「1000円カット」を求めて

明けましておめでとうございます
月並みな表現ながら 本年も何とぞよろしくお願い申し上げます

新年早々、けち臭い話で恐縮ですが、皆さんは散髪代に1回、どれくらい使っていらっしゃいますか。僕の30日か40日に1回の散髪代は、このところずっと1000円ぽっきりです。1200円、1300円の散髪屋にはめったに行きません。

話を昔に戻すと、もう30年以上も前、僕が東京・築地の新聞社から六本木のテレビ局に出向していた頃は、いつも勤め先の近くで散髪していたが、料金は3800円だった。最近、僕が通っている「カットのみ」の店とは違って、顔を剃り、頭を洗いといった普通の散髪屋だった。この「3800円」という料金をなぜかよく覚えている。さらに言うと、築地の新聞社に戻れば、社内に散髪屋があり、料金は2100円。かなりの節約になるのだけど、ついでの折に、たまに行くだけだった。当時は結構高給取り(?)だったので、六本木の3800円をそれほど高いとは思わなかった。

だけど、年金生活者の今となっては、そうは言っておれない。顔を剃ったり、頭を洗ったりは、自分でできる。散髪屋ではカットだけで十分だ。で、もっぱら1000円カットの散髪屋に長く通ってきたのだが、最近は「1000円カット」とは名のみで、わが家の近くの店では1200円、1300円へと値上がりしてきた。それはそれで仕方がないのだけど、僕としては正味の1000円カットがありがたい。

そこで、近所をうろうろしていたら、いつだったか、新しくできたスーパーマーケットの裏通り、それまではあまり人通りもなかったところに、正真正銘の1000円カットの店を見つけた。入ってみたら、あるじの腕前は悪くないようだ。ところが、店には欠点もある。このあるじはどこかの職業学校で講師もしているとかで、授業があればそれを優先してしまう。そのため、平日に行くと、店が閉まっていることがよくある。土日に行くと、開いている確率が高い。そんな不便もあるが、1000円には代えられない。このところはもっぱら、ここに通っている。15分かそこらで済むのもありがたい。3人、4人と、先客がいても、暇人の僕にはどうってことはない。

最近、もう1軒、近くに1000円カットの店を見つけた。初回は1200円なのだが、次に2カ月以内に行けば、65歳以上のシニアは1000円にするとのこと。今の行きつけの店に何かあったら、次はここに通おうと思っている。

話は変わるが、新聞に毎日載っている「首相動静」を眺めていると、岸田文雄首相は月に2回は散髪に通っていらっしゃるようだ。12月も10日と23日の土曜日、ともに東京・鍛治町の「ヘアモードキクチ 神田日銀通り店」で散髪している。どんな店なのか、お値段は? ネットで調べてみたら、一番人気は「アイブロウカットコース+頭皮クレンジング」なるもので、料金は7700円。もっと高いコースも安いのもある。

先日「サラリーマンの街」とも言われる東京・新橋で見た理髪店の料金表には、一番安いカットコースが5500円とあった。岸田首相が通っている理髪店も特に高い店ではないようだ。そして、新橋の店で料金表をじっと眺めていたら、店の人から「いらっしゃいませ」と声を掛けられ、「1000円カット」の僕はどぎまぎしてしまった。

ところで、岸田首相は理髪店で実際にどのくらい払っているのか、ケチな僕としては気になる。で、これもネットで検索してみたら、以前に通っていた別の店では「1万890円(税込み)」を払ったとの記事を見つけた。新聞の「首相動静」を見る限り、岸田首相の理髪店での滞在時間はゆうに1時間を超えている。この数字は信憑性があるようだ。とすると、彼の1カ月の散髪代は2万2000円ほど。なんと僕の2年分の散髪代に相当する。

僕はそれ自体に文句を言うつもりはない。いわゆる「裏金」ではなく、自分のカネで払っているのなら、全くおかしくはない。ただ、最近の朝日新聞に「非常時もきのう鉄板きょう四川」という読者の川柳が載っていた。日頃、高そうな料理店を巡っている岸田首相を皮肉ったものだ。岸田サンはそう悪い人には見えない。でも、物価高に苦しんでいるかなりの国民に対する心配りに欠けている。散髪にろくに行けない人もいるだろう。そんな世の中で、この御仁は能天気だなあ。「1000円カット」一途の僕はそう感じるのである。

階段は親の仇か!?

