我がウイスキー歴

前々回にビール(と言っても、もっぱら値段の安い「第3のビール」)のことを書いたから、今回は僕のウイスキー歴について書いてみたい。僕のふだんの家飲みでは「第3のビール → ウイスキーオンザロック」というのが定番である。
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もう半世紀以上も前、僕が学生から新聞記者になって最初の赴任地の九州にいたころ、街の飲み屋などで飲むウイスキーでは、今もあるサントリーの「角瓶」(上の写真)がちょっと高級な銘柄だった。だけど、僕なんかは生意気にも角瓶を格下に見て、よく飲むのは1ランク上の「オールド」だった。ニッカのウイスキーを飲む時も同じように高いものを選んでいた。

サントリーウイスキーの角瓶より安いものには、今もある「ホワイト」や「トリス」があった。トリスには一時期、ハワイ旅行が当たる抽選券がついていて、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」というキャッチコピーが有名だった。だけど、トリスのような安ウイスキーを飲もうと思ったことは全くなかった。それは当時、僕の入った新聞社の給料が結構高くて、懐が割合に温かかったことも影響していた。

そうは言っても、ジョニーウォーカーなどのスコッチウイスキーには全く手が出なかった。なにしろ、1ドル=360円の固定レートの時代。スコッチの値段はとてつもなく高かった。俳優の石原裕次郎がいつもジョニーウォーカー赤ラベル、いわゆる「ジョニ赤」を飲んでいると聞き、うらやましかったものである。当時に比べて円が3倍以上も高くなった今、スーパーではジョニ赤がサントリーの角瓶や時にはホワイトよりも安い値段で並んでいる。まさに隔世の感である。

もっとも当時、僕にもジョニ赤などのスコッチを心ゆくまで飲める日もあった。そのころ、僕の父親は大阪の某私立大学で事務方の幹部だった。そんな父親のもとには、在学生の親から盆、暮れには進物が続々と届いていた。悪事に手を染めるような父親では決してなかったけれど、まあ一種の「賄賂」のようなものだったのだろう。その中にはスコッチなどの酒類もたくさんあった。で、夏休みなどで大阪に戻った折には、ふだんは高嶺の花のジョニ赤などのスコッチをオンザロックでたらふく飲んでいた。「うまいなあ」と思ったことを、今でも覚えている。

以上は、僕の20歳代のころの話である。その後、同じ新聞社で営々として(?)働き、60歳で定年退職した。そして年金生活者となった今、ふだん家で飲んでいるウイスキーは、かつては歯牙にもかけなかったトリスである。そのトリスにもふた通りあるが、もっぱら飲むのは、より安いほうの「トリスクラシック」。しかも、お徳用の1・8リットル入りのプラスチックのボトル(下の写真)で買ってくる。ニッカにもこれと同じ程度のものがあるが、トリスよりは少しだけ高いので買わない。
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まあ、半世紀余りの間にずいぶんと落ちぶれたものだけど、今や角瓶よりも安いジョニ赤ごときを買えないほどの貧乏暮らしでもない。たまには買ってきて、飲んでみるのだけど、昔のように「うまい」とは全く感じない。むしろ、トリスのほうが口当たりがいい。ビールも格安の第3のビールというふうに、安いものばかり飲んでいるので、味覚が変わってしまったのだろうか?
 
会社を定年退職後の十数年、中国で暮らしていたころは、ウイスキーの代わりに、安い白酒(中国の焼酎)を飲んでいた。そもそも中国ではウイスキーは高価だし、トリスなんてものは売っていなかった。

そして今、安いウイスキーを口にしながらも、贅沢(?)していることがひとつある。それはオンザロックの折に使う「氷」である。家の冷蔵庫で作った四角くて安っぽい氷は使わない。ちゃんとした製氷工場で作った硬くて溶けにくい氷をスーパーから買ってきている。1キロで150円ほどだ。氷山のような形をしていたりして、ウイスキーの中から首を突き出している姿はなんともカッコイイ。(下の写真)
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かくして、家飲みが中心になったコロナ禍の最近だけど、安い第3のビールとトリスウイスキーで機嫌よく過ごしている。ちなみに、その第3のビールは10月からの値上げ前に買いだめし、少なくとも年内の在庫は十分である。

