威張る並木たち

川に沿った、木の多い歩道を散歩していた。わが塾からそう遠くない場所だが、いつもは車道を隔てた反対側の歩道を歩く。川沿いを歩くのは初めてだ。川と歩道の間には、石で造った柵が続いている――ある所に来ると、下のように、その石の柵が微妙にずれている。ああ、またやってるな。こちらの人たちのやることには、とかく「おおざっぱ」が多い。いい加減な工事をしたのだろう。とっさにそう思ったけど、どうも様子が少し変だ。

よくよく見ると、柵の向こう側、つまり川のほうにある木が、歩道のほうにまでせり出してきている。それに場所を譲るために、石の柵を少しだけずらしているのだ。おおざっぱどころの話ではない。もう少し歩くと、下のような奴も現れた。言うなれば、石の柵を壊して木が空に伸びている。

さらに木が威張っているのは、下のふたつの写真である。ひとつは木々のために石の柵は大きく迂回して広い場所を提供している。迂回のために石材も手間も余分に掛かったはずだ。木の都合によって工事のやり方を変えている。どの例も、工事関係者の優しさに心を打たれるというものだ。こんな所はほかでもちょくちょく見かける。もうひとつは、観光客の多い、ある山の登山道である。道の脇から伸びた木がこわい。足元に注意を奪われて歩いていると、小柄な人でも頭をぶつけてしまう。人間としては、もう少しなんとかしてほしいのだが、木は自然のまま、その勢いのまま、人間がぶつかるのを楽しみにしているかのように、道の上部を塞いでいる。

さて、わが桂林から北へ3000キロ、黒龍江省ハルビンに飛んでみよう。2001年秋から06年夏まで、僕はここのハルビン理工大学日本語科で教えていた。ハルビンを去る前、大学の近辺がずいぶんと整備され、新しく広い道がいくつもできた。その時「オヤッ」と思ったことがあった。かつては道路でなかった所に立っていた木が、道路ができた後もそのまま生き延びているのだ。立っている場所は道路の真ん中に近い。車の通行にきわめて危険である。

以後、ハルビンに行ったことはないが、この木のことが折に触れ、気になっていた。木にぶつかった車もあるのではないか。その責任を取らされ、あの木は伐採されてしまったのではないか。で、「近況を知らせてほしい」とハルビンの知人に頼んだら「依然、健在です」と、下の写真が送られてきた。

車道をかなり塞いでいるだけではなく(当時は気づかなかったが)横断歩道まで塞いでいる。あらためて見ると、たいした木ではない。南国桂林のうっそうと茂った連中と比べると、まことに貧相である。その割には、車にも歩行者にも邪魔で仕方がないだろうに、まだ生き続けている。

ことほどさように、この地の人たちは街中の木を大切にしている。以前、「桂林街中『障害物』図鑑」(2009年9月1日)を書いた時も、街の歩道を塞ぐ木について触れたことがある。でも、木々を大切にしようとするなら、この程度の迷惑は耐えるべきである。日本でなら、ここまで書いてきたような場所に木があった場合、間違いなく邪魔者扱いでバッサリであろう。だが、そんなことでいいのか。中国人のやり方をおおいに見習うべきではないか。地球が悲鳴を上げている今、なおさらではないか。

けれども、上のような場合はどうだろうか。ハルビンからまた桂林に戻っての写真である。いわゆる盲道が並木にぶつかっている。盲道はそこでいったん切れ、この木の先でまた始まる。ところが、すぐまた木にぶつかって切れてしまい・・・この盲道を頼りに歩いてきた人は、いったいどうすればいいのだろうか。つまずき、ぶつかり、倒れながら、進んでいかねばならないのだろうか。

並木をより大切にするか、それとも盲人をより大切にするか。悩ましい問題のようでもあるが、そう、解決策は実に簡単である。盲道が木にぶつからないように、曲げるなりなんなり、少し方向を変えて設ければすむことである。木も盲人もともにハッピーである。こんなことに気づかないなんて、中国人はやっぱりおおざっぱで、いい加減だなあ、となぜか嬉しくなってくる。