映画「こんにちは、母さん」を見ていたら、主演の吉永小百合の住まいにやってきた孫娘が2階まで階段を上る時、トントントンと駆け上っていく。渥美清の映画「男はつらいよ」の何作目かをテレビで眺めていたら、東京・柴又の寅さんの「おいちゃん」の家で、やはり誰かが2階まで駆け上っていく。そうなんだ、1階から2階くらいまでは駆け上るのが普通なんだ。老人つまり僕は今さらながら、何でもないことに感心してしまった。

わが家は1階から2階まで14段、しかも途中に踊り場まであるのに、僕は2階の自分の部屋に行く時、もちろん駆け上ったりはしない。1段、1段、踏みしめるようにして、ゆっくり上っていく。さすがに、まだ手すりは設けてないけど、つかまるところがあれば、それにつかまって、安全を確保している。

駅の階段を2段ずつ駆け上っていく若者もちょくちょく見かける。そう言えば……と昔々のことを思い出した。23歳の時、大学を出て新聞社に入り、九州の佐賀支局に配属された。最初は警察担当で、県警本部の中をネタを求めてぐるぐる回っていた。県警本部は4階建てで、エレベーターなぞはない。その2階、3階、4階に行く時には、階段をいつも2段ずつ駆け上っていた。快適だった。疲れなんて全く感じなかった。

今は、駅の階段は原則、歩いて上ることにしているのだが、きつく感じることもよくある。50段、60段を上ると、しばらく休息を強いられる。

どうも最近は、この種の情けない話をよく書いてきたみたいだが、もうちょっと景気のいい奴はなかっただろうか。そうだ、「趣味はマンションの階段上り」といった話を書いた記憶もあるぞ。古い記事を探っていくとちょうど10年前、2013年にそれはあった。中国南方の南寧に住んでいたころのことだ。

読んでみると、僕が住んでいたアパートのそばに30階建てのマンションがあり、上までの階段数は計600段ほど。「一気にはなかなか上れない」けど、「冬でも汗びっしょり、結構な運動になる」ので、ちょくちょく上っていた。あるいは、僕の住むアパートは7階建てに過ぎないが、8回ほど上ったり下りたりすると、「計1000段やそこらにはなる」ので、時にはそれを繰り返していた。

まだあるぞ。コロナ禍の前は台湾にも時々行っていたが、台北の市内、地下鉄の終点近くに「象山」という標高180メートル余りの山がある。頂上まで階段は1000ちょっと。これをゆっくり、ゆっくりだけど、休まないで上り切った。そんな記事をこのブログで書いている。2018年、5年前のことだ。今は「1000段」なんて、とても、とてもといった感じである。「十年ひと昔」ならぬ「五年ひと昔」なのだろうか。

老人にとって階段は、上るのも一苦労だが、下るのも注意が必要だ。バランスを崩して、階段を滑り落ち、骨でも折ったら馬鹿馬鹿しい。僕は駅の階段を下りる時、端の方、つまり手すりのあるそばを選ぶことにしている。もし、つまずきそうになった時、すぐにつかまれるようにするための用心だ。

テレビのニュース番組を見ていると、各国の要人が飛行機のタラップを下りる光景が時々、出てくる。それらを見ていると、僕よりやや若い81歳の米国大統領バイデン氏の足元はちょっと心もとない。記者会見の際には、若さを強調しようとしてか、軽く走る格好をしてマイクの前に立つこともあるが、なんか痛々しい。70歳の中国の国家主席習近平氏がタラップを下りる姿も決して感心したものではない。太り過ぎなのか、ヨチヨチしている。