「速歩き」を目指して奮闘中

慶応義塾大学病院で「腰部脊柱管狭窄症」の手術をし退院してから、ひと月あまりが経った。この間、暇に飽かせて毎日平均1万数千歩、雨の日も、せっせと「ウォーキング」に励んでいる。どんなに少ない日でも1万歩以上、多い日には2万歩になる。

手術の前は、脊柱管狭窄症からくる足の痺れで、速く歩くのがつらかった。街中を歩いていると、若者ならともかく、いい年齢のおじいさんやおばあさんにも追い越され、悔しい思いをしていた。手術をしたからには、これからは攻守逆転じゃないけど、連中をどんどん追い抜いてやろうと思っていた。

ところが、そうは問屋が卸してくれない。僕自身は普通に歩いているつもりなのに、やはり普通に歩いているように見える年配の人たちが、僕を追い越していく。そのうちに背中が見えなくなる。手術後だけに、よけいに悔しい。いったい、僕の歩行速度はどれくらいなのか?

埼玉県川越市の僕の住まいから、電車の下り線で数駅行ったところに「国営武蔵丘陵森林公園」というのがある。最寄りの駅から公園の入り口までさらに3キロメートルあるが、そこには遊歩道が設けられていて、その100メートルごとに公園までの距離を示す掲示がある。そのことを以前から知っていたので、ここに行って僕の歩行速度を測ってみることにした。

某日、100メートル歩くたびにストップウォッチで測ってみると、1分20秒前後かかっている。時速にすると、4・5キロほどである。普通、人間が1時間で歩く距離は3キロから4キロ、5キロと言われている。それから見れば、1時間4・5キロの速度はまあまあである。だけど、僕はこの調査の際、努力して結構せっせと歩いた。この速さで続けて1キロ、2キロと歩くのは無理だろう。息が切れてしまう。

ついでに、歩幅も調べてみた。すると、100メートル行くのに、160歩前後もかかっている。歩幅は60センチメートルちょっとである。エッ、そんなに狭いの? 測り間違いじゃないの? そう思ったくらいに狭い。

ネットで調べてみると、「歩幅の目安」は「身長×0・45」と書いてある。それが正しいとしたら、僕の歩幅は75センチほどはないといけない。20年ほど前に測った時には、確かそれくらいだった。ところが、いま街中で、同じように歩いているつもりなのに追い越され、さらには差を広げられていくのは、今の狭い歩幅のせいではないか? どうもそんな気がする。

たまたま雑誌『AERA』を繰っていたら、「ウォーキングは歩数より速度」という特集をやっていた。それによると、ダラダラ1万歩を歩いても、筋力や持久力に変化はなく、何もしないのと、ほとんど変わりはないとのことである。1日に1万数千歩を歩いて、少し得意になっていたのに、頭から水を浴びせられたような気分である。
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そして、「速歩き」と「ゆっくり歩き」を組み合わせるのがもっとも効果的だという。「理想的な歩行姿勢を作る16のポイント」と称した、上のようなイラストも載っていた。いわく「頭の揺れを小さく」「肩の力を抜く」「背筋を伸ばして肩を開く」「膝を開かない」「つま先や膝を正面に向ける」などなど……そこまで気を配るなんて、ひと口に「歩く」と言っても、なかなかに奥が深い。

そして「速歩き」の速度なのだけど、時速6~7キロが理想的だとのこと。走り出す寸前である。以前、僕はよく各地の「ウォーキング大会」に出ていたが、トップでゴールに戻ろうとする人たちは、確かにそんな速度で歩いていた。僕も決して遅かったわけではない。一緒に歩いていた仲間から「なんでそんなに速く歩くんだい? 周りの景色が見えないじゃないか」と、文句を言われたことさえある。

言い訳をすると、僕はこの10年来、脊柱管狭窄症で足をかばうあまり、歩幅がだんだん狭くなっていったのだろう。よし、これからは一念発起、歩幅を今より1センチ、2センチ、そして5センチ、10センチと広げていこう。そして、時速7キロとまではいかなくても、せめて6キロで20分や30分、続けて歩けるのを目標にしよう。

