節酒にノンアルコールビールは是か非か

新聞に嫌な記事が載っていた。なんでも、1日にビールで500ミリリットル、日本酒だと1合程度を飲んでいると、大腸がん発症の危険が高まるのだそうだ。厚生労働省が国として初めて「飲酒ガイドライン」を作るとかで、その中にはこうした数字が示されている。

コロナ禍もあって、最近はもっぱら「家飲み」中心の僕だが、夕食の際にはまずビール(正確には値段の安い第3のビール)の500ミリリットル缶を開け、あとはウイスキーオンザロックに切り替えて、寝るまでチビチビやっている。ウイスキーは1000ミリリットルの瓶がだいたい4日程度で空っぽになる。やや多いとは思うけど、二日酔いになることもない。その僕に対して、ビールの500ミリリットル缶ひとつでも危険だと言われると、「証拠を示せ」と叫びたくもなってくる。

思えば、学校を出て新聞社に就職し、定年退職して中国の大学に行き、そして今日に至るまで、酒を飲まなかった日なんて、網膜剥離や脊柱管狭窄症の手術で入院していた期間を除くとほとんど記憶にない。わずかに思い出すのは、入社して間もない九州の佐賀支局でのこと。連日、それこそ浴びるように飲んでいたら、胃の調子が悪くなった。医者に言われて数日、酒を断っていると、やはり飲み助の支局長から「君は偉い」と褒められた。

その何年後だったか、東京の経済部にいた折、大蔵省(現財務省)主催の勉強会が富士山麓のYMCAの寮であり、僕も泊まりがけで出席した。それはそれでいいのだけど、ここにはアルコール類がいっさい置いていなかった。夜、街に出るには遠すぎるし、時間も遅い。朝方までベッドで悶々としていたのを、いまだに覚えている。

結局、学校を出てこれまでの約60年間で、自主的に酒を飲まなかった日は、通算して1週間かそこらだったのではないだろうか。でも、「ビール500ミリリットルで大腸がん」なんて言われると、少し怖くもなってくる。

じゃあ、ちょっと妥協して「休肝日」なるものでも設けてみようか。朝日新聞を眺めていると、「相棒だった酒 今や週6休肝日」という71歳の男性の投書が載っていた。なんでも、肝機能障害の指標となる数値が極端に悪かったので、退職後、週1回の休肝日を設けた。そして3年間、様子を見たが、数値は一向に改善しない。そこで、休肝日を思い切って週6日にしてみると、数値は瞬く間によくなった。今ではそれにすっかり慣れ、週に1回飲む酒がうまいとのことだ。

僕にはそこまでやる勇気はない。でも、そうだ、ノンアルコールビール(以下はノンアルビールと表記)で休肝日というのはどうだろうか。ふと、そう思いついた。年に何回か、一緒に飲むことのある新聞社時代の先輩は何年か前に脳梗塞で倒れ、今はもっぱらノンアルビールを飲んでいる。そして「ビールはやはりうまいなあ」とつぶやいている。決して飲めないものでもなさそうだ。

「選択」という雑誌を読んでいたら、米欧に始まった「ソバーキュリアス(選択的非飲酒習慣)」が日本でも静かに広まりつつあるという記事が出ていた。ソバー(sober)は「しらふの」「酒を飲んでいない」、キュリアス(curious)は「興味がある」といった意味の英語だ。記事によると、大規模なパーティーでは普通、キリン、アサヒ、サッポロ、サントリー4社のビールが卓上に並ぶが、最近ではさらに4社のノンアルビールも並べられているそうだ。

さっそく4社のノンアルビールを買ってきた。キリンは「グリーンズフリー」、アサヒは「ドライゼロ」、サッポロは「ザ・ドラフティ」、サントリーは「オールフリー」という銘柄だ。サッポロだけはアルコール分が0.7%で、あとは3社とも0.00%と表示されている。ちなみに、酒税法では、アルコール分が1%未満であれば酒類にならない。つまり、アルコール分が0.00%から0.99%までは「ノンアルコール」と表示できる。

