落とし物を拾ったら あとが大変

わが塾の近くにある広西大学のグラウンドで財布を拾った。ほぼ毎日の朝早く、塾の女性たち10人ほどを集め、ここでサッカーのまねごとをしている。その時のことだ。「財布を拾った」と簡単に書いたが、実はこの地では何かを拾った場合、あとをどうするかが悩ましい。日本でならそのまま交番(警察)に届ければ、拾い主の役目は終わってしまう。が、こちらではそう単純にはいかない。

まず、警察に届けるという「常識」と言うか、「慣習」と言うか、そんなものがきわめて乏しいみたい。試みにわが塾の生徒たちに「財布を拾ったら警察に届けるかい?」と聞いてみたら、まずは誰もが「いいえ」と答える。警察に届けたって落とし主の手に戻るかどうか、いや、それよりも財布は警察官の懐に収まってしまいそう――警察に対するそんな不信感が強いようなのだ。

となると、財布を拾った後の選択肢はふたつしかない。ひとつはそのまま猫ばばする、もうひとつは自分たちで落とし主を捜し出して届けることだ。もちろん、清く正しく生きている僕たちが猫ばばをするはずがない。いくらかは面倒でも、落とし主に直接届けるしかない。で、さっきの財布の中を数人で探ってみると、現金はなかった。住所、氏名、生年月日を記した写真つきの身分証のほか銀行カード、スーパーのポイントカード、それに領収書や何かの受験票が出てきた。どうやらこの財布は落としたものではなく、盗まれたもののようだ。犯人は現金を抜き取った後、身分証などが残っている財布をグラウンドに捨てたのだ。

で、この「身分証」なのだが、中国では18歳以上の成人は全員がこれを持たなければならない。これがないと、預貯金の通帳が作れない、飛行機に乗れない、旅先でホテルに泊まれない。学生だと受験の申し込みもできない。なくせば再交付に何か月も掛かる。そんな大切なものだから、犯人も身分証だけは本人に戻してやろうと、人目につきやすいグラウンドを捨て場所にしたのだろう。良心のかけらぐらいはあったようだ。

ところが、身分証があったからと言って、簡単に持ち主にたどりつけるとは限らない。これにある住所は「本籍地」のようなものだから、現住所とは異なっていることが多いそうだ。むしろ、今回役立ったのは何かの資格試験を受けるための受験票だった。その試験の事務局に電話し、持ち主を突き止めた。広西大学に近い別の大学の女子学生だった。彼女によると、財布の入ったかばんを前夜盗まれ、ほとんど一睡もできなかったとのこと。余談だが、身分証に「これだけはお返しください」という泥棒向けのメッセージと現住所を張り付けている人も少なくないそうだ

財布騒ぎからしばらくしてやはり早朝、同じグラウンドで今度は携帯電話を拾った。結構高そうなやつだ。さっきも書いたような理由で警察に届ける気にはなれない。調べてみると、携帯はマナーモードになっている。呼び出し音が鳴るようにして30分もしないうちに落とし主から電話が掛かってきた。今度はこの大学の男子学生で、前日夕方、グラウンドで軍事訓練の行進をしていた際に落としたようだった。本人は前夜から何度も何度もこの携帯に電話していたと言う。携帯は真夜中のグラウンドでむなしく身を震わせていたことだろう。

ところで、この携帯電話というやつ、実によく盗まれる。生徒たちに聞くと、携帯を持っていて盗まれた経験のない人はまずいないとさえ言う。幸い僕は周りから馬鹿にされるほどの安物を使っているせいか、そんな経験はないが、最近はかばんやポケットから盗むといった穏健なやり方ではなく、携帯で話している人からじかに奪っていく荒っぽい手口も目立つとのこと。盗品の携帯ばかりを並べたような店もそこかしこで見掛ける。そんな携帯だから、落としたものが戻ってくるなんて奇跡に近い話だったかも知れない。

こちらの観光地の事務所やバスのターミナルなどで、上の写真のような旗を見掛けることがある。でかでかと書かれた8文字は「カネを拾ったのに自分のものにしなかった。あなたの人徳は高尚である」といった意味だ。拾ったカネを届けたくらいでこんなにも褒められるなんて、きっとその反対の人が多いからだろう。そう言えば、500元(1元≒12円)ほどが入った財布を拾って落とし主に届けた人の話が以前、タブロイド版の夕刊紙にでかでかと載っていた。

よそ様の国のことながら、どうも世の中がおかしい。どうしてだろうねえ・・・ わが塾でぶつぶつ言っていたら、20代半ばの女性の生徒が「子供のころ、こんな歌がありました」と、唱歌のようなものを歌ってくれた。意訳すると「道で拾った一分銭(一円玉といった感じ)、警察のおじさんに届けたら、いい子いい子と褒められた」といった歌詞だ。50年やそこら前から歌われていたが、今は全く耳にしなくなったそうだ。彼女は「私も時代に後れてしまいました」と言う。「歌は世につれ、世は歌につれ」ということでもあろうか。