とは言っても、寄る年波、そんなことが可能かどうかは分からない。だけど、「目標」ができたことだけは確かである。

せこくて納得できない「ビール系飲料」の「酒税一本化」

古くはトイレットペーパー、最近ではマスク、もっと最近ではうがい薬「イソジン」の買いだめ・買い占め――どうも感心できない。みっともない。そう思っていた僕なのだけど、ついに同じような行動をしてしまった。

10月から始まった「ビール系飲料」の「酒税一本化」がきっかけである。僕はふだん家では、近くのスーパーから買ってくる「新ジャンル」のビール系飲料を飲んでいる。「第3のビール」とも呼ばれる。500ミリリットル缶がこのスーパーでは145円。本来の「ビール」の245円、あるいは255円に比べると、ずっと安い。値段の面では、ビールと第3のビールの間に「発泡酒」があるが、僕はもっぱら第3のビール派である。

娘あたりからは「生活に困っているわけではないだろうから、ちゃんとしたビールを飲んだらどうなの」とも言われる。しかし、たまには双方を飲み比べてみるのだけど、安い方だって決して負けてはいない。いや、こっちの方がうまいじゃないかとも感じる。ビール会社の努力に頭が下がる。安くてうまければ、それに越したことはない。

それが10月からの酒税一本化のあおりで値上がりした。この原稿を書いているのは9月なので、正確にはどの程度、値上がりしたのかは分からないが、行きつけのスーパーの掲示には「500ミリリットル缶は酒税が14円上がります」とあった。これまでは1缶145円だったから、そのまま小売価格に反映されると、なんと1割もの値上がりである。
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ならば、日ごろの信念?を捨てて、買いだめ・買い占めも辞さず……というわけで、我が家には値上がり前の第3のビールが山積み?となっている(上の写真)。

ビール系飲料の酒税一本化というのは、これまでビール、発泡酒第3のビールで税額が違っていたのを同じにしようということだ。例えば、これまでは350ミリリットル缶のビールには77円の税金が掛かっていたが、発泡酒は(麦芽比率により少し違って)62円か47円、第3のビールに至っては28円と、ぐんと安かった。当然、小売価格もその分、ビールよりずっと安かった。

ところが、酒税一本化の計画では、この10月と2023年10月にも税額が変わり、最終的には2026年10月、350ミリリットル缶の場合、税額はビールも発泡酒第3のビールも「55円」に統一される。これまでに比べ、ビールの税額は3割ほど下がるが、第3のビールのそれはなんと倍増である。

もちろん、僕も本来のビールが嫌いなわけではない。それどころか、ビアホールで飲む「生ビール」はたまらなく好きだ。例えば、9月半ばに来たクレジットカードの請求書を見ていたら、8月には4回、東京・池袋のビアホールに通っている。エッ、1か月に4回も!? 請求書が間違っているのではないか。疑って手帳を繰ってみたら、どうもそうではないようだ。
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前回のブログにも書いたが、8月下旬、僕は慶応義塾大学病院で脊柱管狭窄症の手術をした。その前には、検査入院やPCR検査があって何回も慶応病院に通った。それが終わった昼下がりは必ず、ひとりでビアホールに立ち寄った。そしてまずは、生ビールが1リットル入っている特大の「リッタージョッキ」(上の写真)を注文していた。これが値下がりしてくれれば、まことに嬉しいことである。

というわけで、ビール系飲料の酒税一本化はぼくにとって、いい面、悪い面の双方があるのだけど、もう少し突っ込んで考えてみると――
「若者のビール離れ」とも言われるが、ビール系飲料全体の消費はこのところずっと減っている。しかし、その中身を見ると、価格が安い第3のビールは健闘している。本来のビールが冴えないのは、第3のビール発泡酒に比べた割高感にあるのではないか。我が国のビールの税率は(どこまで正確かはやや自信がないけど)ドイツの19倍、米国の9倍にもなると言われる。

それでも、国としては、ビール系飲料の税収をさらに増やしたい。それには、よく売れている第3のビール増税する。言ってみれば「庶民いじめ」である。一方で、「金持ち?向け」の本来のビールのほうは少し減税して需要を喚起し、結果的には税収増につなげる。税額がビールと第3のビールの中間にある発泡酒麦芽の比率によって税額が2段階に分かれている)は、税額を微調整していき、最終的にはビールや第3のビールと同じにする。

