台北 こころやすい街

台北の街角で、50歳くらいの女性に「近くに地下鉄の駅はないでしょうか」と尋ねてみた。彼女は北京語(台湾では中国語のことをそう呼んでいて、台湾の国語である)で答え始めた。だが、僕が日本人だと分かったのだろう、「あっち」「そこを」「まっすぐ」などと日本語が混じってきた。でも、思うように日本語が出てこない。もどかしそうで、いかにも申し訳ないという表情がありありだった。

バス停で中年の男性から何かを尋ねられた。「僕は日本人なので、分かりません」と答えると、「ああ、日本の方でしたか。旅行ですか」と、きれいな日本語が返ってきた。地下鉄の駅で路線図を広げて首をひねっていたら、若い女性が「何かお困りですか」と、これもきれいな日本語で聞いてくれた。

バスが満員でつり革にぶら下がっていた。すぐ前に座っていた中年の女性が降りる時、「どうぞ」と、さりげなく日本語で声を掛けていった。タクシーに乗って行き先を告げると、60歳くらいの運転手が「あ、日本人ね」と言い、「一番」「なむみょうほうれんげきょう(南無妙法蓮華経)」と、日本語を披露してくれた。

台北に来て20日ほどになるが、街をうろついていると、こんなことによく出くわす。台湾の日本による統治が終わってもう72年になる。嫌でも日本語を学ばせられた世代は、もう街中をそうはうろついていないはずだ。なのに、街中で出くわす若い世代の人たちからさりげなく日本語が出てくる。商店で女性の店員に「日本語、できますか」と聞くと、困ったように手を振るので、僕が北京語で話し出すと、相手からは日本語が返ってくる。上手ではないけど、ある程度はできる、あなたの北京語よりはましよ、ということなのだろう。

この街に多いマッサージ店に行った。若い女性ふたりが先客で、足裏のマッサージをしている。店の人に「いいですか」と聞くと「OK」とのことだが、そのあとで話す言葉が全く分からない。たぶん、台湾語だろう。こちらの人たちは北京語のほかに、大陸南方の福建省発祥の台湾語もしゃべる。小学校では両方を教えている。ふたつの言葉はまったく発音が違うそうだ。

で、僕が北京語で「聞き取れません」と言うと、先客のふたりがいっせいに「ちょっと待って下さい」と声を上げ、日本語に通訳してくれた。そして、うちひとりが僕にスマホの画面を差し出した。そこには、北京語で「いまマッサージ師たちは手一杯なので、空くまで待って下さい」と書いてある。彼女たちの日本語は「ちょっと待って下さい」までで、さらなる説明は「筆談」でということなのだろう。

僕が台北に来て最初は、日本の統治時代には日本人街だったというところのホテルにいて、今は都心から少し離れたところの台湾人家庭で朝夕食つきのいわば下宿をしている。1週間いたホテルの周りは飲食店をはじめ日本語の看板だらけだった。うなぎ、お好み焼き、どさん娘、しゃぶしゃぶ、もつ鍋、うどんすき、「エビスビールあります」、くすり・・・「びっくりステーキ」と称した店では旭日旗、いわゆる軍艦旗が描いてあった。

「耳」から「目」から、異国の街で母国語が入ってくると、とりわけ外国語が苦手な僕は「こころやすい」気分になってくる。

赤れんが造りの台湾の総統府(上の写真)に行ってみた。台湾総統、いわば大統領の執務場所であるが、ここは日本統治時代の台湾総督府で、台湾にとっては屈辱の建物でもあるはずだ。だが、台湾はこの建物を今でも大切に使っている。中国でも同じだが、屈辱の建物でも中華民族は簡単に取り壊したりはしない。

それはそれとして、総統府の斜め向かいに「台北市立第一女子高級中学」というのがあった。えっ、こんなところに女子高校!! やや不釣合いだと思って守衛のおじさんに「みんな、女の子?」と間抜けた質問をしたら、「中に入ってごらん」と言う。で、ぶらぶら歩いていると、下の写真のような石碑に遭遇した。片端の切れたみっともない写真だけど、「正しく 強く 淑やかに」と読み取れる。その回りは「おかっぱ」をかたどっていることも、はっきりと分かる。

えっ、こんなものいつ作ったの? もう一度、守衛のおじさんに聞くと、この学校はすでに創立113年になるとか。日本の統治が始まってまもなくにできたのだ。つまり、大日本帝国の「教育方針」が壊されもせずに、まだ校庭に残っている。しかも、すぐそばには「光復楼」と名づけた建物がある。台湾が日本の敗戦で植民地から解放されたことを記念する建物なのだ。もし、生徒が通り掛かったら「どう思う?」と聞いてみたかったが、誰も来てくれなかった。

まあ、そういうわけで、ここは「異国」をそれほどには感じない、実に「こころやすい」街である。のんびりと暮らしている。市郊外にある小高い山にロープウエイで登った時、一緒になった中国人の若者たちが「台湾は日本と似ているなあ」とつぶやいていた。彼らが「異国」を感じているみたいだった。