にも、もちろんポケットの中にも、「危険物」であるライターを入れることは出来ない。機内は禁煙で、たばこを吸う人にとってはつらい時間である。

飛行機から降り、さあ一服と思っても、手元にたばこはあるけれど、ライターがない。禁断症状でイライラし始めたところへ「ライター、1元」のおばさんが寄ってきたら、「地獄で仏」みたいな感じがするかもしれない。僕も20年ほど前まではたばこを吸っていた。その気持ちは完全に禁煙した今でもよく分かる。

そこに目を付けたおばさんは偉い。俄然、取材意欲がわいてきた。さっきのおばさんをさらに目で追った。すると、同業のおばさんはほかにも2人はいるようだ。僕の想像が膨らんできた。飛行機に乗る際には安全検査を受けるが、その入り口にはライターなど危険物を自主的に捨てるための箱が置いてある。空港当局はあそこに捨てられたライターをあとでどう処分するのだろうか? 捨ててしまうのだろうか。いや、まだしばらく使えそうなものは、ライター売りのおばさんたちに安く払い下げているのではないか。双方にとって利益がある。

僕の足は自然に安全検査の入り口に向かった。途中、たばこやライターを売っている店があった。使い捨てライターは1個5元だった。

安全検査の入り口に着いた。ここには、ライターなどを捨てる箱のほかに、やはり機内には持ち込めない、水などの入ったペットボトルを捨てる箱も置いてある。さっきとは違うおばさんが中をあさっていた。なるほど、ペットボトルもカネになるし、同じあさるのなら、ここは一等地だろう。空港内のほかのごみ箱も搭乗客の捨てるペットボトルが多いはずだ。おばさんはやがてそちらのほうに移動していった。

桂林の都心から少し離れたところに居を定めて翌朝、近くを散歩していると、下の写真のように、歩道の端に板を置き、そこに野菜や果物などを並べた八百屋を見かけた。

道端といっても、八百屋のおじさんは広い歩道の4分の3ほどをふさいで商品を並べている。歩道を歩いてきた人を商品の前で立ち止まらせるには効果的だろうが、随分と自分勝手である。歩行者は八百屋をよけて道の端っこを通らなければならない。だが、ここでは誰も文句をつけていないようだ。おじさんの人柄のせいもあるのだろうか、立ち止まって野菜や果物を物色している。

ライター売り、ペットボトルあさりのおばさんにしろ、このおじさんにしろ、今のところはしがない商人に過ぎない。だけど、目のつけどころが違う。独創的でもある。世界各地で商人として活躍する華僑や華人の原点を見たような気がした。

謹賀新年 久しぶりに「老人優遇!?」の中国で正月

このブログ「なんのこっちゃ」のタイトルには「桂林&南寧&・・・発」とある。10年以上前、桂林にいた時にこれを始めたので、「桂林」が最初に出てくるのだが、近年はその桂林の話がほとんど出てこない。タイトルと中身がずれている。申し訳ない。そこで久しぶりに、懐かしい桂林にしばらく滞在してみることにした。

桂林時代の教え子で、日本に留学中の中国人女性に頼んで、出来るだけ安い飛行機の切符を取ってもらった。結果、早朝6時40分、東京・羽田空港発、香港で乗り継ぎ、夕方桂林に着く便を頼んでくれた。ともに香港の「キャセイ・ドラゴン航空」である。

ただ、外国の空港での乗り継ぎというのは、どうも苦手である。2年前、上海経由で台湾に行った時には、乗り継ぎの便に乗り遅れるは、焦って上海空港のどこかにパソコンを置き忘れるは、おまけにスーツケースが行方不明になるは、まさに「三重苦」で大汗をかいた。

そんなことが思い出されたので、羽田空港でチェックインする時、カウンタ―の女性についくどくどと乗り継ぎについて尋ねてしまった。すると、傍らにいた別の女性が「もし、ご心配なら、香港で次の搭乗口までご案内させますが・・・」と言ってくれた。もちろん、お願いした。2人が香港人か日本人かは分からない。

搭乗した飛行機はほぼ満員。日本人の女性乗務員が2人いることが放送で分かった。離陸して1時間ほど経った頃、通路を歩いてきた日本人乗務員の1人が僕に向かって「何かお飲み物はいかがですか」と言う。ほかの乗客は無視して、僕だけに声を掛けてきたみたいだった。

まだ、朝も早いので、僕は恐る恐る「ビールでもいいですか」と、小さな声で答えたら、まもなくピーナッツのおつまみまでつけて、缶ビールが届いた。飲み終わってしばらくしたら、また彼女が通りかかった。空の缶を返すと、「もうひとつ、いかがですか」。ありがたく頂戴した。エコノミーの客なのに、VIP待遇を受けているみたいだ。