すべては「税収増」という目的から来ている。せこいなあ。納得できないなあ。いや、山積みになった我が家の第3のビールを眺めていると、おのれのせこさにもまたうんざりしてくるのである。

けっこう楽しめた、脊柱管狭窄症「手術入院」のご報告

この8月から9月にかけて、慶応義塾大学病院の整形外科で「腰部脊柱管狭窄症」の手術を受けた。手術名は「脊椎固定術、椎弓切除術、椎弓形成術」と長々しく、なんとも恐ろしげだった。まずは、脊髄に造影剤を入れて撮影する検査入院が3日間あり、しばらく経ってから手術とリハビリのための入院が13日間、合わせて半月あまり。僕の人生ではかつてなかった長期間の入院だったが、予想に反して、これがけっこう楽しめた。退屈もしなかった。

このブログでも何回か書いたが、去年の5月には右肺の腫瘍の除去手術で同じ慶応病院に9日間、入院している。その時は何かとつらかった。全身麻酔から覚めた時は実に嫌な気分で、病室に戻りながら「苦しいよう」と叫んでいたのを覚えている。また、その麻酔のせいだろう、手術後に幻影や幻覚に悩まされた。「お小水」や「お通じ」にも苦労した。おかげで、引き続き脊柱管狭窄症の手術もやろうと思っていたのだけど、その気がなくなってしまった。

だが、脊柱管狭窄症からくる足の痺れに耐えかねて、今回の入院となったわけだが、いざ手術が終わってみると、「もっと早くやっておけばよかった」とまで思った。肺の腫瘍除去に比べれば、ずっと大変だと聞かされていたけど、手術そのものもその後の経過も割にすんなりと進んでくれた。

まず今回、全身麻酔から覚めた時には実に爽快な気分だった。担当の医師の「腕」もあるのだろうか。ベッドに寝たままで高度治療室(HCU)に運ばれる前、手術に付き添った家族と話までして、手を振ったほどだった。肺の腫瘍の時には手術後、まっすぐ本来の病室に戻されたが、今回HCUに行ったのは、それだけ大手術だったということだろう。

HCUというのは、新聞記事などでもよく見かける集中治療室(ICU)よりも少し程度の軽いところらしく、今回初めて存在を知った。その名前にふさわしく、体には常時5本ばかりの管がつけられていて、トイレに行く時にはいちいち看護師に頼み、この管を外してもらわなければならない。トイレへの行きも帰りも看護師と一緒である。

ここに2泊して、元の病室に戻った。入院の期間は「2週間弱」と言われていたから、退院までまだ10日ほどもある。どうやって過ごすのかと思い、病院から渡された「退院までの予定」を見ると、「痛みをコントロールしながら、日常生活を送りましょう」「痛みに応じて起立、歩行を開始します。はじめは看護師が付き添います」などと書いてある程度で、格別の指示はない。リハビリの指導には3度ばかり、人がやってきて、最後は病棟の廊下を200メートルほど歩かされ、階段を20段ほど上らされたが、「結構でした。私はこれでもう来ませんから」と言って帰ってしまった。医師が時々「どうですか」と、のぞきに来るぐらいで、かなり自由放任でもある。

あとは自分で病棟の中をせっせと歩き回り、リハビリに務めればいいだけのようだ。去年の入院の時に悩まされた、全身麻酔の後遺症のような幻影、幻覚も全くない。そこで、暇つぶしに病棟を行ったり来たり、退院までの数日間、1日に1万数千歩ずつも歩いた。

僕がいたのは整形外科の病棟だから、廊下を歩いてリハビリに励んでいる人たちも、多くはつえを突いたり、歩行器につかまったりしている。僕のように颯爽?と、何にもつかまらずに歩いている人は、看護師など病院の関係者を除くと極めて少ない。まるで「健康優良児」が大手を振っているようで、申し訳ない気持ちにもさせられた。