その点、米国の国務長官ブリンケン氏には感心した。トントントンと軽く弾みをつけるように、タラップを駆け下りていくのだ。「お、カッコいいじゃん」と、思わず叫んでしまった。そのブリンケン君は御年61歳だそうだ。

年齢を重ねてくると、「階段」というものが、上るにしろ、下りるにしろ、まるで「親の仇」のように立ちはだかってくる。もう一度、ゆっくりゆっくり、休み休みでいいから、1000段あるいは500段程度の上り下りに挑戦してみようか。それとも、歳を取るのは仕方ないからと、成り行きに任せるか。でも、中国語で言えば「我老了(われ老いたり)」とは言いたくない。僕はいま「岐路」に立っている。

節酒にノンアルコールビールは是か非か

新聞に嫌な記事が載っていた。なんでも、1日にビールで500ミリリットル、日本酒だと1合程度を飲んでいると、大腸がん発症の危険が高まるのだそうだ。厚生労働省が国として初めて「飲酒ガイドライン」を作るとかで、その中にはこうした数字が示されている。

コロナ禍もあって、最近はもっぱら「家飲み」中心の僕だが、夕食の際にはまずビール(正確には値段の安い第3のビール)の500ミリリットル缶を開け、あとはウイスキーオンザロックに切り替えて、寝るまでチビチビやっている。ウイスキーは1000ミリリットルの瓶がだいたい4日程度で空っぽになる。やや多いとは思うけど、二日酔いになることもない。その僕に対して、ビールの500ミリリットル缶ひとつでも危険だと言われると、「証拠を示せ」と叫びたくもなってくる。

思えば、学校を出て新聞社に就職し、定年退職して中国の大学に行き、そして今日に至るまで、酒を飲まなかった日なんて、網膜剥離や脊柱管狭窄症の手術で入院していた期間を除くとほとんど記憶にない。わずかに思い出すのは、入社して間もない九州の佐賀支局でのこと。連日、それこそ浴びるように飲んでいたら、胃の調子が悪くなった。医者に言われて数日、酒を断っていると、やはり飲み助の支局長から「君は偉い」と褒められた。

その何年後だったか、東京の経済部にいた折、大蔵省(現財務省)主催の勉強会が富士山麓のYMCAの寮であり、僕も泊まりがけで出席した。それはそれでいいのだけど、ここにはアルコール類がいっさい置いていなかった。夜、街に出るには遠すぎるし、時間も遅い。朝方までベッドで悶々としていたのを、いまだに覚えている。

結局、学校を出てこれまでの約60年間で、自主的に酒を飲まなかった日は、通算して1週間かそこらだったのではないだろうか。でも、「ビール500ミリリットルで大腸がん」なんて言われると、少し怖くもなってくる。

じゃあ、ちょっと妥協して「休肝日」なるものでも設けてみようか。朝日新聞を眺めていると、「相棒だった酒 今や週6休肝日」という71歳の男性の投書が載っていた。なんでも、肝機能障害の指標となる数値が極端に悪かったので、退職後、週1回の休肝日を設けた。そして3年間、様子を見たが、数値は一向に改善しない。そこで、休肝日を思い切って週6日にしてみると、数値は瞬く間によくなった。今ではそれにすっかり慣れ、週に1回飲む酒がうまいとのことだ。

僕にはそこまでやる勇気はない。でも、そうだ、ノンアルコールビール(以下はノンアルビールと表記)で休肝日というのはどうだろうか。ふと、そう思いついた。年に何回か、一緒に飲むことのある新聞社時代の先輩は何年か前に脳梗塞で倒れ、今はもっぱらノンアルビールを飲んでいる。そして「ビールはやはりうまいなあ」とつぶやいている。決して飲めないものでもなさそうだ。

「選択」という雑誌を読んでいたら、米欧に始まった「ソバーキュリアス(選択的非飲酒習慣)」が日本でも静かに広まりつつあるという記事が出ていた。ソバー(sober)は「しらふの」「酒を飲んでいない」、キュリアス(curious)は「興味がある」といった意味の英語だ。記事によると、大規模なパーティーでは普通、キリン、アサヒ、サッポロ、サントリー4社のビールが卓上に並ぶが、最近ではさらに4社のノンアルビールも並べられているそうだ。

