「正しい歩き方」に苦慮しています

僕は長年、靴下はもっぱら5本指のものを履いている。5本指は「おじさん臭い」と敬遠する若者もいるようだけど、靴下の中で5本の指が触れ合ったりしないので、汗ばむこともない。快適である。

それはそれで結構なのだが、1足数百円の、時には100円ショップで買ってきた安物を履いているせいだろうか、指先によく穴が開く。それも右足の第2趾と第3趾、手の指で言えば、人差し指と中指(以後、この言い方を使う)のところがよく破れる。親指とその他の指のところは何ともない。一方、左足はどこも穴が開くなんてことはない。

右足の靴下は履けなくなったのに、左足のほうはまだまだ履ける。もったいないなあ。安物買いの銭失いだ。次はもうちょっと上等の奴を買ってこよう。靴下の穴を針と糸で繕いながら、僕はこれまで能天気にそう思っていた。

しかし、ちょっと考えてみれば、いつも同じところが破れるなんて、どこかおかしい。何か原因があるはずだ。同じところでも、歩行の時に力を入れるはずの親指のところなら、まだ話は分かる。ところが、破れるのは、右足の人差し指と中指という、歩行には割合に関係が薄そうなところだ。どうやら、歩き方に問題があるのではないか? 

そこで、家人に「僕の歩き方はどう?」と尋ねてみた。すると、「右足に変に力を入れているみたいで……なんか、すっきりしない歩き方……」と、口ごもりながら言う。

分かった。僕もそれほど鈍くはない。探求心が湧いてきた。いつか買ってきて本棚に突っ込んでいた「新しい『足』のトリセツ」という本を取り出した。著者は「日本で唯一の『足』の総合病院 下北沢病院医師団」とある。その「外反母趾」のところを読んで、「ああ、そうだったのか」と、膝を打った。外反母趾とは、親指が外側に、つまり小指のほうに曲がり、付け根のほうが逆に内側に出っ張ることだ。加齢や身体機能の衰えなどが原因だそうだが、僕はいつの頃からか、右も左も外反母趾である。そのせいで不自由を感じることもないので、放っておいたのだけど、これが歩き方に影響しているようなのだ。

この本によると、歩行時に地面をしっかり押して蹴り出すのが親指の役目である。ところが、外反母趾になると、それが難しくなり、人差し指や中指が蹴り出しの役目を負うようになる。つまり、タコなども親指ではなく、人差し指や中指にできやすくなる。靴下が破れるところが親指ではなく、人差し指や中指なのもそのせいなのだ。例えれば、親が子供の養育をさぼり、子供に養ってもらっているようなものである。「外反母趾が重症化すればするほど、親指は『歩行』という重要な役割から外れていきます。外反母趾は歩行バランスを崩し、歩行速度を低下させるというデータもあります」とのことだ。

思うに、同じく外反母趾でも左足の靴下が全く破れないのは、左足が正しい歩き方をしているからではない。家人が言う「変に右足に力を入れて」の結果、ただ右足に引きずられて左足が前に出ているからではないのか? 僕も高校生の頃には友人から「お前は歩き方がきれいだな」と言われたことがある。50歳代で新聞社からテレビ局に出向していた頃にも、女性社員から「歩く時の姿勢がいいです」と褒められた。それが今や、結構みっともない歩き方をしているようだ。

一昨年、脊柱管狭窄症の手術を終えてから、このブログでは「速歩きを目指して奮闘中」とか「歩きから走りも奮闘中」「階段上りにも奮闘中」と、いくらかは勇ましいことを書いてきたが、それが根底から崩れるような事態である。

この本には「歩く時は、かかとの少し外側から着地し、親指の付け根で地面を蹴っていく」のが正しい歩き方だと書いてある。なるほど。僕も散歩する時には、それを実行し始めた。でも、外反母趾というのは、困ったものである。親指の付け根で地面を蹴ろうとしても、つい人差し指、中指で地面を蹴ってしまう。そこを無理して「親指」「親指」と唱えながら歩くようにしている。

努力の結果、靴下の人差し指と中指ではなく、親指、それも左右の親指のところに平等に穴が開く日が来てくれないだろうか。目下のところの「夢」である。