入院中はアルコール類は飲めず、こんなに長い期間の「禁酒」も、大人になって以来の僕の人生で初めてだったが、何とか乗り越えた。退院の日には、迎えに来た娘や息子たちとまずはビアホールに駆け込んで、生ビールにワイン、次いでそば屋で日本酒と、正体をなくすほどに飲んだけど、2週間に近い禁酒に耐えられたのは、僕の新しい「可能性」を示すものと自画自賛している。

退院したからと言って、脊柱管狭窄症による痺れが完全に消えたわけではない。入院前のように、100メートル、時には数十メートルおきに立ち止まらなければ歩けないという無様なことは全くなくなった。1キロでも2キロでも休まないで歩ける。でも、少し痺れが残っている感じがする。足に違和感がある。

手術の前に主治医が「あなたはお年もお年だから、100パーセント元通りにしようとすると、かえって危ないです。70パーセントを目指して手術します」と言っていた。なるほど、こういうことだったのかなあと思いながら、自分なりに100パーセントの回復を目指して、今はリハビリの毎日である。

中国人・華人は「寝返り」「降伏」も辞さず!?

このところ、米国政府が中国を非難する際には、「中国」が悪いとは言わず、「中国共産党」がよくないのだとの言い方が目立つ。つまり、一党独裁で他の政党の存在を認めない「中国共産党」と、それに支配されている気の毒な「中国人民」とは別物だというわけらしい。一応、筋道は通っており、とりわけ、ポンペオ国務長官がそうした言い方を好んでいるようだ。

いくつかの報道を読んでいると、ポンペオ国務長官の対中国政策立案に当たっては、中国人のブレーンがついている。この男性は余茂春さんといい、中国・重慶で1962年に生まれて天津の大学を出た後、米国に留学した。以後、教壇に立ったりしながら、米国で暮らしている。中国で文化大革命が吹き荒れたのは1966年から76年までの10年間。彼はこの悲惨な時代に子供時代を過ごしている。そして、トランプ政権の対中国政策のブレーンになって3年、ポンペオ長官と同じ国務省7階に事務所を構えているそうだ。

当然、中国共産党はこの人物を「偽学者」だの「華人のカス」だのと非難しているし、トランプ政権の中枢に中国人・華人がいることに驚く人もいるようだ。なお「華人」の意味はいくつかあるみたいだが、ここでは中国文化を引き継ぐ中国系、台湾系の人々ということにしておきたい。

以上のような報道に接した時、ちょうど僕は暇に飽かせて『三国志演義』(井波律子訳、ちくま文庫全7巻)を読んでいた。三国志演義は2世紀から3世紀にかけての約100年間、中国統一を目指して覇権を争った魏、蜀、呉の三国の物語だけど、ここで描かれる数多くの将軍たちは生涯を通じて、これら三国のどこかに忠誠を誓っていたわけでもない。

もちろん、「忠臣は二君に仕えず」を信条とする将軍も少なくはないけれど、多くは「利あらず」と見ると、簡単に相手に降伏してしまう。そして、かつては敵だった国の軍隊で活躍したりする。「軍事には大切な要(かなめ)が五つある。戦えるなら戦え、戦えないなら守れ、守れなければ逃げよ、逃げられなければ降伏せよ、降伏できなければ死ね」という言葉も出てくる。日本の旧軍隊の「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓とは程遠い世界である。

三国志では、蜀の劉備関羽張飛の義兄弟がとりわけ有名で、3人は「同年同月同日に死なんことを願う」とまで誓っている。そんな関羽ですら、どうしようもなくなった時には、仇敵である魏の曹操のもとに一時、身を寄せている。

こんな話を読みながら、トランプ政権内の中国人・華人の話を聞くと、別に不思議にも思えない。「寝返り」「降伏」というと、なんか語感がよくないけど、余さんなる人は自分の働き場所をそこに見つけているに過ぎないのではないか。彼をくそみそに攻撃する中国共産党も案外、我ら中国人・華人ならあり得ることだなあ、とあきらめているのではないだろうか。

