外国人が驚く「勘定は別々に」

ポルトガルからの女性の留学生がラジオで話していた。「日本に来てまもない頃、大学のサークル仲間の数人と初めて食事に行きました。話が弾んで、ああ、これからこの人たちと一緒に過ごせるんだ、と嬉しくなりました。ところが、勘定の時になってびっくりし、がっかりしました。日本人はどうしてこんなに冷たいんだろうかって」。

どういうことかと言うと、「みんな自分の食べた分、飲んだ分だけを別々に払うんです。これじゃ、一緒に食事した意味がありません。どうして割り勘にしないのでしょうか」。おおむねそんな内容だった。

ふと、現役の新聞記者だった頃のことを思い出した。仕事がらみで僕より20歳ほど年長の旧海軍の情報将校と付き合っていた。時々、一緒に食事した。食事代は彼の希望で割り勘にしていたが、気の引けることがあった。僕は酒を飲みながら食事するのだが、彼は全く酒を飲まない。お茶だけである。割り勘にすると、明らかに僕の「割り勘勝ち」になる。そこで、ある日、彼に提案した。「僕に少し余分に払わせて下さい」。

彼の表情が厳しくなった。「私は酒を飲みませんが、お茶を飲みながら、あなたと同じように食事と会話を楽しんでいます。当然、割り勘にするべきです。それが我が海軍の伝統です。もし、あなたが余分に払うと言うのであれば、今後あなたとのお付き合いはお断りします」。僕は頭を下げるしかなかった。

この記事の見出しに「外国人が驚く・・・」と書いたけど、すべての外国人がそうであるかはいささか自信がない。ただ、中国でよく使われている日本語の教科書に『みんなの日本語』(スリーエーネットワーク)というのがある。その初級Iの会話のところに、勘定は「別々にお願いします」とのページが設けられている。上の写真がそれで、昼食にそれぞれ980円のてんぷら定食と700円の天どんを食べた2人が、自分が食べた分だけ別々にカネを払う場面だ。思うに、外国人同士ではこのようなことは珍しいので、日本人と付き合って驚かないようにと、こんな会話が登場したのではないだろうか。

中国では、例えば仲間3〜4人で食事した時、うち1人がみんなに奢る。わざわざ「今日は私が」なぞとは言わず、さっと勘定を済ませてしまう。次に食事した時には、別の1人が奢る。次には、また別の1人が・・・という具合に順番に勘定を払っていく。暗黙の了解で成り立っていて、それが伝統的なやり方である。ずるく奢られてばかりだと、やがて仲間に入れてもらえなくなる。

近年は中国でも、主に若い人たちの間では割り勘も増えてきて「AA制」という言葉ができている。確かに、大人数の食事だと、AA制が妥当かも知れない。だが、仲間同士の数人の食事では「奢ったり奢られたり」が楽しいと言う人の方が多いようだ。僕も中国人と付き合う時は、もっぱらそれでやってきた。「勘定は別々に」なんてのは、全く見聞きしたことがない。

さらに言うと、中国でも台湾でも、遠方から誰かが訪ねて来た折には、地元の人がまずご馳走するのが普通のやり方だ。昨年12月に台湾に行く際、日本にいる教え子の中国人女性が「知り合いが誰もいなくては不安でしょう」と、自分の知人で台北在住の会社社長を紹介してくれた。

60歳代の男性で、台北に着いて電話すると、「じゃあ、食事しましょう」と、車で迎えに来て、随分と高そうなレストランでご馳走になった。携帯電話を買うのにも付き合ってくれ、初対面とは思えない歓待を受けた。今度、日本で彼と会った時には、僕がご馳走する番になる。言うまでもないことだ。

日本でかなり長く働いている中国人女性に「勘定は別々に」をどう思うか、と尋ねてみた。すると、「きちんとした『勘定は別々に』なら賛成ですが、私の職場ではそうではないんです」と言う。

例えば、上司の日本人男性2人と昼食に行く。上司2人はそれぞれ1,200円、1,100円のランチを食べる。彼女は節約して800円で我慢する。食事が終わると、上司たちはそれぞれ1,000円札を1枚ずつ置いて「あとはよろしくね」と言って出て行ってしまう。残された彼女は不足分を補わなければならない。800円のはずが1,100円のランチに化けてしまう。また、別の男性上司と寿司屋に行った折には、勘定は8,000円もしたのに、彼は3,000円だけ出して、やはり「あとはよろしく」だった。

なんか、いじめのような感じもするけど、「勘定は別々に」や「割り勘」の「変形」とでも呼べばいいのだろうか。こういう払い方もあることを、外国人向けの日本語の教科書に書いておく必要があるのかも知れない。