歯なしにならない話

わが埼玉県と県歯科医師会から大判の封筒が届いた。同封のパンフレットには「健口長寿で目指そう健康長寿!」との駄洒落のような文句に続いて「8020」という数字が大きく書かれている。8020とは「80歳の時に20本以上の歯を保とう」という運動で、これだけの歯が残っていれば、食生活にほぼ満足できるうえ、様々な病気の予防にも役立つとのこと。20年ほど前からこの運動が始まっている。

そして、この4月1日現在で75歳または80歳の高齢者は1回限り、県内の歯科医院で無料受診できるので、この機会にぜひ……とのお勧めだ。これが県と県歯科医師会からの手紙の趣旨で、悪いことではないものの、まあ今の僕には無縁の話。というのは、かつては「健口」では劣等生だった僕も今では、かかりつけの歯科医師に褒められるほどだからだ。で、ちょっと自慢してみたくなった。

僕は50歳になるまで、自分の歯のことにはあまり関心がなかった。と言っても、それまで歯の状態が完全だったわけではない。子供のころはかなり虫歯が多く、治療もした。しかし、それほど困ることはなかった。ところが、50歳のころ、奥歯が痛みだしたので、当時勤めていた朝日新聞社の診療所の歯科医のところに行ってみた。すると、医師がこともなげに言うには、「歯周病がひどくて、とりあえず奥歯2本は抜くしかありません。1週間後に来てください、抜きますから」。

僕は死刑を宣告されたような衝撃を受けた。自分の歯が1本でも2本でもなくなるなんて、想像もしたことがなかった。医師には「もう、ここには来ません」と、捨て台詞を吐いて、診療所を後にした。それから、ふらふらと書店に入り、医療関係の本棚の前をうろうろしていた。なんとか歯を抜かないで済む「救いの神」がいないだろうか。まさに、藁にもすがるような心境だった。

すると、『歯なしにならない話』という、これも駄洒落のような名前の本が目についた。手に取って著者名を見ると、なんと同じ朝日新聞社にいる数年先輩の科学部記者である。僕は当時、経済部にいて部署は違うのだが、ちょっとした縁で彼とは付き合いがある。すぐに電話して「歯を抜かないで治療してくれる歯科医院を教えてほしい」と頼んだ。彼は即座に東京・神田にあるK歯科医院の名前を挙げた。

K歯科医院に行き、事情を話して診察を受けた。K院長がおっしゃるには、「歯を抜くという判断が間違っているとは決して言えません。しかし、私は出来るだけ抜かなくても済むように努力してみます」。どうやら歯科医には、抜きたがる人と、抜かないで頑張る人とがいるみたいだ。素人の考えだが、歯科医としては、抜いたらそこで一件落着する。そのほうが楽ではないだろうか。

K院長との付き合いは以後、30年に及ぶ。家では歯と歯茎のブラッシングにできるだけ励む一方、原則3カ月に1度、診察に通っている。そのおかげだろう、かつて1週間後の「死刑宣告」を受けた奥歯だけど、30年後もちゃんと機能している。

僕の奥歯が昔くたばりかけた原因のひとつは「歯ぎしり」にもあるようだ。自分では気づかないのだけど、夜寝ている時に結構しているみたいだ。かつて夜行の寝台列車に乗って朝、目覚めたら、近くの乗客が「歯ぎしりが気になって、よく眠れなかった」とぼやいていた。多分、歯ぎしりとは僕のことだろう。
f:id:nan-no:20210625123024j:plain
その歯ぎしりを和らげるために、K院長のところに通い出して以来、夜はプラスチック製の「歯型」のようなのもの(上の写真)を上下の歯に着けて寝ている。何カ月か着けていると、穴が空いてきて作り替えたりする。かなり役立っているようである。

ところで、8020のことだけど、僕は数年前まで、親知らずを除いた28本の永久歯が一応全部そろっていた。ところが、ある日、下の犬歯がポロリと抜けてしまった。その歯の中を見ると、がらんどうに近い。詳しくは覚えていないが、10歳代か20歳代の頃、こいつはもう駄目だというので、上から被せもので応急処置をしておいた歯のようだ。それにしては、長くもってくれたものである。

というわけで、今は残念ながら「8027」だが、生きている限り「9027」「10027」でいきたいと思っている。