以上の話に比べると、随分とスケールが小さいのだけど、中国人・華人について、僕にも似た経験がある。

四半世紀ほど前、僕がまだ新聞社にいたころ、日本の奈良から中国の西安までの3000キロ(うち陸路は1500キロ)を「平成の遣唐使」と称して、日本人、中国人が100人、200人、時には300人以上が一緒に歩いて行こうという事業をやったことがある。かかる費用はすべて日本側の負担で、責任者は僕、中国側は現地の人民対外友好協会から副秘書長の関羽君(仮名)が派遣されてきた。僕よりはずっと若い。そして、中国での宿泊代などは彼から請求が来て、僕は言われるままに払っていた。

ところが、ある時、その関君からの請求金額にふと疑念がわいた。僕だって中国のことをまったく知らないわけではない。宿泊代がちょっと高すぎるのではないか? そこで、日本の旅行会社から派遣されてきている、これも中国人の添乗員張飛君(仮名)に関君の請求が正しいかどうか、調べてくれるように頼んだ。結果は僕が思った通りだった。

僕が関君にそれを突きつけると、彼はあっさりと兜を脱いだ。人民対外友好協会の上司がカネ(こちらからあらかじめ払ってあるのだけど)を回してくれないので、一緒に歩いている中国人の学生たちに果物を買ってやることもできない。仕方なく宿泊代をごまかし、それに充てたということだった。

僕は鷹揚に言った。「今後、このようなことをしなければ、これまでのことは不問に付す。果物代など必要なものがあれば、遠慮なく言ってほしい」。ちなみに、人民対外友好協会の副秘書長の彼が言った「上司」というのは、秘書長のこと。確かにカネの請求がうるさくて、僕もいささか手を焼いていた。

関君の問題はこれで一応、決着がついたのだが、だいぶ経ってから、彼が血相を変えてやってきた。目が潤んでいる。そして、言うには「私がやったことを『不問に付す』と言っていただいたので、私はあなたに忠誠を誓ってきました。ところが、(日本側の添乗員の)張からさっき『いつかはカネをごまかしやがって』と言われました。なぜ、過去のことを蒸し返すのですか。私は悔しくて……」。僕はすぐ頭を下げて謝った。張君にも「関君に謝ってこい」と指示した。

「忠誠を誓う」云々はやや大げさだが、確かに関君は随分と役に立った。例えば、例の秘書長が「隊が何々市に着いた時、こういう歓迎式典をやる。ついては、いくら払ってくれ」と請求してきた時、関君に「どうしたらいい?」と聞くと、「いっさい無視してください。カネなんて、ほとんどかかりません」と助言してくれた。

あれやこれや、僕が見るところ、中国人・華人は「自分はもともと中国人だから」「華人だから」といった感情に縛られることは、日本人に比べてずっと少ないようである。

話は飛んで、尖閣諸島。連日、中国の公船がやってきて、中国共産党の嫌がらせはエスカレートする一方である。日本としては、どう対処したらいいのか。誰かブレーンになってくれる中国人・華人はいないものだろうか。

戦争の被害者、加害者……

30年ほど前に公開された『火垂るの墓』(ほたるのはか)というアニメーション映画がある。一昨年に亡くなったスタジオジブリ高畑勲監督の作品で、原作は野坂昭如直木賞受賞作。ご覧になった方、読まれた方も多いだろうが、粗筋をざっと紹介すると――

日本の敗戦直前の1945年6月5日の神戸。350機編隊のB29による空襲を受ける。神戸空襲は3度目だ。中学3年生の清太は家を焼かれ、4歳の妹節子を背負って逃げ惑う。病身の母はあらかじめ、消防署裏のコンクリート製の防空壕に避難させておいたが、それもむなしく空襲の犠牲になる。海軍大尉の父は巡洋艦に乗り組んだまま、音信がない。

結局、清太と節子は親同士の事前の約束で、神戸に近い西宮の遠縁の親戚に引き取られるが、食糧難のせいもあって、陰湿ないじめに遭う。耐えきれなくなった二人はこの家を出て、空いていた壕で自活を始める。親が残してくれたいくらかの蓄えはあったのだが、中学生と幼児だけのそんな生活が長続きするはずがない。周りを飛び交う無数の蛍だけが、兄妹の毎日に彩を添えていた。