で、試飲の結果だけど、いやあ、まずい、まずい。アルコール分0.7%のサッポロには少しだけ期待したが、とても飲めたものではない。ノンアルビールによる休肝日の設置はあきらめるしかない。でも、大腸がんも心配だ。そこで、また思いついた。これまでは夕食から寝るまでずっと飲み続けていたが、夕食後、2階の自室に上がって、本を読んだり、パソコンに向かったりしている間だけは、酒を飲まないことにしよう。休肝日ならぬ「休肝アワー」である。さっそく、これを励行している。

「町医者」の先生方とのお付き合い

暇に飽かしてスマホをいじっていたら、11月1日は語呂合わせから「いい医療の日」というのが出てきた。ワンワンワンから「犬の日」でもある。さらに、11月14日は同じく語呂合わせから「医師に感謝する日」だとか。「11」は「人と人」だそうだ。ちょうど今は11月だ。じゃあ、医師の話でも書いてみようか。

今年の初め、(気色の悪い話で申し訳ないけど)鼻水がちょくちょく出るようになった。早速、自宅近くの行きつけの耳鼻咽喉科医院に行ってみた。先生は声がはきはきしていて、愛想がいい。多い時には、待合室に20人やそこらの患者がいて、随分と流行っている。

2週間分の薬を処方してもらった。ところが毎日、真面目に飲んでも、全くよくならない。また、同じ医院に行き、別の薬を処方してもらった。でも、よくならない。3回目、4回目、5回目、それぞれ別の薬を処方されるが、依然としてよくならない。「先生、全くよくなりませんが…」と訴えると、「まだ、20種類くらい、別の薬がありますよ」とのこと。少し頭にきた。薬の実験台にされるのはご免だ。別のところに行ってみようか。

ネットで「川越市耳鼻咽喉科」と検索してみたら、「評判の耳鼻咽喉科6医院」というのが出てきた。誰が書いたのかは分からないが、その6医院の中には、僕が通っている耳鼻咽喉科も入っている。ちょっと驚いたけど、とりあえず6医院の中の別のところに行ってみることにした。わが家からはやや遠くて、電車でひと駅ある。

そして「おくすり手帳」も持参して見せ、「これだけいろんな薬を飲んでも、よくなりません。ちょっと変じゃないでしょうか」と、初対面の医師に訴えてみた。すると、「この先生は私の先輩で、非常に尊敬している方です。薬を処方する順番も全く正しいです」と、逆に僕が説教されてしまった。

仕方がない。「最後にもう一回だけ」と決めて、また元のところに行って、さらに別の薬を処方してもらった。飲み終えても、やはりよくならない。あきらめて放っておいたら、2週間後だったか、3週間後だったか、鼻水はあまり出なくなった。薬が遅れて効いてきたのか、自然に治ったのか、それは分からない。

30年以上通っていた東京・都心の歯科医院が昨年11月に医院を閉め、院長の息子がやっている別の歯科医院に通い始めた。閉院の理由は、院長が「80歳になったので、この辺りで…」と言っている――という話は以前に書いた。

ところが、しばらくは機嫌よく息子の歯科医院に通っていたのだが、このところ診療料金を巡って、息子との関係がギクシャクし始めた。実は、父親の歯科医院では、3か月ごとに行く定期検診で払うカネは、保険がきいて3千円ほどだった。高い時でも4千円か5千円だったと記憶している。ところが、息子のところでは、保険がきかず1万1千円も取る。
1千円は消費税だろうか。

これには、僕もいささか責任がある。最初に行った時、息子から「保険で3回、3千円ずつ払うよりも、保険なしで1回、1万円でどうですか」と言われ、よく理解しないまま、なんとなくOKしてしまったのだ。

しかし、保険がきかずに1回で1万1千円とは、どうも納得がいかない。前回、「なんで保険がきかない?」と、聞いてみた。すると、「制度が変わったもので…」と、これも納得がいかない。「じゃあ、保険がきくようにするには、どうすれば?」「1回ではなくて、2回来てもらえれば…」「その料金は?」「1回で4千円か5千円くらいでしょうか」

