乞食業界の多様なる商法

久しぶりに南寧の街中に出掛けた時のこと、白髪頭の老人が道路に正座し、コメツキバッタよろしく無言でお辞儀を繰り返している。傍らには蒲団が敷かれ、娘あるいは娘役と思しき女性が寝ている。「娘が重病です。お恵みください」といったところだろうか。老人の前に置かれた箱には1元札(1元≒13円)を中心に小額の紙幣が結構たくさん入っている。

そこから100メートルほど行くと、今度は30歳前後の男が同じようにコメツキバッタをやっている。傍らの蒲団には母親か母親役らしき年配の女性。さらに100メートルほど行くと、同年輩の男がまたもやコメツキバッタ。今度は父親か父親役の男性が蒲団の中。僕が上から覗き込むと、薄目が開いて目が合った。

わずかな距離に3組も似たカップルがいる。これは偶然ではないはずだ。中国のこの「業界」にはちゃんとした組織があると聞いたことがある。その組織で考えた「新商法」ではないのか。ここに至って僕は恐る恐る3番目のカップルにカメラを向けた。上の写真がその親子連れ?である。

ところで、道端で寝ていなければいけないほどの「重病人」をどうやって住まいからここまで連れて来たのだろうか。どうやって帰るのだろうか。夕暮れ時、現場に戻ってみた。すると、2番目に会った男はすでにコメツキバッタをやめ、でっかいズダ袋に手を出し入れしている。少し離れた所から目を凝らすと、どうやらその日の収入を勘定しているようだ。上の写真がその後ろ姿だ。ほとんどが1元札だが、片手で紙幣をわしづかみにしてはズダ袋に収めている。

やがて金勘定が終わり、男は傍らの蒲団を軽くたたいた。寝ていた女性が起き上がった。男は蒲団を畳んでこれもズダ袋に入れ、女性と一緒に人波を縫ってゆっくりと歩き出した。何やら仲睦まじい感じがする。下の写真がそうで、野次馬根性からしばらく後をつけてみたが、やがて見失ってしまった。

こんな商法に出会ったのは初めてだが、南寧にも桂林にもこの種の人たちがけっこう多い。下の写真のように、入れ物を持って、道路や階段にしゃがみ込んでいたり、バス停、公園などの人込みを歩き回ったりするのが一番古典的な商法だろうか。街中に出掛けた折に見かけないことはまずない。

もうひとつ、よく目にするのが、道路に白墨で「2元ください。バスに乗れます」とか「電話を掛けられます」とか書いて、そばに座り込んでいる20歳前後の女の子や男の子だ。下の写真がその一人で、申し合わせたようにうつむいている。女の子が多く、おおむね身ぎれいだ。ちなみに、写真の子を写す前にも別の女の子を撮ろうとしたが、斜め後ろでカメラを構えた途端、さっと立ち上がり、白墨の文字も靴で消して逃げて行った。どうやら、少し離れた所にいた仲間が合図したようだった。赤ん坊を抱いて座り込み「3元ください。この子に何かを食べさせられます」などと、やはり道路に白墨で記している女性も見かける。赤ん坊が本人の子なのか借り物なのかは分からない。商法は実に多様である。

僕なんか根が単純だから、こういう人たちを見掛けると、少しくらい差し上げてもいいじゃないかと思ってしまう。だが、周りの中国人からは「彼らは本当は金持ちなんです。馬鹿なことはおやめなさい」と止められる。おかげで、これまで1元も出したことがない。だけど、彼らのパフォーマンスを信じて寄付する人も多いようである。

わが塾が桂林にあったころ、ちょっと世慣れた30歳代の女性が勉強に来ていた。彼女は日本語を学び始める前は夜な夜なカラオケで遊んでいた。そして、遊び仲間の母親が実は乞食だったと話してくれたことがある。母親はなかなかに羽振りがよく、夜はやはりカラオケに来ていたし、マンションも何軒か持っていた。娘から「もう乞食はやめたら」と言われると、「マンションをもう一軒買ってから足を洗う」と答えていたそうだ。

やはり、塾の生徒から聞いた話だが、その女性の叔母が桂林の市場で手広く麺の製造・販売業をやっている。その店には毎日のように乞食が一人、1元札などで数百元を持って現れ、100元札などの高額紙幣と交換していく。麺の小売は数元単位の商売だから、店主としては釣り銭用に1元札などがたくさん欲しい。乞食のほうは街でもらった1元札など小額紙幣ばかりでは使いづらい、高額紙幣も欲しい。両者の利害が一致しているのだ。乞食はやがて新しい稼ぎ場所を求めて桂林を去ったが、この話を教えてくれた生徒は「彼の月収は1万元やそこらにはなっていたはずです」と言う。確かに1日数百元だとその勘定である。

先日、当地の日系企業からわが塾に求人があった。「大学卒、日本語能力試験1級合格者」というのが条件で、初任給は2000元だった。