わが懐かしき「盲人按摩」

全盲の男のマッサージ師が白い杖を頼りに盲道(点字ブロック)を歩いていた。そこへ自転車がぶつかってきた。転びそうになった。男の野太い声が聞こえてきた。「注意しろ。あんた、めくらか」。マッサージ師は「ええ、私はめくらです」と答えた後、この無礼な男を少しからかってやりたくなった。「あんたも、めくらですか?」。男は「何を言うか、殴ってやる」と憤ったが、ここはマッサージ師の店のすぐ近くである。周りから人が駆けつけてきて、騒ぎは収まった。

以上は、もう4年ほど前になろうか、僕が南寧に移る前、桂林にいた頃に聞いた話である。なんで今、こんなことを思い出したのか、それはこの9月の初め、僕の住んでいる埼玉県川越市でよく似た事件があったからだ。

報道によると、朝8時前、全盲の女子高校生がJR川越駅のコンコースの盲道を白い杖を持って歩いていた。すると、その杖に誰かがぶつかって転んだ気配がした。すぐ後、女子高校生は右ひざの裏をきつく蹴られて、全治3週間の怪我をした。周りで「おい、何をするんだ」と、たしなめる人もいたが、蹴った人間は無言で立ち去った。警察の調べだと、蹴ったのは44歳の男だったが、知的障害がある。どう扱うか、警察も悩んでいたようだった。

最初の話に戻る。自転車にぶつかられた全盲のマッサージ師は曽さんと言って50歳代、僕が桂林でちょくちょく通っていた「盲人按摩」だ。街中の小さな商店に挟まれた間口1間ばかりの店で、薄暗い部屋にはマッサージ用のベッドが3台あった。と言っても、マッサージ師は曽さんひとり、余ったベッドにはマッサージを終えた客が気持ちよさそうに眠り込んでいた。僕もそのひとりだった。

料金は1時間たっぷりマッサージして20元、そのうちに25元に値上がりしたが、当時は円高だったから、日本円にすれば300円ほど。今の円安相場(1元=17〜18円)で換算しても、気の毒なほどに安い。マッサージが終わると、曽さんはいつも汗びっしょりになっていた。

そんな曽さんのことが懐かしい。中国語はよくは分からないのだけど、マッサージの後先に曽さんが話してくれたことが強く脳裏に残っている。曽さんはもともと全盲ではなかったが、成長するにつれてだんだん視力が落ちてきた。そんな16歳の時、ためたお年玉を持ってひとり桂林から北京に旅行した。心配した両親は大反対だったが、「旅行して本当によかったです。私にとって最後の見える旅でしたから・・・私にも青雲の志があったんです」と曽さん。何度か、目の手術もしたが、結局17歳の時、全く見えなくなってしまった。

「17歳で失明」と聞いた時、僕は思わず涙しそうになった。曽さんと自分の身が重なった。実は僕も高校2年生の17歳の時、円錐角膜とやらで視力が急速に落ちた。半世紀以上も前のことだ。教室の黒板の字はもちろん手元の教科書の字も読めなくなった。もっとも、生まれつき能天気な僕だったから、そうは将来を悲観しなかったが、結局はその頃に出始めたコンタクトレンズに救われた。普通のめがねでは全く駄目だったのに、コンタクトだと、円錐角膜でも結構見えるようになった。曽さんに比べ僕は本当に幸運だった。

ところで、中国はとにかく偽札が多い。スーパーでもどこでもカネを払うと、従業員はお札を擦ったりして、偽札でないかどうかを確かめる。だけど、曽さんは僕が払った札については、一度もそのようなことをしなかった。手の平に「25元です」と押し付けるようにして渡すと、「ありがとう」と白い上っ張りのポケットに放り込むだけだった。この外国人を信用してくれているのだろう。そんな話を塾の生徒にしたら、「先生、どうして偽札を渡さないんですか。私なら、そうします」と言う生徒がいたので、きつく叱ったことだった。

曽さんのような「盲人按摩」を看板にした店が桂林に限らず中国には多い。南寧のわが塾の階下には盲人按摩が5軒ほど並んでいる。盲人だと税金の面などでいろいろと優遇されるからのようだ。それだけに「盲人でもないのに、そのふりをして盲人按摩の店を開く連中が多いんです」と、曽さんはぼやいていた。

南寧や桂林では夜になると街の広場で「夜間盲人按摩広場」なるものも開かれている。南寧の場合、盲人按摩師が30人ほどたむろしていて、客は粗末で薄汚いベッドに横たわったり、椅子に座ったりしてマッサージを受けている。僕はやったことはないが、料金は30分で5元だそうだ。

ところで、いつも不思議に思っていながら、まだ答えを見つけていないのだが、どうしてこの地には盲人按摩が多いのだろうか。マッサージが盲人に向いた職業のひとつであることは中国も日本も同じだろうが、その多さは中国は日本の比ではない。多分、中国では「盲人と言えば按摩」といった観念が社会に根付いてしまっているのではないか。将来の職業に悩まなくてもいい半面、盲人には極めて選択肢が乏しい社会なのではないか。僕はそんな感じがしている。