さらに、彼女が言うには、「飛行機が香港空港に着いた後は、席を離れずに待っていてください。ほかのお客様がみんな降りられてから、次の搭乗口までご案内します」とのこと。もちろん、客室乗務員の彼女はそこまでは付き添えないので、地上の職員が次々にバトンタッチして連れて行ってくれた。

乗り継ぎの飛行機が離陸してしばらくすると、女性の客室乗務員が「ミスター・イワキですか」と言いながら寄ってきた。多分、香港人だろう。流暢な英語がちゃんと聞き取れず、トンチンカンな受け答えをしていると、乗客の中から日本語のできる男性を連れてきた。想像するところ、非番の同僚のようだった。伝えられた話は簡単で、「飛行機が桂林に着いた後、ここでそのまま待っていてください。ご案内します」とのことだった。連絡が届いていたのだろう。

桂林空港でも代わる代わる職員が現れて案内された。ただ、出口まで案内してくれた男性の英語もよく聞き取れない。すると、スマホの画面に「受け取る荷物はありますか」「誰かが出迎えに来ていますか」などと、英文で書いて示してくれる。さすがの僕もこの程度の英語は分かるので、意思疎通に不自由しなかった。

かくして無事、懐かしい桂林の町に着いたのだが、出迎えてくれた教え子にこの話をすると、「最近の航空会社は先生のようなお年寄りの一人旅は歓迎しないんです。何かあったら、困りますからね」とのこと。航空会社の皆さんの心優しい対応に感激していたのだけど、あれはどうも不慮の事故などに備えてのことだったようでもある。感謝の気持ちに少し水を差された感じになってしまった。

「無口」を「反省」させられた今年

僕はこれまで周りから「無口」と言われることが多かった。でも、そう言われても、気にはしていなかった。「沈黙は金 雄弁は銀」とも言うではないか。無口だと言われるだけあって、僕はさすがに饒舌ではない。でも、話すべきことは、ちゃんと話しているつもりだ。ところが、今年は無口を痛感させられる事件?が相次いだ。

まずは、その最初だけど、僕が以前に勤めていた新聞社は、自分史を作りたい人を支援する「自分史事業」なるものをやっている。その際、僕のような記者OBが本人から取材して本にする「記者取材コース」と、本人がある程度、自力で原稿を仕上げ、校正・編集などを手伝う「原稿持込コース」がある。費用は前者のほうがかなり高い。

その自分史の事務局から「記者取材コースを1つ、やりませんか」と誘われたので、引き受けた。報酬もくれる。相手は70歳代の男性で、離島出身。中学卒で上京し、専門学校を出て、電気工事業に携わってきた。年商数億円の電気工事会社の代表取締役だが、「学歴の低い自分がここまでやってこられたのは、周りの助けがあったからだ。その感謝の気持ちを表すために自分史を残したい」とのこと。大変に謙虚な人物のようだった。

1回、3時間前後のインタビューに5回、6回、7回と通い、生まれてからこれまで、彼がたどってきた道を話してもらった。その都度、原稿にして本人に送った。おおむね満足してもらっているようだった。ところが、原稿全体がほぼ完成した頃になって、風向きがおかしくなってきた。僕の口数が少なく、もっといろいろと質問してくれないから、ほかにも話したいことがたくさんあったのに、しゃべれなかった――そんな苦情を新聞社の事務局に伝えたようなのだ。

最初は「エッ、どういう意味?」とびっくりしたのだけど、分かってきたのは、ご本人はこの自分史を、周りへの感謝の気持ちを表す一方で、自分はかくも立派な人生を歩んだのだという「成功物語」にしたかった。つまり、自慢話をもっとしたかったのだが、僕が話をそちらの方向に仕向けてくれない、言い換えれば、おだてたりはしてくれないので、それが出来なかった。あとで聞くと、本人は故郷では「島が生んだ松下幸之助」と言われていたそうで、そんな話もたっぷりとしたかったみたいだ。

もし、僕が現役の記者として誰かをインタビューするのなら、事前に相手についていろいろ調べ、実際に会った折には、普通の質問のほかに相手をおだてたり、嫌味を言ったりと、相手の本音を引き出すのに必死になっていたはずだ。

だけど、今回は自分史なのだから、相手が言うことをそのまま文章にすればいいといった軽い気持ちで臨んでいた。そこに「無口」が重なって、相手の不興を招いてしまった。

この話はひと騒動の後、なんとか終息したが、自分史事務局が2番目に持ってきた話は、入口でつまずいてしまった。今度は90歳の女性で、1945年3月10日の米軍による東京大空襲について書き残したいのだと言う。挨拶に行って少し話を聞き、第1回目の取材の日取りまで決めて戻ってきた。ところが、しばらくして自分史の事務局から、僕の「無口」を理由に彼女から担当者を代えてほしいと言われたと伝えてきた。彼女によると、僕が彼女といた間にしゃべったのは「録音していいですか」と「トイレを貸してください」の「二言だけ」。あんなに無口な人間では困ると言っていたそうだ。