さっそく4社のノンアルビールを買ってきた。キリンは「グリーンズフリー」、アサヒは「ドライゼロ」、サッポロは「ザ・ドラフティ」、サントリーは「オールフリー」という銘柄だ。サッポロだけはアルコール分が0.7%で、あとは3社とも0.00%と表示されている。ちなみに、酒税法では、アルコール分が1%未満であれば酒類にならない。つまり、アルコール分が0.00%から0.99%までは「ノンアルコール」と表示できる。

で、試飲の結果だけど、いやあ、まずい、まずい。アルコール分0.7%のサッポロには少しだけ期待したが、とても飲めたものではない。ノンアルビールによる休肝日の設置はあきらめるしかない。でも、大腸がんも心配だ。そこで、また思いついた。これまでは夕食から寝るまでずっと飲み続けていたが、夕食後、2階の自室に上がって、本を読んだり、パソコンに向かったりしている間だけは、酒を飲まないことにしよう。休肝日ならぬ「休肝アワー」である。さっそく、これを励行している。

「町医者」の先生方とのお付き合い

暇に飽かしてスマホをいじっていたら、11月1日は語呂合わせから「いい医療の日」というのが出てきた。ワンワンワンから「犬の日」でもある。さらに、11月14日は同じく語呂合わせから「医師に感謝する日」だとか。「11」は「人と人」だそうだ。ちょうど今は11月だ。じゃあ、医師の話でも書いてみようか。

今年の初め、(気色の悪い話で申し訳ないけど)鼻水がちょくちょく出るようになった。早速、自宅近くの行きつけの耳鼻咽喉科医院に行ってみた。先生は声がはきはきしていて、愛想がいい。多い時には、待合室に20人やそこらの患者がいて、随分と流行っている。

2週間分の薬を処方してもらった。ところが毎日、真面目に飲んでも、全くよくならない。また、同じ医院に行き、別の薬を処方してもらった。でも、よくならない。3回目、4回目、5回目、それぞれ別の薬を処方されるが、依然としてよくならない。「先生、全くよくなりませんが…」と訴えると、「まだ、20種類くらい、別の薬がありますよ」とのこと。少し頭にきた。薬の実験台にされるのはご免だ。別のところに行ってみようか。

ネットで「川越市耳鼻咽喉科」と検索してみたら、「評判の耳鼻咽喉科6医院」というのが出てきた。誰が書いたのかは分からないが、その6医院の中には、僕が通っている耳鼻咽喉科も入っている。ちょっと驚いたけど、とりあえず6医院の中の別のところに行ってみることにした。わが家からはやや遠くて、電車でひと駅ある。

そして「おくすり手帳」も持参して見せ、「これだけいろんな薬を飲んでも、よくなりません。ちょっと変じゃないでしょうか」と、初対面の医師に訴えてみた。すると、「この先生は私の先輩で、非常に尊敬している方です。薬を処方する順番も全く正しいです」と、逆に僕が説教されてしまった。

仕方がない。「最後にもう一回だけ」と決めて、また元のところに行って、さらに別の薬を処方してもらった。飲み終えても、やはりよくならない。あきらめて放っておいたら、2週間後だったか、3週間後だったか、鼻水はあまり出なくなった。薬が遅れて効いてきたのか、自然に治ったのか、それは分からない。

30年以上通っていた東京・都心の歯科医院が昨年11月に医院を閉め、院長の息子がやっている別の歯科医院に通い始めた。閉院の理由は、院長が「80歳になったので、この辺りで…」と言っている――という話は以前に書いた。

ところが、しばらくは機嫌よく息子の歯科医院に通っていたのだが、このところ診療料金を巡って、息子との関係がギクシャクし始めた。実は、父親の歯科医院では、3か月ごとに行く定期検診で払うカネは、保険がきいて3千円ほどだった。高い時でも4千円か5千円だったと記憶している。ところが、息子のところでは、保険がきかず1万1千円も取る。
1千円は消費税だろうか。

