けっこう楽しめた、脊柱管狭窄症「手術入院」のご報告

この8月から9月にかけて、慶応義塾大学病院の整形外科で「腰部脊柱管狭窄症」の手術を受けた。手術名は「脊椎固定術、椎弓切除術、椎弓形成術」と長々しく、なんとも恐ろしげだった。まずは、脊髄に造影剤を入れて撮影する検査入院が3日間あり、しばらく経ってから手術とリハビリのための入院が13日間、合わせて半月あまり。僕の人生ではかつてなかった長期間の入院だったが、予想に反して、これがけっこう楽しめた。退屈もしなかった。

このブログでも何回か書いたが、去年の5月には右肺の腫瘍の除去手術で同じ慶応病院に9日間、入院している。その時は何かとつらかった。全身麻酔から覚めた時は実に嫌な気分で、病室に戻りながら「苦しいよう」と叫んでいたのを覚えている。また、その麻酔のせいだろう、手術後に幻影や幻覚に悩まされた。「お小水」や「お通じ」にも苦労した。おかげで、引き続き脊柱管狭窄症の手術もやろうと思っていたのだけど、その気がなくなってしまった。

だが、脊柱管狭窄症からくる足の痺れに耐えかねて、今回の入院となったわけだが、いざ手術が終わってみると、「もっと早くやっておけばよかった」とまで思った。肺の腫瘍除去に比べれば、ずっと大変だと聞かされていたけど、手術そのものもその後の経過も割にすんなりと進んでくれた。

まず今回、全身麻酔から覚めた時には実に爽快な気分だった。担当の医師の「腕」もあるのだろうか。ベッドに寝たままで高度治療室(HCU)に運ばれる前、手術に付き添った家族と話までして、手を振ったほどだった。肺の腫瘍の時には手術後、まっすぐ本来の病室に戻されたが、今回HCUに行ったのは、それだけ大手術だったということだろう。

HCUというのは、新聞記事などでもよく見かける集中治療室(ICU)よりも少し程度の軽いところらしく、今回初めて存在を知った。その名前にふさわしく、体には常時5本ばかりの管がつけられていて、トイレに行く時にはいちいち看護師に頼み、この管を外してもらわなければならない。トイレへの行きも帰りも看護師と一緒である。

ここに2泊して、元の病室に戻った。入院の期間は「2週間弱」と言われていたから、退院までまだ10日ほどもある。どうやって過ごすのかと思い、病院から渡された「退院までの予定」を見ると、「痛みをコントロールしながら、日常生活を送りましょう」「痛みに応じて起立、歩行を開始します。はじめは看護師が付き添います」などと書いてある程度で、格別の指示はない。リハビリの指導には3度ばかり、人がやってきて、最後は病棟の廊下を200メートルほど歩かされ、階段を20段ほど上らされたが、「結構でした。私はこれでもう来ませんから」と言って帰ってしまった。医師が時々「どうですか」と、のぞきに来るぐらいで、かなり自由放任でもある。

あとは自分で病棟の中をせっせと歩き回り、リハビリに務めればいいだけのようだ。去年の入院の時に悩まされた、全身麻酔の後遺症のような幻影、幻覚も全くない。そこで、暇つぶしに病棟を行ったり来たり、退院までの数日間、1日に1万数千歩ずつも歩いた。

僕がいたのは整形外科の病棟だから、廊下を歩いてリハビリに励んでいる人たちも、多くはつえを突いたり、歩行器につかまったりしている。僕のように颯爽?と、何にもつかまらずに歩いている人は、看護師など病院の関係者を除くと極めて少ない。まるで「健康優良児」が大手を振っているようで、申し訳ない気持ちにもさせられた。

入院中はアルコール類は飲めず、こんなに長い期間の「禁酒」も、大人になって以来の僕の人生で初めてだったが、何とか乗り越えた。退院の日には、迎えに来た娘や息子たちとまずはビアホールに駆け込んで、生ビールにワイン、次いでそば屋で日本酒と、正体をなくすほどに飲んだけど、2週間に近い禁酒に耐えられたのは、僕の新しい「可能性」を示すものと自画自賛している。

退院したからと言って、脊柱管狭窄症による痺れが完全に消えたわけではない。入院前のように、100メートル、時には数十メートルおきに立ち止まらなければ歩けないという無様なことは全くなくなった。1キロでも2キロでも休まないで歩ける。でも、少し痺れが残っている感じがする。足に違和感がある。

手術の前に主治医が「あなたはお年もお年だから、100パーセント元通りにしようとすると、かえって危ないです。70パーセントを目指して手術します」と言っていた。なるほど、こういうことだったのかなあと思いながら、自分なりに100パーセントの回復を目指して、今はリハビリの毎日である。