「ただ酒」考

「ただ酒」にからむニュースが新聞やテレビをにぎわせている。これまでのところ、主役は総務省の官僚たちで、かなり高そうな店で、「利害関係者」にご馳走になっている。なかでも、元総務官僚の内閣広報官が役所時代、1人で1回7万円超もの接待を受けた話は世間を驚かせた。この人は体調不良を理由に辞職したが、ご馳走に加えて、帰りに土産やタクシー券をもらうのも普通のようである。

そんなことを知って、もう40年ほど前の古い話(以前、どこかにちらりと書いたかもしれないのだけど)を思い出した。当時、僕は新聞社の経済記者だった。夜、割合に早めに仕事を切り上げて、東京・銀座から地下鉄に乗ったら、某中央官庁に勤めている高校時代の先輩に出くわした。いわゆるキャリアの官僚で、エリートの1人である。「久しぶりですね。軽くどうですか」と僕が誘い、池袋の居酒屋に入った。

1時間ほど飲んでの帰り際、僕が勘定を済ませた。そして、店を出ると、先輩が小声で「おい、俺も半分、払わないといけないのかい?」とつぶやく。「いいですよ、僕が誘ったのだから、僕が払うのが当然ですよ」と答えたが、先輩の言い方にちょっと興味をそそられ、歩きながら話を続けた。気安い後輩相手だからだろう、先輩は正直に話してくれたようだ。

「ふだん飲む時はどんな具合なんですか?」
「うん、業者が今度いかがですか、と言って寄ってくるわな。そしたら、まあ、あまり気乗りしないふりをして、接待にあずかるという感じだな」
「自分ではまったくカネを払わないんですか」
「割り勘で飲むくらいなら、家に帰って寝ていたほうがいいな」

最近の報道では、接待を受けた官僚たちが「会費」として5千円とか1万円を相手先に渡したという話も、ときどき出てくる。でも、こうした会食で実際に掛かる費用は1人3万円、4万円、5万円……とか。5千円や1万円を払ったところで、「割り勘」だったとは、とても言えない。やはり古い話を思い出した。

経済記者としていろんな企業を回っていると、企業のトップから「一緒にゴルフをしましょう」なんてお誘いが時折、記者クラブあてに舞い込んでくる。僕はゴルフをしたことがなかったので、そんなお誘いには乗れなかったのだけど、ゴルフに付き合う各社の記者を見ていると、「会費」として何千円かを払っている。でも、企業のお招きでゴルフに行って、費用がその程度で済むわけがない。ゴルフ代、飲食代その他を考えると、その何倍も掛かっているはずだ。これじゃ、ただ酒を飲んでいるのと大きな違いはない。

実は僕もゴルフを始めたかった。ゴルフを通じて取材先と親しくなっておけば、何かと役に立つだろう。だけど、さっきのようなことを考えると、二の足を踏む。また、ゴルフをやれることが取材先に分かれば、お誘いを断りにくくもなる。そんなことを考えて、記者時代ゴルフとは無縁で過ごした。学生時代の友人たちは今、誘い合ってゴルフを楽しんでいるようだが、今さら始める気にもならない。ゴルフに関しては、僕はずっと「蚊帳の外」である。このように書いてくると、いかにも僕はただ酒は一切お断りで過ごしてきたみたいだけど、そういうわけでもない。

話は少し変わるが、日本共産党は最近の国会で、内閣官房機密費のうち、官房長官が自由に使え、領収書も何も要らない、したがって使い道も全く分からない「政策推進費」を問題にしている。菅義偉首相は2822日間の官房長官在任中、総額86億8000万円、1日当たり平均307万円を使ってきた。このような高額な使途不明金の支出を許しておいていいのか、というのが共産党の主張である。

共産党の言い分はもっともだが、それはそれとして、この話は僕にもっと古い話を思い出させた。僕は経済記者が長かったのだが、20歳代の終わりには一時期、政治記者もやり、首相官邸記者クラブに詰めていた。ある時、確か忘年会だったと思うが、官房長官が各社の記者を招いた宴席があった。高級料亭の広い座敷には、芸妓(芸者)さんが10人はいただろうか。酒食を一応、終えてからは、僕の人生で初めて、芸妓さんとの「お座敷遊び」に、手取り足取りされながら、興じたものだった。

完全なただ酒である。あのカネはどこから出ていたのだろうか。官房長官が自腹を切るなんてことは考えられない。内閣官房の機密費、うち官房長官が自由に使える「政策推進費」から出ていたのではないか。当時、このただ酒に罪悪感は感じなかったと思うが、50年以上たっても思い出すのは、いささかの良心の呵責があったのかもしれない。

「ただ酒を飲むな」の言い出しっぺは京都大学総長を務めた滝川幸辰氏(1891~1962)だろう。彼は1954年3月、卒業式での告示で、自主性を持て、信念を持て、出世主義者となるな、と述べた後、「第四として最後に」として、次のように話している。

「私は諸君に対して、他人からただの酒をご馳走になることを、自ら戒めることを希望します。今、政治家の間で疑獄事件が起こっていることは、諸君もご承知のことと思いますが、疑獄事件の原因は、すべてただの酒をご馳走になる習慣から起こるといってよろしい。酒の好きな人が酒を飲むのはよろしい。しかしそれは、自分の銭で飲むことが絶対の条件であります」

滝川氏の言う疑獄事件とは当時、「計画造船」をめぐり政官財界を巻き込んで起きた贈収賄事件のことだ 。僕が新聞で滝川氏の「ただ酒を飲むな」を読んだ時は中学生で、「大学の総長もつまらないことを言うもんだな」と思った。これが「名言」「箴言」であることに気付くまでには、まだ年数が必要だった。そして、滝川氏の言葉からすでに60年余になるが、「ただ酒」が続く限り、この言葉はまだまだ名言、箴言であり続けそうである。