謝らない人たち

わが塾に面して大きな交差点がある。横断歩道を渡ろうと、歩道から一歩だけ車道に降りて、車の流れが止まるのを待っていた。すると、お尻の辺りに軽く何かがぶつかったような感じがした。振り向くと、スクーターに乗った太った女が僕をにらみつけている。スクーターが僕のお尻にぶつかったのだ。彼女が言った。「なんで私にぶつかったの?」。その程度の中国語は僕にも分かる。

言うことが逆じゃないか。なんで「すみません」と言わないの? 僕はたちまち頭に血が上り、怒鳴った。「なにぃ〜 この×××××」。もちろん、日本語である。「××××× ××××××× ×××××」。何を隠そう、いや、隠す必要はないが、僕は言葉の荒さでは定評のある大阪・河内の生まれ育ちである。伏せ字にしなければならないのは残念だけど、懐かしい罵りの言葉がすらすらと出てきた。

車道に一歩降りていたのは、僕の落ち度と言えば落ち度かも知れないが、そんなのは当地では当たり前のことである。スクーターをぶつけた女に非難される筋合いは全くない。彼女は僕の剣幕に驚いたのだろう、あとは黙って去って行った。もちろん、ぶつけたお詫びの言葉は一切なかった。

近くの大学のあたりを歩いていたら、新しいラーメン屋が出来ていた。僕は立ち止まって「そのうちに食ってみるか」と思いながら、看板を眺めていた。すると、肩の辺りに何やらがぶつかった。振り向くと、若い男女のカップルがいて、女のほうが僕をにらみつけている。スクーターの時と同じく、なんで私にぶつかったの?と言いたげだった。だけど、彼女は何も言わなかったので、今回はしばらくにらみ合っただけで終わった。彼女のほうから目をそらした。これも自慢ではないけど、若いころ、やくざから「お前は目つきが悪い」と言われたことがある。彼女も怖くなったのかも知れない。ぶつかったお詫びの言葉はもちろんなかった。

上述の例に限らず、どうもこの地の人たちは一般に「詫びる」ということを嫌っているような感じがする。例えば、この街にはスクーターとバイクがやたらに多いから、道を歩いていると、その接触事故に出くわすことがある。僕が目撃したのはどれも軽微だったが、「加害者」と見られるほうがスクーターなりバイクなりを降りて「被害者」に「詫びる」光景をまだ見たことがない。被害者が倒れたのをチラリと見るだけで、加害者はそのまま走り去っていく。それどころか、後ろからぶつかった加害者が、被害者を怒鳴りつけているのを見たことさえある。僕がスクーターの女に文句を言われたのと似たケースだ。

アメリカあたりで日本人が交通事故を起こすと、相手の方が悪いと思っていても、つい「アイムソーリー」とかなんとか言ってしまう。相手はたとえ自分が悪かったと思っていても、その場では絶対に謝らない。結果、裁判などになると、日本人がまず謝ったというので、不利を被る。だから、交通事故を起こした時には、絶対に自分からは謝ってはいけない――そんな文章をいつだったか、どこかで読んだ記憶がある。こちらの人たちもアメリカ人に似た感覚なのかも知れない。

でも、交通事故の場合だけではなく「サービス業」の場でもそんなことに遭遇する。中国の北方からやってきた友人とレストランで食事した時のことだ。テーブルに持ってきた勘定書きを見ると、注文していない品が入っている。そのことを指摘すると、従業員はうなずいたものの、こちらに背を向けた途端、「○○○」と、罵りの言葉を口にした。英語で言えば「ファックユアマザー」とか「マザーファッカー」に相当する言葉だ。客としては断じて聞き逃すことはできない。

当然のことに、中国人の友人が怒りだし、従業員に謝罪を要求した。だが、従業員はいっこうに謝ろうとはしない。マネジャー風の男も出てきたが、「まあまあまあ」といった感じで、彼も謝ろうとはしない。もっとも「○○○」はこちらの人たちが実によく使う言葉で、やや大げさに言うと、若い女性の会話でも「おはよう ○○○ お元気?」「元気よ ○○○ あなたもお元気そうね」といった具合だ。

そんな謝らない話を相棒の中国人の先生にしたら、「わが塾の生徒たちだって同じですよ」と言う。彼女は優しい先生なのだが、まれには雷を落とすことがある。そんな時、「生徒たちも反省してくれてはいるようですが、『先生、すみませんでした』とは、絶対に言いません。ただ、うつむいて涙を流している。時々、上目遣いに私を見る。『すみません』と、ひとこと言ってくれれば、私も気持ちがすっきりするんですが・・・こちらの人たちはどうしてなのでしょうかねえ」。

いや、僕ももちろん、どうしてなのかは分からない。ただ、当地では「謝る」「謝られる」といったことはないのだ、と納得してしまえば、何かあっても謝る必要はない。それはそれで気楽ではある。