実は、息子の医院で僕を診療するのは、30年以上も世話になってきた例の先生なのだ。完全に引退するのは寂しいのだろう。息子のところで週2回、働いている。僕と息子とのやり取りを聞いて、心配そうに「ここは技術が高いですから、料金も少し…」と、僕の耳元で囁いたりされる。じゃあ、先生がやっていた歯科医院は技術が低かったのですか? さすがに僕もそこまでは言わなかったが、いずれは決着をつけなければ、と思っている。

もう1か所、割合によく通っているのは、わが家から歩いて15分ほどの整形外科医院である。僕もさすがに寄る年波…肩が痛い、太ももが痛い…ということがよくあって、そのたびにお邪魔している。医師はもう90歳に近いはずである。少し前までは午前午後、普通に医院を開いていたのだけど、体にきついのだろう、最近は午前中しかやっていない。しかも月に2回ほど、同じく整形外科医の息子がどこからかやってきて、代診している。老先生は耳もかなり遠くて、判断が正しいかどうか、失礼ながら、疑問に思うこともある。

最近も左の太ももが痛いので、老先生が処方した「抗炎症血行促進剤」を塗っていたが、一向によくならない。そこで、息子が代診の時を狙って行ってみると、「これじゃ、痛みは取れませんよ」とのこと。「経皮鎮痛消炎剤」なるものと痛み止めの飲み薬を渡された。

「いい医療の日」や「医師に感謝する日」からは内容がいささか離れてしまったが、ほかにも僕が行きつけの町医者は内科&外科、眼科、皮膚科、胃腸科…といくつかある。慶應義塾大学病院にも定期的に通っている。腎臓・内分泌・代謝内科、整形外科、恥ずかしながら泌尿器科といったところだ。それらの話はまた別の機会に……。

AIとどう付き合うか

孫正義さん(ソフトバンクグループ会長兼社長)がAI(人工知能)のことで何やら吠えてますよ」と、中国人の知人が中国の経済ニュースの映像を送ってくれた。孫さんの日本での講演がテレビ朝日で報じられ、それが中国でも流れたみたいだ。さっそく見てみた。映像の冒頭には「AGIを知らない? うーん…まずやばいということを知ってください」と、相手を小馬鹿にしたような孫さんの発言が出てくる。聴衆の誰かが「AGIって、何ですか」とでも言ったのだろうか。

もっとも、恥ずかしながら、僕もよくは知らない。ネットのフリー百科事典ウィキペディアなどで調べてみると、「AGI」はArtificial General Intelligence の略で、日本語では「汎用人工知能」。人間が実用可能なあらゆる知的作業を理解、学習、実行できる人工知能であると書いてある。人間と同様の感性や思考回路を持つ人工知能だとの説明もある。いま盛んに取り沙汰される「ChatGPT」などの「生成AI」の先にあるもののようだ。ChatGPTとは、これもネットで探ると、「自然な文章を生成するAI」「まるで人間のように、自然な文章で対話できるAIチャットサービス」という説明が出てくる。

そして、孫さんによると「生成AIはすでに医師免許試験に合格するレベルにあり、10年以内には人間の英知を抜いてしまう」。それはAIが人類の約10倍賢くなることだとして、孫さんは人間とサルの知能の差に匹敵すると例えた。AIを人間とすれば、僕らはサルということになる。まさに、えらいこっちゃ、である。

それはそれとして、孫さんによると、我々は「サル」で安心しているわけにはいかない。彼は続いて「(日本人よ)金魚になりたいのか、なりたくないのか。日本よ、目覚めよ。なんで禁止するんだ、なんで使ってないんだ」と絶叫する。つまり、20年以内には人間より1万倍優れたAIが生まれるので、積極的に活用しないと、人間は脳細胞の数が1万分の1しかない金魚にまで落ちぶれるというのだ。サルのはるか下である。「なんで使ってないんだ」は最近、ある調査で「日本企業の72パーセントが安全性などの理由から生成AIの職場での利用を禁止している」との結果が出たことへの批判だろう。