これには、僕もいささか責任がある。最初に行った時、息子から「保険で3回、3千円ずつ払うよりも、保険なしで1回、1万円でどうですか」と言われ、よく理解しないまま、なんとなくOKしてしまったのだ。

しかし、保険がきかずに1回で1万1千円とは、どうも納得がいかない。前回、「なんで保険がきかない?」と、聞いてみた。すると、「制度が変わったもので…」と、これも納得がいかない。「じゃあ、保険がきくようにするには、どうすれば?」「1回ではなくて、2回来てもらえれば…」「その料金は?」「1回で4千円か5千円くらいでしょうか」

実は、息子の医院で僕を診療するのは、30年以上も世話になってきた例の先生なのだ。完全に引退するのは寂しいのだろう。息子のところで週2回、働いている。僕と息子とのやり取りを聞いて、心配そうに「ここは技術が高いですから、料金も少し…」と、僕の耳元で囁いたりされる。じゃあ、先生がやっていた歯科医院は技術が低かったのですか? さすがに僕もそこまでは言わなかったが、いずれは決着をつけなければ、と思っている。

もう1か所、割合によく通っているのは、わが家から歩いて15分ほどの整形外科医院である。僕もさすがに寄る年波…肩が痛い、太ももが痛い…ということがよくあって、そのたびにお邪魔している。医師はもう90歳に近いはずである。少し前までは午前午後、普通に医院を開いていたのだけど、体にきついのだろう、最近は午前中しかやっていない。しかも月に2回ほど、同じく整形外科医の息子がどこからかやってきて、代診している。老先生は耳もかなり遠くて、判断が正しいかどうか、失礼ながら、疑問に思うこともある。

最近も左の太ももが痛いので、老先生が処方した「抗炎症血行促進剤」を塗っていたが、一向によくならない。そこで、息子が代診の時を狙って行ってみると、「これじゃ、痛みは取れませんよ」とのこと。「経皮鎮痛消炎剤」なるものと痛み止めの飲み薬を渡された。

「いい医療の日」や「医師に感謝する日」からは内容がいささか離れてしまったが、ほかにも僕が行きつけの町医者は内科&外科、眼科、皮膚科、胃腸科…といくつかある。慶應義塾大学病院にも定期的に通っている。腎臓・内分泌・代謝内科、整形外科、恥ずかしながら泌尿器科といったところだ。それらの話はまた別の機会に……。

AIとどう付き合うか

孫正義さん(ソフトバンクグループ会長兼社長)がAI(人工知能)のことで何やら吠えてますよ」と、中国人の知人が中国の経済ニュースの映像を送ってくれた。孫さんの日本での講演がテレビ朝日で報じられ、それが中国でも流れたみたいだ。さっそく見てみた。映像の冒頭には「AGIを知らない? うーん…まずやばいということを知ってください」と、相手を小馬鹿にしたような孫さんの発言が出てくる。聴衆の誰かが「AGIって、何ですか」とでも言ったのだろうか。

もっとも、恥ずかしながら、僕もよくは知らない。ネットのフリー百科事典ウィキペディアなどで調べてみると、「AGI」はArtificial General Intelligence の略で、日本語では「汎用人工知能」。人間が実用可能なあらゆる知的作業を理解、学習、実行できる人工知能であると書いてある。人間と同様の感性や思考回路を持つ人工知能だとの説明もある。いま盛んに取り沙汰される「ChatGPT」などの「生成AI」の先にあるもののようだ。ChatGPTとは、これもネットで探ると、「自然な文章を生成するAI」「まるで人間のように、自然な文章で対話できるAIチャットサービス」という説明が出てくる。

そして、孫さんによると「生成AIはすでに医師免許試験に合格するレベルにあり、10年以内には人間の英知を抜いてしまう」。それはAIが人類の約10倍賢くなることだとして、孫さんは人間とサルの知能の差に匹敵すると例えた。AIを人間とすれば、僕らはサルということになる。まさに、えらいこっちゃ、である。