空襲から2か月あまり経った8月22日、慢性の下痢に悩まされていた節子は、骨と皮にやせ衰えて死んでいく。清太は行李に節子の亡骸を入れ、大豆の殻や枯れ木に火をつけて、荼毘(だび)に付す。

父のいた連合艦隊も絶滅したと聞かされた清太は絶望し、もはや濠には戻らない。省線(今のJR)三宮駅構内のコンクリートむき出しの柱にもたれかかり、浮浪児生活を送るようになる。節子と同じように下痢が続くが、腰が抜けて、駅の便所に行くのもままならない。そして、妹の死から1か月後の9月22日午後、駅構内で野垂れ死にする。

――僕はこのアニメを何度も見たし、見るたびに目頭が熱くなる。「涙なしには見られない」「涙が止まらない」ともよく言われる。そして以前、中国ハルビンの大学の日本語科で教えていた折には、担任していた学生たちにも必ず見せた。
ある時、見終わってから、一人の女子学生が「先生、私はこのアニメが好きではありません」と声をかけてきた。よくできる学生である。「可哀想すぎるから?」と問い返すと、「いえ、日本人をまるで戦争の一方的な被害者であるかのように描いているからです」。なるほど、日本の侵略を受けた中国人からすると、そう思えるのか。僕は一瞬、反論も何もできなかった。

もちろん日本人もすべてが加害者だったわけではない。現に、1972年の日中国交正常化の前、中国国内には「我々を侵略した日本となぜ国交を結ぶのか」との反対論も根強かった。それを当時の周恩来首相が「日本人すべてが悪いのではない。悪いのは日本の軍国主義で、日本人の多くもまた被害者だった」と説得したそうだ。

そして、このところの日本の新聞記事などを見ていると、「戦中、私たちは米軍の空襲で、こんな悲惨な目に遭った」「戦後、満州(いまの中国東北地方)で散々な目に遭わされた」などといった「被害者」の話が実に多いように感じる。もちろん、そんな体験を語っているのは敗戦時、5歳か10歳、あるいは15歳くらいだった人たちである。『火垂るの墓』の清太や節子と同じく戦争にはまったく責任がない。もっぱら、被った被害の話になるのは仕方がない。だけど、それらを読むと、同時に、ハルビンでの女子学生の指摘を思い出してしまう。
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近年、原爆投下直後の長崎で、ジョー・オダネルという米軍のカメラマンが撮った「焼き場に立つ少年」という写真が報道によく登場するようになった。ローマ教皇フランシスコが注目し、「戦争がもたらすもの」という各国語のカードに載せて、核兵器廃絶を訴えるようになったのがきっかけのようだ(上の写真)。

ジョー・オダネルによると、少年は10歳くらい、幼子を背負い、裸足で焼き場にやってきて、5分、10分と、そのふちに直立不動で立ち尽くしていた。幼子はすでに死んでいた。やがて、順番が来て、幼子は焼かれた。その炎を見つめる少年の唇には血がにじんでいた。炎が静まると、少年はくるりと踵を返し、焼き場を去って行った。この写真をかつての教え子の女性に見せたら、どんな反応が戻ってくるだろうか。

確かに、私たちは先の戦争で甚大な「被害」を受けた。米軍の度重なる空襲や2度の原爆投下による無差別の殺戮は、決して許されるものではない。しかし、その被害の前には、日本軍による「加害」があった。空襲に関して言えば、国民党政府があった重慶に対して繰り返し空爆している。数年前、中国南方の悟州という地方都市でしばらく暮らしたが、こんなところにまで日本軍は空爆を仕掛けていた。私たちは被害とともに、加害ももっと語り継がなければ……新聞などで被害の体験を読むたびに、そんな気持ちが沸いてくる。

「中国人が日本でしてはいけないこと」

中国人の知人が「中国人が日本で絶対にしてはいけない20のこと」という記事を送ってきた。ネットで見つけたとのことで、「電車の中やアパートでは大声で話してはいけない」「道路を歩きながら、ものを食べてはいけない」「夜中に街をうろうろしてはいけない」など、まあ、もっともなことが並べられているのだが、いくつか、「なるほど、そうだねえ」と、あらためてうなずける話もあった。そのいくつかを紹介すると――

