パラリンピックの「中国圧勝」で思ったこと

リオデジャネイロパラリンピックで国別のメダル獲得数では中国が金107、銀81、銅51、合わせて239個と圧勝した。開会中、日本の新聞には「日本 メダルラッシュ」なんて見出しが躍っていたが、終わってみれば、日本は金0、銀10、銅14の合わせて24個。中国の足元にも及ばなかったし、おまけに「金ゼロ」は夏季大会では初めてのことだった。

まあ、参加することに意義があるのだし、選手はみんな頑張ったのだから、責める必要は全くない。でも、日本パラリンピック委員会は当初「金10」を想定していたのだから、お粗末と言えばお粗末な見通しだった。

ちなみに、2位は英国で、金64、銀39、銅44の計147個、3位ウクライナは金41、銀37、銅39の計117個、4位米国は金40、銀44、銅31の計115個だった。英国やウクライナも大したものだが、とにかく中国の障がい者の強さが際立ったリオ・パラリンピックだった。

ふと、中国で出会った障がい者のことを思い出した。中国には物乞いをする障がい者が目立つ。特に観光地に多い。桂林にいた頃、塾に近い公園に散歩に行くと、入り口には手足がなかったりする障がい者がいつも数人たむろして、物乞いをしていた。台車に乗っている者もいた。台車と言っても、板切れに小さな車輪を打ち付けただけの粗末な奴だ。

最初の頃、僕はこの人たちを正視できなかった。自らの障がいを公衆の面前にさらして物乞いをする。ゆゆしき人道問題ではないのか。中国共産党ならびに政府はどう思っているのか。世界的な観光地である桂林には外国人観光客も多い。中国ではよく、かつて日本に侵略を許したことを「国の恥」なぞと表現する。ならば、この障がい者の物乞いを放っておくのも立派な「国の恥」ではないのか。

だけど、散歩に行く度にこの人たちを見ていると、僕の見方が微妙に変わってきた。障がい者の態度が、なんと言うか、卑屈には見えない。日本の乞食のように目を伏せたりはしていない。この人たちに少し慣れてきた僕が、相手を正面から見ると、向こうも僕をきちんと見返してくる。あんた、なんで、おカネをくれないの? 詰問されているような気持ちになった。

つまり、この人たちは自分の障がいを堂々と公衆の面前にさらけ出す。居直っていると言ってもいいだろうか。自分はこういう人間なんだ。手足のちゃんとある健常者のあんた方が、少しくらい自分たちに寄進しても当然だろ? そんなふうに呼び掛けられているように感じた。

ところで、日本ではこんなことが考えられるだろうか。まずないだろう。強いて言えば、第二次世界大戦のあと、白衣を着た傷痍軍人たちがギターを弾いたりしながら、物乞いしていたが、その姿も消えて久しい。

そして先般、神奈川県相模原市障がい者施設で起こった殺傷事件。警察は犠牲者の氏名を公表しなかった。「遺族のプライバシー保護のためで、遺族がそう希望した」とのことだったが、障がいは恥ずかしい、本人も家族もできれば人に知られたくない、といった気持ちがありありだ。犠牲者は氏名ではなく、A子、K男なぞと記号で発表された。桂林の堂々たる障がい者とは全く違って見える。

その桂林の物乞いの人たちと、パラリンピックで活躍した人たちとでは、同じ障がい者でも境遇には大きな差がある。しかし、僕の想像でもあるけれど、自らの障がいをさらけ出して、困難な人生に立ち向かっていこうという気持ちは、両者に共通しているのではないだろうか。

そして、中国の場合、パラリンピック向けの選手養成にあたっては「国家体育局」つまり国が前面に出てくる。国家利益を最優先する「挙国体制」である。訓練の費用は国が負担し、給料も払う。金銀銅のメダルを取れば、破格のボーナスを払う。中国にいる教え子の一人に選手養成のやり方について尋ねたら、以上の話のほかに「体育専門学校などでの訓練は勉強そっちのけですから、知的な教育レベルは低いです。だから、仕事をするための技術が身につきません。一方で、訓練しても伸びない選手は淘汰されていきますから、ストレスも強く感じるようです。障がい者スポーツの世界で出世できなければ、その後の人生は惨めです」と書き添えてきた。弱い立場の障がい者国威発揚のために利用されている感じがする。

翻って日本では、これまでは障がい者やその家族が自費でパラリンピックを目指す傾向が強かったそうだ。しかし、2020年の東京パラリンピックを目指して、日本もメダル獲得に頑張り始めるみたい。でも、国がまずやるべきなのは一般の障がい者のスポーツ振興ではないか。障がい者が気軽にスポーツできる環境を整えることではないか。そうは言っても、やはり金メダルも欲しい。面子がある。国威も少しは発揚したい。そう思うのなら、候補選手は中国に留学させて、鍛えてもらったらどうだろうか。