船旅の思い出

スェーデンの環境活動家、16歳のグレタ・トゥンベリさんが9月の国連本部での気候サミットに出席するため、温室効果ガスを出さないソーラーパネル付きのヨットに乗って8月28日、欧州から米国に到着した。ガス排出量の多い飛行機を避けての大西洋横断だった。

うーむ、僕と似たところがあるなあ。勝手にそう思い入れしながら、同時に、僕のこれまでの海外への船旅を振り返ってみたくなった。

僕が初めて船で外国へ行ったのは今から30年ほど前、まだ新聞社にいたころで、確か1987年か88年、40歳代の後半だった。一度、中国へ行ってみたいなあ、でも、飛行機は落ちそうで怖い。そう思って探していたら、日本と上海を往復しているフェリーが見つかったので、さっそく夏休みに乗ってみた。ただし、当時は温室効果ガスなんて話は聞いたことがなかった。

上海では数日、街中のジョギングで時間をつぶし、また船で戻ってきたのだが、これがきっかけで、船旅が好きになってしまった。上海への行き帰り、それぞれ2泊3日の乗船中、「日常」から離れて、何もしなくてよかった。終日、寝転がっていてもいい。満天の星空を見られた。自動販売機のビールは免税である。そんなことも気に入った。

89年の夏には、船会社にいた友人に頼み込んで、米国―日本―東南アジアを6週間かけて回っているコンテナ船に乗せてもらった。ただし、そんなに長く休みは取れないから、乗ったのは東京―名古屋―神戸―台湾・高雄―香港―シンガポールの10日間だけ。シンガポールからは仕方なく飛行機で日本に戻ってきた。

この船はパナマ籍で、乗組員は船長、機関長ら5人が日本人、17人がフィリピン人という「混乗船」。3食はフィリピン人のコックが刺し身、すし、天ぷらソバなどの和食を作ってくれた。彼らからタガログ語を習ったり、夕方に着いて朝出港の高雄では朝まで屋台で飲んだりした。香港では港外に停泊して一夜を過ごしたが、船から見る香港の夜景は圧巻だった。

フィリピン沖を進んでいるとき、船長が「今夜は海賊船が現れるかもしれません。戸締りを厳重にし、全速力で走ります」と言ってきた。僕は不謹慎にも、新聞記者として「海賊船」を見たかったのだが、幸か不幸か、彼らは現れなかった。

僕にとっては、この乗船は「休暇」つまり「遊び」なのだが、船会社がそんな男を乗せてくれるわけがない。そこで、建前は「取材」ということにし、事実、あとでかなり長い同乗記を新聞に書いた。遊びと仕事をごっちゃにした船旅だった。

これに味を占めて翌年夏には、まず米国・シアトルに飛んで、今度はシアトル―カナダ・バンクーバー―東京のコンテナ船に乗せてもらった。こちらは日本籍の船で、乗組員17人は全員が日本人。10日間の旅だったが、毎晩7時には、船内の時計がいっせいに逆戻りして6時になる。時差調整のためで、1日が25時間、得したような気になった。逆に米国に向かうときは、毎日1時間ずつ時計を進め、1日が23時間、夜は寝つけなくて困るそうだ。

船が走る北太平洋の夏の海は、穏やかとはいえ、波がやや高い。気分は悪くはないのだが、少し船酔い気味になって、すぐ眠くなる。おかげで朝食、昼寝、昼食、昼寝、夕食……の毎日だった。もちろん、あとで新聞に同乗記を書いた。

この2年後だったか、韓国に旅行したときは、行きは一昼夜をかけて下関―釜山のフェリーに乗った。帰りは釜山―博多の高速船を利用し、3時間ほどだった。

それから後、中国との付き合いが増えてからは、上海―日本のフェリーをよく使うようになった。いま新鑑真と蘇州号という2つの船があり、ともに総トン数1万4千トン台。新鑑真は週ごと、つまり便ごとに大阪か神戸を発着、蘇州号は毎週、大阪を発着している。

今年1月にも中国からの帰途、上海から大阪まで蘇州号を使った。料金は僕がいつも利用する2等の大部屋が片道2万円、往復3万円と、飛行機よりもずっと安く、無料の朝食が付いている。昼食と夕食は有料だが、もちろん食べるか食べないかは自由である。

ところで、日本から外国に行く客船は、ほかにもないかなあと調べてみるのだが、行く先は今のところ上海と釜山のほかはロシア・ウラジオストクくらいしか見当たらない。もちろん、豪華客船のクルーズを利用する手もある。僕も一度、国内で2泊3日だけ乗ってみたことがあるが、どうも豪華すぎて性に合わない。
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そして当面、一番訪れてみたいのは「氷川丸」だ。戦前戦後、横浜―シアトルの北米航路で貨客船として活躍し、1960(昭和35)年に引退した後は、横浜・山下公園の桟橋に錨を下ろしている(上の写真)。これまでにも2度、3度と行っているが、最近リニューアルオープンしたので、近々もう一度、タラップを上がろうと思っている。