それはそれとして、孫さんによると、我々は「サル」で安心しているわけにはいかない。彼は続いて「(日本人よ)金魚になりたいのか、なりたくないのか。日本よ、目覚めよ。なんで禁止するんだ、なんで使ってないんだ」と絶叫する。つまり、20年以内には人間より1万倍優れたAIが生まれるので、積極的に活用しないと、人間は脳細胞の数が1万分の1しかない金魚にまで落ちぶれるというのだ。サルのはるか下である。「なんで使ってないんだ」は最近、ある調査で「日本企業の72パーセントが安全性などの理由から生成AIの職場での利用を禁止している」との結果が出たことへの批判だろう。

ところで昔、新聞社で経済記者だった僕は1時間ほど孫さんにインタビューしたことがある。もう35年ほども前のことで、当時僕は40歳代後半、孫さんは30歳を超えたばかりだったが、早くも世間で頭角を現しつつあった。その彼と初対面の名刺を交換した後、僕がまず話した言葉を今でも覚えている。「僕はコンピューターを見たことはありますが、触ったことはありません。一体どんなものなのですか?」

すると、孫さんは「じゃあ、こちらにいらっしゃってください」と、デスクトップのパソコンが並んだ一角に僕を連れて行った。当時、ノートパソコンはまだ生まれていなかった。そして、彼は「パソコンではこんなことができます。こんなことも……」と、いろいろ操作して見せてくれた。「熊本では主婦たちが集まって、パソコンの勉強をしています。決して難しくはないですよ」とも言った。「無知」を自慢しているような僕を小馬鹿にすることはなかった。穏やかな青年だった。でも今、彼から「10年後には日本人はサルになり、20年後には金魚になる」と脅されている。心穏やかにはしておれない。

日本記者クラブでは最近、識者を招いて「生成AI」の勉強会を開いている。僕も一応、ここの会員なので先日、酒井邦嘉東京大学大学院教授の話を聞いてみた。「言語脳科学」が専門の人である。その酒井さんは冒頭、「生成AI」という言葉に異を唱えた。生成ではなく、これまで人間が与えたものを合成しているだけだから、「合成AI」に過ぎない。また、「対話型」のAIだとも言われているが、AIは相手の人間の心を推し量れないのだから、「対話風」に過ぎない。そもそも、AIは「創造」はできない。自分で考える前にAIに頼ってしまうと、思考力、創造力が低下してしまう――そう指摘した。

そして、考える力を育てるには、「紙」の本や新聞を読み、手で字を書くことが重要だと主張した。さっきの孫さんも「AIは見方によっては、核爆弾よりも危険だ」と言っていたが、酒井さんの言葉には思わず拍手してしまった。

僕は新聞や本をそれなりに読んでいるし、昔よりは減ったが、手で書くことも少なくはない。現に、このブログもまずペンで書き、あとで推敲しながら、パソコンに打ち込んでいる。この生活を続けていけば、将来、サルや金魚にならないで済むかもしれない。

隣人の「死去」を知らずに「不義理」も

わが家の玄関先からぼんやりと道路側を眺めていた。すると、70歳代の夫婦が暮らす筋向かいの田中さん(仮名)宅の様子がおかしい。黒い服を着た数人が家に中に入って行く。「骨箱」のようなものも見える。家の前に止まっている車の中に人影が見えたので、寄って行って「失礼ですが……」と尋ねてみると、「母が亡くなりました」とのこと。車中の人影は、長らく会っていないが、この家の次男だった。田中さん宅とはもう数十年来の付き合いである。慌ててお悔やみに行った。

仲のいい夫婦で、わが家2階の僕の部屋からは、二人で車に乗って出かける姿をちょくちょく見かけていた。その夫の話によると、2週間ほど前の昼食後に妻が突然倒れた。救急車を呼んで入院させたが、退院もかなわぬまま、亡くなってしまった。心筋梗塞だった。夫は「私は妻がとても好きでした。長患いのあとだったら、まだ少しはあきらめもつくのですが……」と、涙にくれていた。