ところで昔、新聞社で経済記者だった僕は1時間ほど孫さんにインタビューしたことがある。もう35年ほども前のことで、当時僕は40歳代後半、孫さんは30歳を超えたばかりだったが、早くも世間で頭角を現しつつあった。その彼と初対面の名刺を交換した後、僕がまず話した言葉を今でも覚えている。「僕はコンピューターを見たことはありますが、触ったことはありません。一体どんなものなのですか?」

すると、孫さんは「じゃあ、こちらにいらっしゃってください」と、デスクトップのパソコンが並んだ一角に僕を連れて行った。当時、ノートパソコンはまだ生まれていなかった。そして、彼は「パソコンではこんなことができます。こんなことも……」と、いろいろ操作して見せてくれた。「熊本では主婦たちが集まって、パソコンの勉強をしています。決して難しくはないですよ」とも言った。「無知」を自慢しているような僕を小馬鹿にすることはなかった。穏やかな青年だった。でも今、彼から「10年後には日本人はサルになり、20年後には金魚になる」と脅されている。心穏やかにはしておれない。

日本記者クラブでは最近、識者を招いて「生成AI」の勉強会を開いている。僕も一応、ここの会員なので先日、酒井邦嘉東京大学大学院教授の話を聞いてみた。「言語脳科学」が専門の人である。その酒井さんは冒頭、「生成AI」という言葉に異を唱えた。生成ではなく、これまで人間が与えたものを合成しているだけだから、「合成AI」に過ぎない。また、「対話型」のAIだとも言われているが、AIは相手の人間の心を推し量れないのだから、「対話風」に過ぎない。そもそも、AIは「創造」はできない。自分で考える前にAIに頼ってしまうと、思考力、創造力が低下してしまう――そう指摘した。

そして、考える力を育てるには、「紙」の本や新聞を読み、手で字を書くことが重要だと主張した。さっきの孫さんも「AIは見方によっては、核爆弾よりも危険だ」と言っていたが、酒井さんの言葉には思わず拍手してしまった。

僕は新聞や本をそれなりに読んでいるし、昔よりは減ったが、手で書くことも少なくはない。現に、このブログもまずペンで書き、あとで推敲しながら、パソコンに打ち込んでいる。この生活を続けていけば、将来、サルや金魚にならないで済むかもしれない。

隣人の「死去」を知らずに「不義理」も

わが家の玄関先からぼんやりと道路側を眺めていた。すると、70歳代の夫婦が暮らす筋向かいの田中さん(仮名)宅の様子がおかしい。黒い服を着た数人が家に中に入って行く。「骨箱」のようなものも見える。家の前に止まっている車の中に人影が見えたので、寄って行って「失礼ですが……」と尋ねてみると、「母が亡くなりました」とのこと。車中の人影は、長らく会っていないが、この家の次男だった。田中さん宅とはもう数十年来の付き合いである。慌ててお悔やみに行った。

仲のいい夫婦で、わが家2階の僕の部屋からは、二人で車に乗って出かける姿をちょくちょく見かけていた。その夫の話によると、2週間ほど前の昼食後に妻が突然倒れた。救急車を呼んで入院させたが、退院もかなわぬまま、亡くなってしまった。心筋梗塞だった。夫は「私は妻がとても好きでした。長患いのあとだったら、まだ少しはあきらめもつくのですが……」と、涙にくれていた。

わが家にはそれを誰も知らせてくれなかったから、つい失礼してしまった。ほかの近所の人はどうだったのか。まずは向かいのAさん宅に電話してみた。田中さんの隣の家である。かなり前に両親を亡くした50歳代の女性が独り暮らししている。彼女も「全く知りませんでした」と驚いていた。

