わが道を行く人たち

[事例1] レストランで2〜3人で食事していると、向かい合った我々の間にいきなり、見ず知らずの人間の腕が「無言」で伸びてくることがある。何ごとか? 危害を加えられるのではないか? 思わず身を引いてしまう。が、腕の持ち主は決して怪しい者ではない。同じレストランの別のテーブルにいる普通の客に過ぎない。そして、我々の間に腕を突き出した理由は、テーブルの先にある箸、醤油、爪楊枝といったものが欲しかった、それだけのことなのである。それを取れば、依然として「無言」のまま、腕はさっと引っ込んでくれる。

レストランと言うより食堂といった感じの行きつけの店で、ひとりで昼食をとっていた。と、目の前に、注文もしていない料理が「無言」で現れた。手にしているのは、この店のおかみであり、料理は僕の横にいる合い席の客に出す奴だった。ならば、何も僕の前を通過させなくても、テーブルの反対側から出せばいい。でも、おかみはわざわざ反対側に回るのが面倒くさかったのだろう。腕はやはり「無言」で引っ込んでいった。

[事例2] わが塾で日本語を学んでいる中学生の女の子がいる。以前は同級生2人と一緒に来ていたが、同級生は脱落し、今は彼女だけである。中学生の分際で英語に加えて「第二外国語」をやるとは、なかなかに見所のある子である。1対1の授業で、もっぱら相棒の中国人の先生の担当だが、僕もときどき相手をする。授業の日時は双方の都合に合わせていくらか流動的である。

ある週、授業のひとつを日曜日の午後零時半から2時間と、相棒の先生と彼女とで約束していた。ところが、彼女は前日土曜日の午後零時半にやってきた。エッ? 曜日を間違えたんじゃないの? 実はそうではない。彼女も授業が日曜日であることはちゃんと分かっている。でも、日曜日は突然、学校に行かなければならなくなった。で、わが塾には土曜日にやってきた。

それなら、それでもいい。でも、事前に「土曜日に行ってもいいですか」と、電話ぐらいしてほしい。こちらの都合もある。だが、彼女にはそんな発想はまったくなかったみたいだ。日曜日は都合が悪くなった、土曜日がいい、だから、土曜日に塾に行った。それだけのことのようだ。当方も「約束が違う」なぞと追い返したりはしない。もう慣れている。土曜日の午後、のんびり昼寝でもしようかと思っていた僕も急遽、お相手をさせていただいた。

[事例3] 授業に遅刻してくる生徒がいる。パーティーなんかで約束の時刻に遅れる生徒がいる。どうして遅れたの? そう尋ねることがある。当方はそれほど怒っているわけではないが、生徒を責める気持ちもいくらかはある。そんな時、「すみませんでした。実は・・・」という返事を期待している。ところが、返ってくるのはおおむね「大丈夫です」という言葉だ。自分が遅れたことを心配してくれているんだ、と思っているみたいである。

[事例4] 相棒の先生と生徒たち、女性ばかりの5人が桂林から汽車で3時間ほどの大きな都市へ買い物に行ったことがある。食べ物、飲み物をどっさり買い込み、汽車の中で過ごす時間を楽しみにしていた。車両は6人掛けと4人掛けの席が左右に並んでいる。混んではいないが、完全に空いた6人掛けの席はない。と、若い男が1人だけの6人掛けが見つかった。近くの4人掛けはガラガラだ。「すみませんが、私たち5人は一緒なので、ここを譲っていただけないでしょうか」。出来る限り丁寧に男に頼んだ。

男は一言、「駄目です」。中国語で言えば「不行(ブーシン)」である。ほかには5人一緒に座れる席がなかったので、彼女たちはここに座り、多少は落ち着かない思いをしながらも、わいわいと騒いだ。男は黙ったまま座っていた。想像するに、男にも格別の悪気があったとは思えない。自分はここに座っている、わざわざ別の座席に変わりたくはない、面倒だ。だから「不行」である。なかなかにハンサムな男だったそうだ。

ここまで書いてきた、この地の人たちの行動――どうもすべて自分中心に考えていらっしゃるようだ。自分の行動が他人にどんな迷惑を掛けるかなんて、関係がない、悪く言えば「ジコチュー」(自己中心)だろう。が、前向きにとらえれば「わが道を行く」「ゴーイングマイウエイ」でもある。とかく周囲を気にしがちな日本人から見れば、実にうらやましい限り。ストレスなんてものとは無縁でいらっしゃることだろう。

[事例5] でも、いくら「わが道を行く」でも、度を越しているのは上の写真。黒塗りの車が歩道の端から端までをふさいでいる。この場所ではよくこんなことがある。歩道の右側は出入国管理局、つまり、こちらでは「警察」の一部門だ。この車は間違いなく警察、あるいは関係者の車である。文句を言っても仕方がない。警察であるからこそ、こんな「違法」「無法」を白昼堂々とやれる。事例1から4までの「迷惑行為」なんて、可愛いものである。