わが家にはそれを誰も知らせてくれなかったから、つい失礼してしまった。ほかの近所の人はどうだったのか。まずは向かいのAさん宅に電話してみた。田中さんの隣の家である。かなり前に両親を亡くした50歳代の女性が独り暮らししている。彼女も「全く知りませんでした」と驚いていた。

ついで、わが家の右隣のBさん宅に電話すると、ここはちゃんと知っていた。それどころか、市の斎場であった通夜には、わが家の左隣のCさんと一緒に行ってきた。「お宅は見えませんでしたね」。そう言われても、知らなかったのだから仕方がない。Bさんたちは田中さん宅に救急車が来たのを知っていて、成り行きに注意していたらしい。わが家はたまたま留守していて、救急車のことさえ知らなかった。

そのBさんは電話口で「ところで、山田さん(仮名)の奥さんも亡くなったのをご存知ですか。もう2か月近く前のことで、自治会の会報にも載っていましたけど……」とおっしゃる。えっ、それも知らなかった。山田さん宅は田中さん宅からわが家とは反対の方に隣の隣である。80歳代の夫婦が暮らしていた。こことも数十年来の付き合いである。慌ててお悔やみに行った。

普段はやや気難しそうな夫だが、亡くなって2か月近くになるせいもあるのか、淡々と話してくれた。妻はまず、乗っていた自転車から落ち、骨折して3か月ほど入院していた。退院して「やれやれ」と思っていたら、今度は末期の癌が見つかり、亡くなってしまった。

田中さん宅、山田さん宅のように、最近は近所の人が亡くなったことを知らず、すぐには駆けつけないで不義理をしてしまうことがたまにある。ひとつには、わが団地の自治会が会員の訃報を詳しく知らせなくなったことがある。

以前は、誰かが亡くなると、その都度、姓名、所番地、通夜と葬儀の予定、喪主、さらには死因を団地内の掲示板に張り出していた。ところが、今は姓名と亡くなった日や年齢が月1回の会報に載るだけである。「個人情報保護」のためらしく、遺族の意向でその簡単な訃報さえ載らないこともある。会報の死亡記事にいち早く気づいたとしても、例えば、「〇〇 〇子さん」だけだと、どなたなのか、特定しづらいことがままある。よほど親しかったなら別だが、〇〇さん宅の妻や夫の名前までは知らないことが、結構あるからだ。

個人情報うんぬんに加えて、コロナ禍のせいもあって、「家族葬」が増えるなど、葬儀が随分と簡便になってきたようだ。それはそれで悪くはないのだけど、以前、東京・築地本願寺の僧侶から聞いた言葉をふと思い出した。「家族葬は簡便でいいのですが、あとで『知らなかった』などと言って、個別に弔問に来る方が必ずいらっしゃいます。遺族にとって結構煩わしいです。ですから、弔問に来てくれそうなところには、最初から案内を出し、それなりの葬儀をしておいたほうが、結果的には楽です」。お寺の「営業政策」も絡んでいるのかもしれないが、それなりにもっともな話ではある。

じゃあ、僕の場合はどうしようか? 家族葬にするか、少し盛大にやるか。葬儀の仕方について、遺言を書いておいた方がいいかもしれない。ただ、僕は今のところ、茶寿つまり108歳までは生きるつもりでいる。これからまだ四半世紀、25年もある。まあ、じっくりと考えていこうと思っている。

仰げば尊し わが師の恩……

この9月10日、中国・ハルビン在住の中国人女性から1通のメールが届いた。メールは「教師の日、おめでとうございます」で始まり、「先生のご恩は決して忘れることはありません。本当に心から感謝しております」と続く。あと、僕の健康を尋ねたり、自分や家族の近況を述べたりして文面は終わるのだが、彼女は昔、ハルビンの大学で僕が日本語を教えた学生のひとりだ。今は母校の日本語科で准教授になっていると聞く。僕がハルビンを離れてから、もう20年近くになるが、毎年9月10日になると、律儀に「先生のご恩は……」のメールがやってきて、面はゆい気持ちにさせられる。