ついで、わが家の右隣のBさん宅に電話すると、ここはちゃんと知っていた。それどころか、市の斎場であった通夜には、わが家の左隣のCさんと一緒に行ってきた。「お宅は見えませんでしたね」。そう言われても、知らなかったのだから仕方がない。Bさんたちは田中さん宅に救急車が来たのを知っていて、成り行きに注意していたらしい。わが家はたまたま留守していて、救急車のことさえ知らなかった。

そのBさんは電話口で「ところで、山田さん(仮名)の奥さんも亡くなったのをご存知ですか。もう2か月近く前のことで、自治会の会報にも載っていましたけど……」とおっしゃる。えっ、それも知らなかった。山田さん宅は田中さん宅からわが家とは反対の方に隣の隣である。80歳代の夫婦が暮らしていた。こことも数十年来の付き合いである。慌ててお悔やみに行った。

普段はやや気難しそうな夫だが、亡くなって2か月近くになるせいもあるのか、淡々と話してくれた。妻はまず、乗っていた自転車から落ち、骨折して3か月ほど入院していた。退院して「やれやれ」と思っていたら、今度は末期の癌が見つかり、亡くなってしまった。

田中さん宅、山田さん宅のように、最近は近所の人が亡くなったことを知らず、すぐには駆けつけないで不義理をしてしまうことがたまにある。ひとつには、わが団地の自治会が会員の訃報を詳しく知らせなくなったことがある。

以前は、誰かが亡くなると、その都度、姓名、所番地、通夜と葬儀の予定、喪主、さらには死因を団地内の掲示板に張り出していた。ところが、今は姓名と亡くなった日や年齢が月1回の会報に載るだけである。「個人情報保護」のためらしく、遺族の意向でその簡単な訃報さえ載らないこともある。会報の死亡記事にいち早く気づいたとしても、例えば、「〇〇 〇子さん」だけだと、どなたなのか、特定しづらいことがままある。よほど親しかったなら別だが、〇〇さん宅の妻や夫の名前までは知らないことが、結構あるからだ。

個人情報うんぬんに加えて、コロナ禍のせいもあって、「家族葬」が増えるなど、葬儀が随分と簡便になってきたようだ。それはそれで悪くはないのだけど、以前、東京・築地本願寺の僧侶から聞いた言葉をふと思い出した。「家族葬は簡便でいいのですが、あとで『知らなかった』などと言って、個別に弔問に来る方が必ずいらっしゃいます。遺族にとって結構煩わしいです。ですから、弔問に来てくれそうなところには、最初から案内を出し、それなりの葬儀をしておいたほうが、結果的には楽です」。お寺の「営業政策」も絡んでいるのかもしれないが、それなりにもっともな話ではある。

じゃあ、僕の場合はどうしようか? 家族葬にするか、少し盛大にやるか。葬儀の仕方について、遺言を書いておいた方がいいかもしれない。ただ、僕は今のところ、茶寿つまり108歳までは生きるつもりでいる。これからまだ四半世紀、25年もある。まあ、じっくりと考えていこうと思っている。

仰げば尊し わが師の恩……

この9月10日、中国・ハルビン在住の中国人女性から1通のメールが届いた。メールは「教師の日、おめでとうございます」で始まり、「先生のご恩は決して忘れることはありません。本当に心から感謝しております」と続く。あと、僕の健康を尋ねたり、自分や家族の近況を述べたりして文面は終わるのだが、彼女は昔、ハルビンの大学で僕が日本語を教えた学生のひとりだ。今は母校の日本語科で准教授になっていると聞く。僕がハルビンを離れてから、もう20年近くになるが、毎年9月10日になると、律儀に「先生のご恩は……」のメールがやってきて、面はゆい気持ちにさせられる。

ところで、「教師の日」、中国語で言う「教師節」は、いま教えてもらっている先生や昔の恩師に感謝する日で、中国では1985年にできた。僕も中国で教えていた頃には花束をもらったりしたことがある。台湾では孔子の誕生日である9月28日が教師の日だ。日本ではなじみが薄いが、教師の日を設けている国は多く、国際連合教育科学文化機関ユネスコ)も10月5日を「世界教師の日」と定めている。

