中国人に好評!?の僕の字

先月18日、安保法案の採決強行に抗議するデモが国会議事堂前など全国各地であり、「アベ政治を許さない」と毛筆で書かれたプラカードが初めてそれらの会場を埋めた。95歳の俳人金子兜太さんの揮毫(下の写真)で、迫力満点の太い字、アベさんも気おされたのではないか。僕もその字に見とれながら、自分のちょっと恥ずかしい過去を思い出した。

実は、僕は毛筆をちゃんと扱えない。言い訳をすると、僕が小学校に入ったのは敗戦のちょっと後だった。戦前の日本文化が何かと否定されていた頃だったせいか、毛筆の使い方をまともに習った覚えがない。大学に入った時には宣誓書に毛筆で署名させられたが、手が震えるばかりで、情けない思いをした。しかし、それ以外には、毛筆を強制されることもなく生きてきたが、とうとうのっぴきならぬ事態に立ち至った。

20年ほど前、まだ新聞社に勤めていた頃、日本の古都奈良から中国の古都西安まで歩いて行くイベントをやった。かつての遣唐使の道を今一度たどってみようとの趣旨で、陸路は約1500キロ、2カ月掛けて歩き、日本から中国へも一応、遣唐使にならって船で渡った。

それはそれとして、出発前にふと思い当たった。中国では各地で毛筆での揮毫を求められるだろう。しかも、このイベントの責任者は僕だから、嫌でも僕が筆を執らなければならない。そこで乗船前、毛筆から墨汁、半紙の一式を買い込み、船中の2日間は付け焼刃ながら、もっぱらその練習にあてた。

中国での歩行の途中、表敬訪問した小学校で最初の揮毫を求められた。それ自身は覚悟していたことだが、予想していなかったのは、毛筆を振るう対象が色紙などの紙ではなくて、白い綿布だったことだ。紙の上でも不自由なのに、布の上に字を書くなんて・・・ままよと取り掛かったが、案の定、筆がすらすらとは滑ってくれない。紙と布とでは感触がかなり違う。「字」とか「書」とはとても言えないものが、布の上をのたうちまわった。

周りには小学校の先生たちが立って、僕の筆捌きを眺めている。まさに「穴があったら入りたい」心境。先生たちは「日本人って、やっぱり東夷(東方の野蛮人)だなあ。字もまともに書けない」と思っていたかも知れない。以後の道中ではなんとかして揮毫そのものを避けることに全力を注いだ。

ところで、やはり道中のホテルのフロントで女性の従業員と筆談を交わしたことがあった。もちろん、毛筆ではなくボールペン、それもふだん愛用している太目の水性ボールペンで書いた。すると、相手の女性が僕の字を見て「実にすばらしい。風格がある」と褒めてくれた。エッ、ホント!? 

で、以下も自慢話が恥ずかしげもなく続くのだけど、10年近く前、1年だけだったが、桂林の大学で日本語を教えたことがある。大学を辞めて同じ桂林で日本語塾を始めた頃、教え子のひとりの女性が日本語の作文を添削してほしいと言ってきた。気軽に引き受けたが、後日の彼女の話だと、添削を僕に頼んだのは日本語を上達させたいということよりも、添削の折に僕が太目の水性ボールペンで書く字が欲しかったからだそうだ。

その大学にいた時、僕は何人かの学生の卒業論文を指導した。そこには彼女は入っていなかったが、友人たちの卒論の添削で見る僕の字がえらく気に入った。そこで、勝手に作文を書いて、僕に渡すことを思いついた。おかげで、今も彼女との添削の付き合いが続いている。僕は漢字の崩し方も我流で、とても美しいとは言えないはずだけど、そんな字が好みとは、変わり者もいるものである。

映画やテレビドラマの題字を始めとして、今や引っ張りだこという書道家がいる。武田双雲さん、40歳。最近読んだ朝日新聞の記事によると、書道家になる前、会社勤めをしていた頃、職場の雰囲気を和ませようと、メモ用紙に筆ペンで職場の人の名前を書き始めた。すると、名前を書いた先輩女性社員のひとりがそれをじっと見て、今まで自分の名前が嫌いだったけど、「初めて自分の名前が好きになれた。ありがとう」と喜んでくれた。それがきっかけともなって、武田さんは書道家として独立したそうだが、自分の字が他人に喜んでもらえたという点で、さっきの僕の自慢話と共通点がないこともない。

つまり、僕には毛筆による「書」の才能がないとは言い切れないようだ。遅まきながら、昔の船中以来の毛筆の練習を再開しようかしらん。そして、もしいつか、中国で揮毫を頼まれる機会がまたあったなら、色紙にでも布にでも二つ返事で・・・なぞと夢想し始めている。