夏目漱石、向田邦子に見る「女性差別用語」

朝日新聞の「嫁、主人、家はいま」という特集面を眺めていたら、「『お嬢さん頂く』に母が激怒」という50歳代の女性の投書が載っていた。なんでも、かつて彼女が結婚する時、相手側の親族の女性から「立派に育てて頂き、素晴らしいお嬢さんを頂いて」と感謝された。これを聞いて、彼女の母は「あげるために育てていない、物ではない、まるで猫や犬に向ける言葉だ」と悔しがり悲しみ、怒っていたそうだ。

そうだよなあ、と同感する一方、昔は、例えば明治の頃は、もっとひどかったはずだ――そう思いながら、最近、読み返した夏目漱石(1867~1916)の『それから』や『こゝろ』に出ていた表現を思い出し、もう一度、繰ってみた。

すると『それから』では、(以下、表現をやや現代風にすると)主人公が兄から、父が推す結婚相手について「いったいどうなんだ、あの女を貰う気はないのか。いいじゃないか、貰ったって」と責められている。兄嫁からも「あなただって、いつか一度は奥さんを貰うつもりなんでしょう」「奥さんというものは、初めから気に入らないものと、諦めて貰うよりほかに仕方がないじゃありませんか」と、同じように結婚を迫られている。

いずれにしろ、ここでは、さっき出てきた「頂く」というような丁寧な言葉は使われていない。もっぱら、犬、猫と同じ「貰う」である。

こゝろ』では、主人公が下宿先の奥さんに「お嬢さんを私に下さい」「私の妻としてぜひ下さい」と迫る場面がある。奥さんは「よござんす、差し上げましょう」「どうぞ貰って下さい。父親のない哀れな子です」と承諾する。「貰う」という言葉もさることながら、肝心の「お嬢さん」の意向などはまったく問題にされていない。まさに犬、猫並みである。

夏目漱石の作品には「嫁く」という言葉も出てきて、「かたづく」と読ませている。手元の辞書(岩波国語辞典)によると、「嫁く」はもともと漢字では「片付く」と書く。意味はまず「①散らかっている物を始末して、整頓した状態になる。②解決すべき物事に結末がつく。③(俗)邪魔者が除かれる(殺される)」とした後、「④嫁に行く。多く、親の立場から言う。『嫁く』とも書く」とある。まあ、犬、猫よりもまだ下、ゴミ扱いである。

明治の男とはおさらばして、次は昭和の女、向田邦子(1929~1981)である。台湾上空での飛行機事故で、51歳で亡くなったが、去年出た『向田邦子 ベスト・エッセイ』がよく売れているそうだ。彼女が書いたエッセイから50編を選んでいる。

さっそく取り寄せて読んでいると、病気で入院の母親を見舞ったくだりで、「この日は、よそにかたづいている妹もまじえて姉弟4人の顔が揃ったのだが、……」とある。平仮名で「かたづいて」とあるが、漢字では「嫁いて」だろう。

さらに、読み進むと、「私は、テレビの脚本を書いて身すぎ世すぎをしている売れ残りの女の子(?)でありますが、……」というのが出てくる。ほかにも「売れ残りの女の子、つまり私が……」とか「会社の嫁き遅れのOL」という表現もある。「嫁き遅れ」は「ゆきおくれ」と読ませている。確かに、彼女は生涯、結婚していなかったようだが、聡明な人だと思っていたのに、「嫁いて」にしろ、「売れ残り」にしろ、なんでこんな言い方をするの? ちょっとショックだった。

「売れ残り」という言葉から、以前、中国で日本語を教えていた頃のことを思い出した。30歳くらいの女性の生徒がちょっとはにかみながら「私達は『剰女』です」と言うのだ。「剰女」とは「余り物の女」つまり「売れ残りの女」だろう。日本でも中国でも似たようなことを言うなあ、と思ったのだが、今もそういう表現をするのだろうか? 中国の知人に尋ねてみたら、「あれはもう死語になっているはずです」と言う。

えっ、中国は進んでいるんだ。日本も見習わなきゃ、と思ってさらに聞くと、少し事情が違った。なんでも中国では最近、結婚しない男女が増え、「不婚族」と呼ばれているそうだ。したがって、「剰女」は自然と死語に……ということだった。

わが国でも、結婚しない若者が増えていけば、「頂く」「貰う」「嫁く」「売れ残り」といった女性差別用語も自然に消えていくかもしれない。