「清潔」な人たち

日本からの客人を案内して桂林市郊外の景勝地、陽朔に行った時のことだ。ちょっとしゃれたホテルに泊まった。浴室には桧ではないけれど木の浴槽がある。中国のホテルでこんな浴槽にお目に掛かるのは初めてだ。嬉しくなってさっそくお湯を入れ始めたら、一緒に来たわが塾の生徒たちから止められた。「先生、浴槽にいきなりお湯を入れるなんて汚いじゃないですか。湯を入れる前に浴槽にビニールを敷いてください」。見ると、浴槽の脇にはシーツ状のビニールが畳んで置いてある。これをまず浴槽いっぱいに敷き、その上にお湯を入れる。体と浴槽を直接に触れさせてはいけないと言うのだ。

この10年来、中国のホテルには随分と泊まっているが、大体が安い所なので、浴槽のあるホテルはめったになかった。シャワーだけだった。たまに浴槽があったりすると「ああ、久し振りに風呂に入れる」と嬉々として湯を張っていた。ビニールを敷くなんて考えたこともなかった。浴槽はちゃんと消毒されて清潔になっているものだと信じていた。

だが、わが生徒たちが言うには、誰が使ったか分からない浴槽にそのままつかるなんて、常識では考えられない。「私たちはホテルに浴槽があってもシャワーだけで済ませます。もし、消毒済みと書いた紙切れが浴槽に入れてあっても使いません。本当に消毒されたかどうか、分からないではありませんか」。

ハルビンの大学にいた頃、日本に長く留学していた女の先生が話していたことを思い出した。留学中、親しくしている日本人の家庭に食事に招かれることが時々あった。もちろん、喜んで応じたのだが、たまには「お風呂にどうぞ」と勧められることがあった。訪問先の好意から出た言葉であることは十分に分かっている。風呂にはすでに湯が張ってある。だが、誰かが私の前に入っているかも知れない。この家のおじいちゃん、おばあちゃんかも知れない。その後に入るなんて気持ちが悪い。「断るのは悪いし、風呂には入りたくない。ほんとに弱りました」と、彼女は話していた。

この日本人と中国人の違い――多分こういうことではないだろうか。つまり、浴槽とは体を隅々まで洗った後で入る、そして疲れを癒す所だと日本人は思っている。桧の風呂に入って燗酒をちびちび・・・まさに至福の時である。だけど、中国人はそうではない。浴槽は汚れた体を奇麗にする所だと思っている。まず浴槽で温まってから体を石鹸で洗う。あるいは、浴槽の中で石鹸を使ったりもする。従って浴槽には体から出た汚れが満ちている。当然、誰が使ったか分からない浴槽にはつかりたがらない。

そんなことをわが塾の女性たちと話していたら、「私たちはホテルの洋式トイレもできるだけ使いません。近くに中国式のトイレがあったらそっちを使います」と言う。この地ではいわゆる洋式の座るトイレがあるのはホテルと個人の住まいぐらいで、百貨店、スーパー、学校、駅そのほか公共の場所のトイレは大体が中国式である。

中国式というのは上の写真のように和式トイレの親類のようなものだが、いわゆる「金隠し」がない。穴が開いただけと言った感じで、洋式、和式に比べて掃除が簡単だ。その点はまことに都合がいいのだが、僕はあまりなじめない。でも、わが塾の淑女たちは「トイレは中国式に限る」なのである。

それも浴槽の場合と理由は同じである。誰が使ったか分からない洋式トイレに腰掛けるのは気持ちが悪い。もちろん、日本人だってそれが好きなわけではなく、座る部分に紙を敷いたりしているだろう。和式トイレが好きな人も少なくはないはずだ。でも、洋式トイレを避けてわざわざ中国式に入るなんて、彼女たちの「清潔度」は徹底している。この地で洋式トイレが日本のように多くないのはそのせいなのだろう。

南寧での僕の住まいにはトイレが二つある。一つは洋式、もう一つは中国式である。この地のやや広めのアパートはこういうのが普通だ。洋式は夫婦や家族が、中国式は主に来客が使うということらしい。で、僕は洋式を僕専用として使い、同居している数人の中国人の生徒たち(みんな女性)が中国式を使っている。尋ねたことはないが、日本人のおじいさんと同じトイレを使うなんて耐えられない。そんな感覚だろうか。

日本人は一般に中国人をろくに風呂にもつからない不潔な連中だと思っているかも知れない。中国式の公共トイレは水洗でも奇麗とは言い難い所が目立つ。でも、中国人から日本人を見ると、誰が入ったか分からない浴槽に平気でつかる、誰が座ったか分からない便器に平気で座る、なんと不潔な連中ということになるのかも知れない。所詮はそれぞれの「文化」なのだろうが、その違いは時には互いに相手を蔑視することにつながりかねない。たかが浴槽や便器に過ぎないのだけど、けっこう面倒なものではある。