中国人の名刺 日本人の名刺

東京・有明東京国際展示場で、訪日観光客をどうもてなすかをテーマにした展示会があった。たまたま招待券をもらったので、出掛けてみた。入り口で名刺2枚を求められた。1枚は主催者が保管し、1枚は胸にぶら下げる名札にするためだった。いま素浪人の僕にとって、名刺を出す機会なんてめったにない。そして、僕の名刺には名前、住所、自宅の電話番号にEメールとこの『なんのこっちゃ』のアドレスが記してあるだけで、肩書は何もない。

場内を歩いた。あちこちに立っているコンパニオン風の女性の一人が紙袋を差し出したので、受け取ったら、「よろしければ、お名刺を」と言われた。あ、そうか、商売につなげるために、名刺が欲しいのだ。でも、肩書なしの僕の名刺なんて、なんのお役にも立てないだろう。そう思って、頂いたばかりの紙袋を返上し、名刺も渡さなかった。

ブースを回ってみると、それぞれの企業の説明員たちも、ブースを覗いてくれた人たちの名刺を欲しがっている。「1日に名刺を何枚集めよう」なんて、目標を立てている企業もあるようだった。

実に久しぶりに名刺が飛び交う世界に身をおいた。そのせいで、思いは中国人の名刺と日本人の名刺の違いに飛んでいった。今まで心のどこかにあった「どうしてだろうか?」との疑問である。それは、中国人の名刺には固定電話のほかに「携帯電話」の番号も書かれているが、日本人、とりわけ会社や役所に勤めている人の名刺にはそれがまずない、ということだ。自分なりにその理由を考えてみた。

携帯電話の番号のあるなし――本当にそうだったのかどうか、家に戻ってから、念のために名刺入れを繰って調べてみた。やはりそうだった。中国で受け取った中国人の名刺には携帯電話の番号がある。日本で受け取った日本人の名刺には勤め先の固定電話の番号があるだけで、携帯の番号はない。ただ、フリーで働いている人の名刺には、携帯の番号もちゃんと記してあったりする。

そして、ちょっと面白いことにも気付いた。日本で日本企業に勤める中国人の名刺にはおおむね携帯の番号がない。会社が作って本人に支給した名刺であるからのようだ。他方、中国で働いている日本人の名刺にはおおむね携帯の番号がある。郷に入れば郷・・・ということなのだろうか。僕も中国で日本語の塾をやっていた時には、固定とともに携帯の番号もちゃんと書いていた。携帯がないと、中国ではどうも信用されないようである。

わが経験から言うと、名刺の出し方、渡し方も日本人と中国人とでは違う。やや大げさに言うと、日本人は相手は誰でもいい、まるでばら撒くように名刺を配る。それに比べ中国人は慎重である。相手がまずは信用できる人間だと判断しない限り、軽々には渡さないみたいだ。

それには、中国における名刺の「歴史」が影響している、と中国人の友人が解説してくれた。新中国になってから長い間、名刺は限られた人しか持てなかった。名刺を印刷するには所属する組織の「紹介書」が必要だった。名刺を持っていなかった親が出世して、名刺を持てるようになったので、家族でお祝いの宴を張ったなんて話もあるそうだ。

ところが、改革・開放の時代になって、誰もが自由に名刺を作れるようになり、おかげで詐欺まがいの事件も頻発するようになった。ちなみに、中国語で名刺は「名片」だが、その発音「ミンピエン」は明らかな詐欺を意味する「明騙」と全く同じ。「名刺はあなたを騙す」なんて、はやり言葉もあったそうだ。

そんな「歴史」から中国人は慎重に名刺を出すようになったみたいだが、逆に、いったん信用して名刺を渡したからには、携帯の番号まで知らせ、いつでもお相手しますよという意気込みを表している感じでもある。「24時間、携帯にいつでも電話OKです」とまで書いた名刺もあるそうだ。

日本の会社で働く中国人の知人も、会社が作ってくれた名刺には勤め先の電話番号しかないので、信用できそうな相手――特に中国人には携帯の番号と私的なメールアドレスを記したもう一枚の名刺を一緒に差し出している。「相手は喜んでくれて、普通よりも親しくなれます」と言う。

日本人の名刺と中国人の名刺――どちらがいいとは一概には言えないけれど、勤め先の電話番号しか分からなければ、相手に連絡できるのは普通、平日の勤務時間中だけだ。それも相手が席をはずしていれば、つながらない。なんだか、まだるっこしい。その点、最初から携帯の番号が分かっていれば、手っ取り早い。いつでも、どこでも、商談に入れるというものだ。

このところ、かなり減速気味とは言え、中国経済の高度成長の秘密は案外こんなところに潜んでいたのではないだろうか。