注意力不足

わが塾の教壇(と言うほど立派なものではないが)の脇の椅子に座ったり立ったりしながら、もうすぐ始まる授業の準備をしていた。何回目かに椅子に腰掛けた時、お尻に何かつめたいものを感じ、次の瞬間には背中から頭のてっぺんまで水でびしょ濡れになっていた。椅子の上には水をいっぱい入れたタライが置いてあり、僕はそのタライの中にお尻をすっぽりと入れてしまったのだ。教室の床もビショビショになってしまった。

黒板の板書を消す時、わが塾では濡れた雑巾を使っている。白墨の粉が飛び散らなくていい。タライの水はその雑巾を洗うためのもので、僕が被害に遭った椅子はふだんからタライの置き場にもなっている。そうかと言って、僕が座ったり立ったりしているその時に、わざわざ水を入れたタライを置くことはないではないか。“犯人”は塾で相棒の中国人の先生である。彼女が僕のいる教室に出入りしているのには、まったく気づかなかった。当然、水いっぱいのタライが置かれたことも知らなかった。

ギャアー。悲鳴を上げながら、僕は腹を立てていた。相棒の先生が飛んできた。「この椅子は僕が使っているのに、なんでわざわざ水を入れたタライを置くんだ!!」。声を荒げて彼女をなじった。だが、彼女は「あれあれ、大変」と言うだけで、「すみません」とか「私の不注意で・・・」とかいったお詫びの言葉はいっさいない。それどころか、逆に僕をあざけるような表情さえ浮かべている。

幸い、外を歩いて全身が汗びっしょりになった時に備えて、塾には着替え一式を置いている。授業には事なきを得たが、相棒の先生の態度がどうも腑に落ちない。もう1年余り、彼女と一緒に塾をやってきて、けっこう気心も通じていると思っていたのに。でも、これ以上、相手をなじっても仕方がない。喧嘩になるだけだ。いつしか、このことも忘れてしまった。

そんな折、塾の生徒たちが「岩城先生にはひやひやさせられるわね」と陰口を言っているのを小耳にはさんだ。よくよく聞いてみると――

僕は授業中、広くもない教室の中を歩き回り、疲れたら少しの間、椅子に腰掛ける。そんなことを繰り返している。で、椅子に座る時、僕は後ろなんてまったく見ない。だって、そこに椅子があることはあらかじめ分かっているのだから、いちいち見る必要もない。ところが、中国人の生徒たちはそんな僕を見るたびにヒヤリとしているそうなのだ。もし、そこに椅子がなかったら大変なのに・・・。中国人なら必ず後ろを振り向き、椅子がそこにあることを確認してから座るのに、なんて不注意な日本人。

塾の近くに桂林では最大級のスーパーがあり、授業の行き帰りにときどき寄っている。2階の食料品売り場へエスカレーターで上がってすぐの所にお茶の売り場がある。ここの店員をしている女性もわが塾で日本語を学んでくれている。で、僕がスーパーに寄った折に彼女がいたら、お互いに手を上げて合図しあうのが習慣になっている。

その彼女が言うには、手を振り合った後、僕はろくろく自分の足元を見ないで、さっさと食料品売り場に入って行く。時には床に電線なんかが張られていることもあり、足に引っ掛けたら大変だ。ところが、僕はそんなことにはいっこうにお構いない様子。心配になった彼女が売り場を飛び出し、僕の後ろ姿をひやひやしながら眺めていることもあるそうだ。

そう言われれば、ハルビンにいた時も、桂林に来てからも、街中を歩いていて道路の段差につまづき、けっこう派手に転倒したことが何回かある。起き上がって眺めると、段差は10センチから20センチほど、スッテンコロリンも当然のことだ。幸い、運がよかったのか、体が比較的頑丈にできているせいか、大怪我をしたことはまだないが、塾の生徒たちの僕への陰口から、いつかの水浴び事件で相棒の先生が謝らなかった理由も推測できるというものだ。

つまり、彼女から見れば、椅子の状況も何も確かめずに不用意に腰を下ろした僕に100パーセントの責任がある。したがって、責任のない彼女が謝る必要はまったくない。揚げ句は、ビショビショになった床の掃除までさせられた。逆に、僕から謝ってほしいくらい、といったところだろうか。僕をあざけるような表情の、よって来たる所が分かってきた。

注意力、注意力、この中国で生きていくには注意力が何よりも必要だと自戒しながら、なにげなく綿棒で耳の穴をほじくっていたら、綿棒の先がポロリと折れて、耳の中に残ってしまった。あわてて耳かきでかき出そうとしたが、折れた綿棒はだんだん奥に入っていくみたい。心なしか、鼓膜の状態が変だ。ひと騒動の後、これもなんとか事なきを得たが、綿棒にまで注意力が必要とは、僕の能力の限界を超えているみたいだ。