そして、さっきの女性からは、それほど「ご恩」を感謝されるはずはないのだけど、日本で新型コロナ感染症が流行り出し、マスク不足が騒がれていた頃には、中国から段ボール箱いっぱいのマスクを届けてくれた。その前には1年ほど、新潟県庁で研修を受けていたが、帰国する前には、わざわざ新潟から僕の住む埼玉県まで日帰りでやってきて、ご馳走してくれた。今や、僕の方が逆に「ご恩は決して……」の立場になっている。

一般的に言って、日本人よりも中国人のほうが、学生・生徒と教師との「情」といったものが濃いように僕には思われる。中国の教師の日があったこの9月にも、僕は日本にいる中国人の教え子ふたりからそれぞれ、多大な接待を受けてしまった。

ひとり目は、中国南方の桂林と南寧で僕が仲間とやっていた塾に、高卒で19歳の頃から通っていた女性である。彼女はその後、日本に留学して名古屋の大学を卒業し、今は岐阜県中津川市にある自動車関連の企業で働いている。コロナ禍以前は東京や大阪・京都でたまには会っていたが、コロナ禍もあり、しばらくご無沙汰していた。「ついては、久しぶりにお目に掛かりたいです、金土日の2泊3日で夫婦で遊びに来ませんか。宿は中津川の隣の恵那温泉に取っておきます」との彼女からのお誘いが飛び込んできた。

嬉しくて、二つ返事でOKした。3人一緒の際の食事代だけは強引になんとか僕が払ったが、宿代はついつい彼女に甘えてしまった。3日間、自分の車であちこちを案内してくれたが、ガソリン代も高い折、これも大変だったろうなあ、と申し訳なく思っている。

もうひとりは、南寧で大学生だった男性で、大学に通う傍ら、僕の塾に出入りしていた。その後、札幌の大学に留学して「農学博士」になり、この春からは横浜の大学の「特任助教」になっている。僕が北海道に旅行した折、2度ほど一緒に食事したことがある。その彼が9月下旬、横浜駅前の高層ビルにあるしゃれた居酒屋に招いてくれた。「僕、給料が多いんです」という彼の言葉を真に受けて、たっぷり飲んで、酔っぱらってしまった。

僕は、教え子に物をもらったり、食事をおごられたりするだけで感激してしまう、なんとも次元の低い「恩師」ではあるが、ふと、わが小学校時代の恩師のことを思い出した。僕は小学生の頃、住まいは大阪だったが、4年生の2学期から6年生までは越境して電車で奈良の小学校に通っていた。

その恩師が晩年、冗談交じりに言っていた。「小学校の教師を40年近くやっていると、担任した子たちは千人にはなる。時折、そのうちの誰かが訪ねて来てはご馳走してくれる。ただし、この子たちは実に堅実でもある。大阪のキタやミナミの盛り場に誘ってくれる子など、ひとりもいない。おごってくれるのは、奈良市内の安いスナックでばかりだ。恩師がワインも酒も飲めなくなってから、キタやミナミに連れて行ってくれるのだろうか」

よし、そうまでおっしゃるならば、と僕は一念発起した。奈良からは離れた北陸の豪華温泉旅館に「クラス会」の場を設定し、用意万端を整えて恩師を招いた。ところが、恩師は直前、体調を崩されて、「音声テープ」のみでの参加となり、まもなく亡くなってしまった。我田引水ではあるが、恩師へのご恩返しはお早めに、という教訓でもあった。

「知らんぷり」は駄目よ

この9月1日は関東大震災からちょうど100年目だった。同日付の新聞各紙の社説を見ると、どこもこのことを取り上げている。社説の長さも普段より長めの新聞が目立つ。ただ当時、流言を信じた人たちによって引き起こされた朝鮮人虐殺については、新聞によって、社説以外でも詳しく報道したり、ほとんど無視したり、態度がかなり違う。