まずは「老人にわざわざ席を譲ってはいけない」である。その理由は「日本人は一般に他人に迷惑を掛けたくないと思っているので、老人に席を譲っても、断られる可能性がある」からだ。

僕の経験では、中国人の若者はほぼ例外なく老人に席を譲る。中国で満員のバスに乗って、席を譲られなかった経験は、僕にはない。近くの若者が譲ってくれるだけではなく、バスの奥の方から大声を掛けられ手招きされて、びっくりしたこともある。そんな中国の若者が日本に来て、ごく普通に席を譲ったら、断られて驚いたことがあり、こんな「注意」が書かれたのだろう。

だけど、それでも日本の老人に席を譲りたい時にはどうするか。「どうぞ」などとは言わないで、「降りるふりをして立ち上がり、電車の端の方に行ってしまう」。そう指南している。あ、そうか、僕もそんな風にして席を譲られたことがある。あれは中国人の若者だったのか、それとも日本人の若者も最近はそうするのだろうか。

次に「他人に酒を無理強いするな」というのが目についた。

確かに、中国人と日本人とでは、まず「乾杯」の意味がちょっと違う。中国では「乾杯」という掛け声とともに、盃なりコップの酒を飲み干すのが普通だが、日本ではそうではない。もちろん、飲み干してもいいが、飲み干さなくてもいい。一方、中国では、互いに酒を注いだり注がれたり、次々に飲み干していくのが酒席の普通の流れである。僕は幸い、少々は飲めるので、中国で中国人と酒席をともにしても、なんとも思わなかった。だが、中国人同士でも飲めない人にとっては迷惑な話である。「飲め」「もう飲めない」で、喧嘩寸前の場に居合わせたこともある。

こうした酒の無理強いは近年に始まったことではなく、長年の一種の「文化」なのだろう。例えば、最近亡くなった井波律子さん訳の『三国志演義』を読んでいたら、次のような場面が出てきた。

豪傑の張飛がある日、役人たちを招いて宴会を催し、全員に酒を注いで回った。本人は水牛の角で作った巨大な盃で、続けさまに数十杯を飲み干した。多分、アルコール度は50度かそこらだったのではないか。張飛はさらに、役人たちに酒を注いで回ったが、曹豹という男のところに来ると、「私は実は飲めないのです」と断られた。すると、張飛は「さっきは飲んだくせに……」と逆上し、「お前はわしの命令に背いた。100回の棒叩きだ」と叫んだ。周りのとりなしで、棒叩きは50回になったそうだが、酒を飲むのも命がけである。

もうひとつ「不用意に他人にドアを開けるな」というのも、興味を引いた。そして、ドアを開けてはならない不意の客人は(1)NHKの集金人(2)宗教の勧誘人(3)セールスマンだが、もっぱらNHKの集金人について書いている。

テレビがないのは本当なのに、NHKの集金人が何度もやってくる。アパートを替われば、どこで調べたのか、同じ集金人がまたやってくる。ほんとに困る――そんな中国人の留学生らの話をちょうど1年前のこのブログで書いたことがある。この「ドアを開けるな」でも、「いったんドアを開ければ、何としてもカネを取ろうとします。追い払っても、去ってくれません。家には誰もいないふりをして、ドアを開けないでください」と、指南している。NHKの集金人も一応は「法律」に基づいて回ってくるのだから、ここまで言うのは気の毒なのだが、在日の中国人の若者がそれを怖がっているのも事実であるようだ。

ここに取り上げなかったものも含めて20の「べからず集」を、日本の大学を出て日本企業で働いている教え子の女性にも送り、「どう思う?」と尋ねてみた。すると、「おおむね妥当だとは思いますが、付け加えてほしいものがあります」と言う。それは「満員電車の中では、男の子は手を下ろしてはいけない。上にあげていなさい」ということ。痴漢に間違われないためだそうだ。

なるほど、僕にも、そんな気は全くないのに、手を下ろしていて、痴漢に間違われそうになったことがある。気苦労なことだけど、これは在日の中国人の男の子にぜひ言っておきたい。もし女性から「痴漢です」なぞと叫ばれたら、たとえ「無実」でも、証明するのが大変に難しい。まずは疑われないようにする。それが肝心である。