断捨離か 捨てない生活か

筋書きは完全に忘れてしまったが、昔々のアメリカ映画の一場面が僕の脳裏を去らない。とある田舎町で一緒に暮らしていた男女の別れの場面だ。女性はスーツケースひとつに身の回りの物を詰め、家を出ていく。バス停にでも向かうのだろうか。一度も後ろを振り返らないまま、女性の姿がだんだんと小さくなっていく――かっこいいなあ。スーツケースひとつで(あとリュックサックひとつぐらいはあってもいいけど)住まいを変えられる身軽な暮らしがしてみたい。当時、そう思ったし、今もあこがれている。

だが、今の僕の暮らしは全く反対である。足の踏み場もないほどではないけれど、家中に物・ガラクタがあふれている。土蔵が欲しくなるくらいだ。それこそ、もし何かの事情で、家を空っぽにして引っ越しなんてことになったら、大変な騒ぎになる。最近、流行している「断捨離」という言葉に魅力を感じてしまう。ヨガから来た言葉で、不要なものを「断ち」「捨て」、物への執着から「離れる」ことだそうだ。

それを何年か前に大掛かりに実践したのが俳優の高橋英樹さんだ。テレビ朝日系の「徹子の部屋」で「徹底して片づけました。何もなくなりました。テレビも冷蔵庫もすべて片づけました」と話している。その極意は「見ないで捨てる」ことで、業者には「すみません、この部屋、全部、持ってって」というふうに頼み、断捨離した物の総重量は33トンとか。さすがに生活が不便になったので、テレビや冷蔵庫はあとすぐに買ったという。

この徹底的な断捨離のきっかけは、同居している娘さんの言葉だった。足の踏み場もないほど物が増えていることに対し「パパやママにとっては、ほんとに大事な物かもしれないし、思い出深い物かもしれないけれども、私にとってはゴミだから」と言われたそうだ。

うーむ、我が家とはやや事情が違う。我が子供たち3人が進学、就職、結婚で家を出て行ってから、すでに20年や30年は経つが、いまだに連中の荷物が「実家」に残っている。勉強机のひとつは僕が使っているが、書籍は結構こむずかしそうな本からマンガ全集まで、それに卓上型のパソコン、趣味で集めた切手類、ウルトラマンの人形たち……勝手に捨てるわけにはいかない。

ただし、わが家で最も多い物・ガラクタは現在の住人のものである。僕個人のものだけでも、赤ん坊の時の写真や亡き母が書いた育児日記、小中高そして大学時代の写真、新聞記者1年生の時に書いた記事の数々、その後、40年近い記者生活での活躍!?ぶりをしのべる記録の数々、新聞社を定年退職後にいた中国の大学をやめる時、学生たちが贈ってくれた写真集……今きっぱりと捨てる気にはならない。でも、これらを残したまま死んでしまったら、残された子供たちが苦労するだろう。何年も着ていない衣類もいっぱいある。迷惑はかけたくない。出来る限り整理しておきたい。

そんなことをこの正月、娘と話していたら、ちょっと意外な答えが返ってきた。「大丈夫よ。私があとでゆっくりと整理してあげるから。どうぞ思い出深い物に囲まれて長生きしてください」。やや気が楽になった。

そうこうしているうちに、五木寛之さんの『捨てない生きかた』という本が出た。本屋に行くと、売れ行きは「新書」のベストテンに入っている。表紙には「捨てなくていい――何年も着ていない服、古い靴や鞄、本、小物…愛着ある『ガラクタ』は人生の宝物」とあり、本文には「シンプルライフにひそむ空虚さ」「モノに囲まれる生活が孤独を癒す」「ガラクタは孤独な私たちの友」などと続く。「人生百年時代はガラクタとともに生きる」という「捨てない生活」が五木さんの主張である。

ご丁寧にも「ぼくのガラクタたち」と称して、「一度も着たことがないイタリア・ミッソーニのシャツ」「1982年に取得した血液型検査成績」「イランの古道具屋で買ったペルシャのカルタ」とかの写真が、文中のところどころに載せてある。

うーむ、五木さんのおっしゃることも、もっともかもね。いま「断捨離」か「捨てない生活」かで、僕の心は揺れている。