つまり、朝日、毎日、日経はこれを社説の中で取り上げ、再びこのような惨事が起こらないよう訴えている。社説では触れなかった東京も別の面で詳しく書いている。一方、読売と産経の社説(産経の社説は「主張」と称している)は、もっぱら防災面の主張ばかりで、朝鮮人虐殺については全く書いていない。100年という節目の年なのだから、少しでも社説で触れるべきだと思うのだけど、故意に黙殺しているみたいである。

関東大震災時の朝鮮人虐殺とは、当時「朝鮮人武装蜂起した」「放火している」「井戸に毒を投げ込んでいる」といった流言が広がり、これらを信じた自警団や軍隊、警察の一部により多くの朝鮮人が犠牲になった事件のことだ。その数は千人から数千人と言われており、朝鮮人と間違われた中国人、そして日本人も犠牲になっている。

日本人が犠牲になったのは「福田村事件」と呼ばれ、千葉県の福田村(現在の野田市)に香川県からやってきた薬の行商団15人が自警団に襲われ、幼児や妊婦を含む9人が殺された。行商団の人たちは讃岐弁で話していたので、朝鮮人だと疑われたようなのだ。

読売の名誉?のために言えば、この事件が最近、映画になったこともあり、同紙も8月末、これを取り上げ、その中で朝鮮人虐殺についても書いている。ただ、話の中心はあくまで日本人であり、その背景として朝鮮人虐殺が登場するといった感じだ。また、9月1日付の夕刊1面のトップ記事では、大震災の犠牲者の追悼法要などを大きく伝えながらも、朝鮮人虐殺の追悼式典については全く触れていない。

このように、朝鮮人虐殺を無視している趣の読売も、埼玉県在住の僕の目に触れる埼玉版では、短い記事ながら、ちらりと登場したりする。例えば、約60人の朝鮮人が犠牲になった熊谷市では市の主催で追悼式が行われ、市長が出席した、自警団員に殺された朝鮮人青年の追悼式がさいたま市の寺で行われ、市長がメッセージを寄せた、といった具合だ。朝鮮人虐殺を無視する本社の意向が地方にまでは届いていなかった、あるいは地方の記者が造反した、と勘繰りたくもなってくる。

一方、産経は、僕が一生懸命に紙面を繰った限りでは、朝鮮人虐殺は徹底無視といった感じで、逆に「旧軍の救援活動」との記事が出てくる。確かに、軍隊もそうしたかもしれない。ただ、関東大震災当時、軍隊の一部も朝鮮人虐殺に加担したと伝えられているのに、救援活動だけを取り上げられては、ちぐはぐな感じを否めない。

こうした「知らんぷり」は一部の報道機関に限ったことではない。有名なのが小池百合子東京都知事だ。9月1日、東京都の横網町公園で行われた朝鮮人犠牲者追悼式典には今年も追悼文を送らなかった。送付なしは7年連続で、「都としては犠牲となられた全ての方々への追悼の意を表している」「何が明白な事実かについては、歴史家がひもとくものだ」というのが理由とか。何やら意味不明の言い訳だが、朝鮮人虐殺の事実に異を唱える団体もあり、そうしたところからの反発を恐れているみたいなのだ。

知らんぷりは、政府も同じである。松野博一官房長官朝鮮人虐殺の事実について8月末の記者会見で「政府として調査した限り、事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」と述べている。朝鮮人虐殺を示す官民の資料が巷にあふれているのに、「政府としては何も知りません」と言っているのと同じである。不誠実極まりないとはこのことだろうか。そして、小池都知事や松野官房長官の言動と、一部報道機関の朝鮮人虐殺に対する態度とは、どこかで「連動」しているみたいでもある。

日本は今、東京電力福島第一原子力発電所の処理水の安全性を世界に訴えているが、それを信じてもらうには、政府の発言が普段から基本的に誠実でなければならないのではないか。それなのに、史実さえ黙殺してしまう日本政府の言うことを誰が信じてくれるのだろうか。処理水放出を理由に日本の水産物の輸入を全面的に止めたりする中国政府のやり方は、理不尽そのものではあるが、わが官房長官の発言を聞いていると、それだって「むべなるかな」と思えてしまうのである。

僕って「常識」が足りないのかなあ!?

