秋刀魚を「知らない」人たち

レストランの壁に秋刀魚らしき魚の料理を写したポスターが張ってある。目を凝らすと「烤秋刀魚」と書いてある。日本語で言うなら「焼き秋刀魚」だ。おや、中華料理の店でも「秋刀魚の塩焼き」を出すようになったのかしらん。中国に来て以来、日本料理店に行ったとき以外、秋刀魚の塩焼きを食べたことはないが、大好物である。値段は10元(1元≒13円)。さっそく注文した。わくわくしながら待つことしばし、「烤秋刀魚」がやってきた(写真)。

が、「秋刀魚の塩焼き」にしては、どうも様子がおかしい。秋刀魚の肌に、どう言えばいいのか、何やらベチャベチャしたものがかけてある。そして、赤いものがいっぱい散りばめてある。秋刀魚の塩焼きと言えば大根おろしだが、そんなものは見当たらない。代わりにと言うか、名前の知らない野菜とタマネギが添えてある。こんな秋刀魚の姿は生まれて初めて見た。

おそるおそる箸をつけてみた。いやはや、とにかく辛い。秋刀魚の上に散りばめられた赤い奴は唐辛子だろう。この秋刀魚をいったん焼いたのは間違いないようだから、「烤秋刀魚」の看板に偽りはない。でも、塩焼きした秋刀魚の、あの懐かしい味はまったくしない。食べるには食べたが、僕の早とちりが悔しい。秋刀魚は塩焼きするだけでおいしいのに、手間を掛けてなんでわざわざまずくするんだ。

変なものを食べさせられたおかげで、ますます秋刀魚の塩焼きが食べたくなった。日本料理店に行けばいいのだが、一般に中国の日本料理は高すぎてばかばかしい。自分で作ってやろう。今までもスーパーで冷凍の秋刀魚を見かけてはいた。「冷凍ものなんて・・・」と、横目で見るだけだったが、当地で塩焼きを食べるにはこれを使うしかない。

スーパーの冷凍秋刀魚はまあまあの大きさの奴が3尾で10元足らずだ。さっそく買ってきた。さて、どうやって焼くか。わが家にはガスがなく、あるのは「電磁炉」(日本語では、電磁調理器と言うのだろうか)だけだ。網に乗せてガスで・・・というわけにはいかない。どうしようか。試しに秋刀魚をアルミフォイルに包んでフライパンに入れ、電磁炉に乗せてみた。フォイルに包む際に塩も振った。

秋刀魚を焼くという、あの独特の雰囲気は望むべくもないが、しばらくすると、いい匂いが漂ってくる。秋刀魚はフォイルの中に隠れているので、焼け具合は見えない。匂いをたよりに電気を切って取り出してみた。そして、しょうゆをちょっとかけて、大根おろしとともに・・・これが、結構いけた。新鮮な秋刀魚の味をすでに忘れているせいもあるだろう、冷凍ものでも実にうまい。

以後、週に1回や2回は秋刀魚の塩焼きを食べるようになった。たまたま休日に塾にやってきた生徒に振る舞ったこともある。「こんな秋刀魚の食べ方があるなんて、知りませんでした。おいしいです」と、褒めてくれた。彼女は自分でも作ろうと、さっそくアルミフォイルを買いに行ったそうだから、まんざら嘘ではないだろう。

要らぬお節介ではあろうが、どうも中国人は秋刀魚のおいしい食べ方をご存じないみたいだ。いや、秋刀魚に限らず他の魚でも同じではないか。テレビの料理番組を見ていると、何と言う魚か知らないが、おいしそうな塩焼きらしきものが現れることがある。「あ、うまそうだな」と眺めていると、その魚は鍋に入れられ、やおら上から具やら何やらがどさどさと放り込まれる。「あ、あ、やめてぇ。そのまま食べればいいのに・・・」と思わず叫んでしまったりする。

塩焼きでないなら、こちらの人たちは一般にどうやって秋刀魚を食べているのだろうか。塾での授業の際に10人あまりの生徒に聞いてみた。まず「魚が好き?」と聞くと、全員が「好きで〜す」と声をそろえる。「じゃあ、秋刀魚は?」と続けると、雰囲気が変だ。なんと大部分の生徒が秋刀魚を見たことがない。冷蔵庫に買い置きしていた冷凍秋刀魚を持ってきて見せてやると、「ほうー」という顔つきで眺めている。

「秋刀魚を食べたことがある」と言うのも3人いた。ひとりは以前に僕が食べさせた生徒、もうひとりは「姉が作ってくれた」と言い、どうやらレストランで出てきたのと似たもののようだった。いろいろ聞いてみると、当地ではそのほか秋刀魚を煮て食べるのが多いみたいだ。3人のうちあとひとりは日本人と結婚して日本にいる30歳代の女性で、いま里帰り中。僕の手の冷凍秋刀魚をしげしげと見て「ああ、それなら、日本にいる時、塩焼きで食べました」。頼りない話だ。

わが塾で日本語を教えている以上、秋刀魚の塩焼きがなんたるかも生徒に教えるのが当然だろう。そうでないと、落語『目黒の秋刀魚』の話もできない。これからおいおい、生徒たちに食べさせていかねば、と思っている。