ところで、「教師の日」、中国語で言う「教師節」は、いま教えてもらっている先生や昔の恩師に感謝する日で、中国では1985年にできた。僕も中国で教えていた頃には花束をもらったりしたことがある。台湾では孔子の誕生日である9月28日が教師の日だ。日本ではなじみが薄いが、教師の日を設けている国は多く、国際連合教育科学文化機関ユネスコ)も10月5日を「世界教師の日」と定めている。

そして、さっきの女性からは、それほど「ご恩」を感謝されるはずはないのだけど、日本で新型コロナ感染症が流行り出し、マスク不足が騒がれていた頃には、中国から段ボール箱いっぱいのマスクを届けてくれた。その前には1年ほど、新潟県庁で研修を受けていたが、帰国する前には、わざわざ新潟から僕の住む埼玉県まで日帰りでやってきて、ご馳走してくれた。今や、僕の方が逆に「ご恩は決して……」の立場になっている。

一般的に言って、日本人よりも中国人のほうが、学生・生徒と教師との「情」といったものが濃いように僕には思われる。中国の教師の日があったこの9月にも、僕は日本にいる中国人の教え子ふたりからそれぞれ、多大な接待を受けてしまった。

ひとり目は、中国南方の桂林と南寧で僕が仲間とやっていた塾に、高卒で19歳の頃から通っていた女性である。彼女はその後、日本に留学して名古屋の大学を卒業し、今は岐阜県中津川市にある自動車関連の企業で働いている。コロナ禍以前は東京や大阪・京都でたまには会っていたが、コロナ禍もあり、しばらくご無沙汰していた。「ついては、久しぶりにお目に掛かりたいです、金土日の2泊3日で夫婦で遊びに来ませんか。宿は中津川の隣の恵那温泉に取っておきます」との彼女からのお誘いが飛び込んできた。

嬉しくて、二つ返事でOKした。3人一緒の際の食事代だけは強引になんとか僕が払ったが、宿代はついつい彼女に甘えてしまった。3日間、自分の車であちこちを案内してくれたが、ガソリン代も高い折、これも大変だったろうなあ、と申し訳なく思っている。

もうひとりは、南寧で大学生だった男性で、大学に通う傍ら、僕の塾に出入りしていた。その後、札幌の大学に留学して「農学博士」になり、この春からは横浜の大学の「特任助教」になっている。僕が北海道に旅行した折、2度ほど一緒に食事したことがある。その彼が9月下旬、横浜駅前の高層ビルにあるしゃれた居酒屋に招いてくれた。「僕、給料が多いんです」という彼の言葉を真に受けて、たっぷり飲んで、酔っぱらってしまった。

僕は、教え子に物をもらったり、食事をおごられたりするだけで感激してしまう、なんとも次元の低い「恩師」ではあるが、ふと、わが小学校時代の恩師のことを思い出した。僕は小学生の頃、住まいは大阪だったが、4年生の2学期から6年生までは越境して電車で奈良の小学校に通っていた。

その恩師が晩年、冗談交じりに言っていた。「小学校の教師を40年近くやっていると、担任した子たちは千人にはなる。時折、そのうちの誰かが訪ねて来てはご馳走してくれる。ただし、この子たちは実に堅実でもある。大阪のキタやミナミの盛り場に誘ってくれる子など、ひとりもいない。おごってくれるのは、奈良市内の安いスナックでばかりだ。恩師がワインも酒も飲めなくなってから、キタやミナミに連れて行ってくれるのだろうか」

よし、そうまでおっしゃるならば、と僕は一念発起した。奈良からは離れた北陸の豪華温泉旅館に「クラス会」の場を設定し、用意万端を整えて恩師を招いた。ところが、恩師は直前、体調を崩されて、「音声テープ」のみでの参加となり、まもなく亡くなってしまった。我田引水ではあるが、恩師へのご恩返しはお早めに、という教訓でもあった。