前回のブログに、学生時代の深夜、屋台のラーメン屋で「1杯食べたが、腹はすいたままだ」という文があったが、僕は当初、「1杯食べたが、腹の虫がおさまらない」と書いていた。お腹がすいて、すいて、どうしようもない、との意味だった。そして、その原稿を編集者にしている娘に送ったところ、「腹の虫がおさまらないとは、腹立たしくて我慢できない、という意味よ。お腹がすいて我慢できないって意味はないんだけど……」と電話があった。

「そうなの? じゃあ、『虫』を削って、腹がおさまらないとしたら、どうだろうか。それで、いいんじゃない?」と答えたが、調べてみると、「腹がおさまらない」も「腹立たしくて我慢できない」との意味のようだ。仕方なく「腹はすいたままだ」と書き換えたが、「へえ、僕ってこんなことも、知らなかったんだ。常識がないね」と感じ入ってしまった。いや、この「感じ入る」も使い方が少しおかしいかもしれない。

ふと、四半世紀ほど前、新聞社を定年退職し、中国の大学でボランティアの日本語教師になった時のことを思い出した。教師になるには、教員免許あたりがあったほうがいいだろうけど、僕にはそんなものはない。そこで、「教員免許がなくても、なにしろ40年近く新聞社にいたものですから、世の中、知らないことはありません」と売り込み、二つ返事で採用してもらった。

幸い、2つの大学での計6年間、その後、自分で塾を開いての数年間、学生や塾生たちから「『腹の虫がおさまらない』の意味は?」なんて、意地悪?な質問は出なかった。もし出ていたら、大恥をかくところだった。

「腹の虫」でちょっとがっくりきた後、雑誌を読んでいて、またもや常識不足を思い知らされた。それは「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」という言葉である。この言葉自体は知っている。意味も分かっているつもりだ。ところが、これが江戸時代の米沢藩9代藩主上杉鷹山(1751-1822)の言葉だとは知らなかった。もちろん「名君」と言われた上杉鷹山のお名前は存じ上げているが、それと「なせば成る」とがつながっていなかった。僕の常識には、どこか「欠陥」があるようだ。

もっと言えば、「なせば成る……」は数々の名言の類を残した戦国時代の武将武田信玄(1521~1573)の言葉にさかのぼるとか。そんなことも全く知らなかった。さらに、意気消沈した。

しかし、捨てる神あれば拾う神あり、である。これも言葉の使い方がややおかしいかもしれないけど、まあいい。要するに、その後、少し自信を取り戻したのである。

テレビで池上彰林修という当代の人気者のバラエティー番組をぼんやりと見ていたら、最近の若者は語彙が乏しいとかで、試みに街中で20歳前後をおぼしき連中に「二枚目」「鈍行」「(話の)さわり」などの意味を尋ねている。すると、全くと言っていいほどに答えられない。例えば、ややうろ覚えだけど、「二枚目」は「表と裏のある人」なぞと答えている。なんたることか。僕なら全部、すらすらと答えられるぞ。

それからしばらく後、僕が好きな藤沢周平氏(1927~1997)の時代小説を読み返していた。すると、『消えた女—彫師伊之助捕物覚え―』の中に「夜泣きそば一杯では、腹がおさまらなかった」という文が出てくるではないか!!! 今、藤沢氏がご存命なら、すぐに手紙を出して、注意喚起したくなったかもしれない。

いやいや、そんな必要はない。言葉の意味や使い方は時代とともに変わっていくものである。ならば、「腹(の虫)がおさまらない」には「腹立たしくて我慢できない」に加えて「腹がすいて我慢できない」という意味も新しく付け加えてもいいのではないか。藤沢氏でさえ間違いを犯すのだから、単なる無知から来たものとは言えない。現に「腹の虫が目をさます」は「空腹」のことである。いっそ、藤沢氏と一緒になって、そんな運動を起こしてみるのも面白かったのではないか。娘に間違いを指摘された悔しさからか、話が随分と飛んでしまった。