いや、僕に言わせれば、そんなに無口だったわけでは、決してなかった。第一、彼女から「『露営の歌』という軍歌を知ってる? 歌ってみて」と言われ、すぐに歌ってあげた。「勝ってくるぞと勇ましく誓って故郷(くに)を出たからは手柄立てずに死なりょうか 進軍ラッパ聞くたびに瞼(まぶた)に浮かぶ旗の波」。さっきの電気工事業の男性とは違って、ここまでサービスしているのに、「無口」とはどういうことだろうか。

もう30年以上前、新聞社で、ある紙面の編集長をしていた時、毎週1回のコラムを書いてもらうことになったジャーナリストの女性と、打ち合わせを兼ねて会社近くの居酒屋で3時間ほど酒を飲んだことがある。その後、随分と経って、彼女とたまたま顔を合わせたら、「あの時、あなたは一言もしゃべりませんでしたね」と言われてしまった。

絶対にそんなことはない。一言もしゃべらないで、どうして打ち合わせが出来るの? でも、この女性といい、自分史のお客といい、僕は無口だと思われてしまうようだ。大学医学部の不適切入試問題で出てきた「コミュニケ―ション能力」とやらが足りないのだろうか。じゃあ、これからの残り少ない人生はしゃべりまくってやろう、という気持ちにもなれない。まあ、無口が僕の性(さが)なのだろう。付き合っていくしかない。

(本年も相変わらずの駄文にお付き合いくださり、ありがとうございました。年末年始は例によって日本を不在にします。久しぶりに大陸の中国で過ごしてくるつもりです。どうかいいお年をお迎えください。来年も何とぞよろしくお願い申し上げます。)

喪中はがきと年賀状を合体した「喪中年賀状」はいかが

毎年、年賀状を交換している相手から「喪中はがき」が舞い込む季節になった。同じ差出人でも年賀状の際は、近況が書いてあったり、時には家族の写真が添えてあったりして、内容に個性がある。ところが、喪中はがきは普通、「喪中につき新年のご挨拶は失礼させていただきます」の後、「本年〇月、母〇〇が95歳にて永眠しました。本年中に賜りましたご厚情に・・・」などとあるだけで、言うならば没個性である。

亡くなった方に生前、会ったことがあれば、感慨にふけることもあろうが、まず100パーセントは知らない人たちである。差出人にとっては肉親なので、年賀状なんかを出す気持ちになれないのかもしれない。だけど、受け取ったほうとしては、「あんたも一緒に悲しめ」と言われているみたいで、押しつけがましい感じがしないでもない。

かねがねそんなことを思っていると、この春、妻の弟ががんで亡くなった。さて、喪中はがきや年賀状はどうするか、妻から相談された。

故人は僕にとっては義弟ではあるが、僕が年賀状を交換している相手には、まったく関係のない人物である。喪中はがきを送ったりしたら、かえって相手はびっくりするかもしれない。普段通りの年賀状がむしろ自然だろう。

ただ、妻のほうは実弟であり、さすがに年賀状を出す気持ちにはなれない。そうかと言って、喪中はがきで済ませるのも気が進まない。相談を受けた僕はひとつの「アイデア」を提供した。喪中はがきと年賀状を「合体」させる案だ。

まず冒頭に「新年おめでとうございます」「謹賀新年」とは、さすがに書きづらいので、代わりに「寒中お見舞い申し上げます」とする。ついで、「いかがお過ごしですか」「お健やかに新年を迎えられたことと存じます」などと書いてから、こちらの近況についても記す。このあたりは普段の年賀状と変わりはない。

違うのは、そのあとに「実は去年3月、弟の〇〇が・・・」と、なぜ「寒中見舞い」になったかの理由を書くところだ。このようにすれば、喪中はがきと年賀状が「合体」した「喪中年賀状」とも言える新しいものが生まれはしないだろうか。投函の時期はこれまでの喪中はがきからはかなり遅らせ、新年早々に届くようにする。元日に届いたって、一向に構わないだろう。

喪中年賀状に使うはがきだけど、いわゆる「お年玉付き年賀はがき」でもいいのではないか。このお年玉自体は大したものではないけれど、喪中年賀状だからといって、なんの特典もなければ、受け取ったほうは少しがっかりするのではないだろうか。

また、いまのお年玉付き年賀はがきが喪中年賀状にしてはやや派手すぎるというのなら、日本郵政にもう少し地味なものを出してもらってもいい。喪中年賀状が増えてくれば、日本郵政もそのためのはがきを用意してくれることだろう。

先日の新聞投書欄に「喪中はがきは必要か否か」について、いろんな意見が載っていたが、喪中年賀状が普及すれば、そんな悩みもほとんど解決するのではないだろうか。