「時間」を支配する人たち

たまたま知り合った桂林のホテル社長を日本料理店に招いた。一度ご馳走になっているので、そのお返しだ。だが、約束の時刻を10分ほど過ぎても現れない。場所が分からないのだろうか。電話してみた。「今、陽朔を出てバスでそちらに向かっているところです。桂林に着いたら、タクシーで駆けつけます」。まったく悪びれた風のない返事が戻ってきた。

陽朔は桂林からバスで1時間余りの景勝地。桂林に来た観光客なら必ずと言っていいほどに立ち寄る所だ。社長もホテルの客を案内していたようだ。その陽朔を出たばかりだと、レストランに着くまでにまだ1時間半近くは掛かる。冗談じゃない。「じゃあ、食事はまた次の機会にしましょう」と、会食を延期した。以後、お返しはまだしていない。

わが東方語言塾で日本語を勉強しているアラフォーの女性。年配の生徒は珍しいこともあって、同僚の中国人の先生と一緒に韓国料理店に招いた。やはり、約束の時刻を過ぎても現れない。電話すると「今、家を出るところです」。やはり、悪びれた風はなく、10分ほどしてお見えになった。

次は、わが塾で韓国語を学んでいる20歳代半ばの女性。塾に来るようになって1年近くになるが、一度として定刻に来たことがない。夜7時からの授業だと、7時に家を出るからだ。遅れるのは理の当然だ。自宅は塾から近いので15分前後の遅れで到着するが、「遅れてきてはいけません」と注意すると「だって、仕方がありません。先に授業を始めていてください」。何が「仕方がない」のか、よくは分からないが、「仕方がない」はこちらの人たちがよく使う言葉だ。彼女もあっけらかんとしている。

以前、わが塾で日本語を勉強し、今は日本に留学している桂林人の青年に尋ねてみたことがある。さっきのような人たちは特殊なのだろうか? 「いえ、違います。桂林人の典型的な行動パターンです」。約束の時刻は、そこに到着する時刻ではなく、そろそろ自宅を出る時刻なのだと言う。じゃあ、定刻に遅れてくるのが普通かと言うと、そうでもない。

わが塾の授業は夜が中心だが、朝9時から正午までの間も塾に来てよろしい、自習していてもいいし、当方の手がすいていれば、個別に相手もする、ということにしている。別途、授業料を取るわけではなく、まったくのサービスだ。毎日、女性を中心に10人ぐらいがやってくる。ところが、9時かその少し前に来ればいいのに、8時過ぎから「ピンポーン」と現れる。塾が楽しいからだろうから、うれしいことではあるけれど、塾に住み込んでいる身としては、いささか迷惑でもある。「いやあ、早いねえ。まだ8時過ぎだよ」と、嫌みのつもりで言っても、「わたし、大丈夫です。かまいません」。こちらは「かまう」のだけど、怒るわけにもいかない。なかには、勝手に教室の掃除をしている殊勝な生徒もいるから、笑顔で迎え入れるしかない。

中国人が「時間」に対してゆったりとしているのには、もう慣れっこのつもりだ。だが、こちら南の地の人たちの感覚は「ゆったり」とはどこか一味、違うようだ。

前回に書いたように、わが塾は5月の連休中に新しい所に移った。それまでの間、部屋の内装のことなどで家主といろいろやり取りがあった。そして、家主が「じゃあ、明日何時にそちらに行きます」と言うのを何度も聞いた。だが、家賃をまとめて払った時を除いて、約束がきちんと守られたことは一度もない。「時刻」どころか「日」さえ守られないことがあった。でも、「遅れる」という連絡はないし、お詫びの言葉も一切なかった。

また、塾移転に当たって、近くの電器屋で買い物をする代わりに、おやじに小さな工事を頼んだ。そのおやじが下見にやってきて「じゃあ、工事用の道具を取ってくる」と言いながら戻って行った。ところが、待てど暮らせどやってこない。しびれを切らして電器屋に行ってみたら、なんとトランプをして遊んでいるではないか。「ずっと待っているのに、なぜ来ない?」となじると、おやじは「どうしてそんなに急ぐんだい?」。これも悪びれるところが全くない。「どうしてそんなに急ぐの?」も、こちらの人たちが愛用する言葉だ。何かを催促すると、必ずこの言葉が返ってくる。

もちろん、こんな人たちばかりではない。むしろ、曲がりなりにも時間が守られることのほうがずっと多い。でも、以上のようなことにも、しょっちゅう出くわす。約束した時間はきちんと守る――そんな世界に生きてきた人間から見れば、ルーズ極まりない、困った人たちである。だけど、視点をちょっと変えれば、この人たちは時間に縛られていない、自分の欲望のおもむくまま、時間を支配して生きている。そんな褒め言葉が出てきても、あながち的外れではないかも知れない。